187.恋愛相対性理論
好きな人に何でもしてあげると言われた時、どういう選択肢を取るのが正解なのだろうか。
姫野桃香の目の前に立ちはだかったのは、そんな望外の幸運だった。
「うう~~~!」
授業と授業の合間の休み時間、姫野は自分の席に突っ伏しながら唸り声を上げる。
周囲のクラスメイトはびくっとしていたが、そんなものを気にしている余裕は皆無だった。
視線を落とすと白紙のままのノートが目に痛い。
さっきの授業も一切集中できなかった。普段からろくに聞いていない気もするが……。
「頭がばかになっちゃってるよお……」
こんな些細なことで日常の全てが揺さぶられる。
おかしくなっているのは自覚しているが、それでどうにかなるなら苦労はしない。
恋愛とはここまで人をバグらせるものなのか。
幸運とは言っても、自分が彼女を――神谷を助けたという自覚はあった。
だから、その時はとにかく無我夢中ではあったが、少しも見返りを期待していなかったといえば嘘になる。
ただ返ってきたものが姫野にとってあまりにも膨大だった。
財布を拾って交番に届けたら、その中身が1億円だった時のような気持ちだ。
しかし、神谷は軽すぎないだろうか。
できる範囲ではあっても『何でも』とは。もし自分ならよっぽどでなければ言えない。
誰にでもこんなことを言っているのではないだろうなという疑念が首をもたげてくる。
「どしたんお姫。さっきから恋する乙女みたいな声をして」
「聞いてよあーちゃん、私宝くじ一等当てちゃった」
「マジで!? 半分ちょうだい!」
「ごめん例え話……」
前の席から話しかけてきたのはクラスメイトのあーちゃん。
眼鏡に三つ編みという風貌だが、見た目に反してカラッとした社交的な性格で、同性に嫌われがちな姫野に珍しくできたまともな友人だ。
こういう髪型にしておけば大人に目をつけられにくいというのは本人の弁。
「そっかー、姫もとうとう恋するお年頃か」
「来年高二なんだけど」
「して、その好きな人とやらはどんな輩なので?」
「聞いちゃう? えっとねー、可愛くてー、かっこよくてー、強くてー、私にすごく優しくしてくれて、それでそれで」
「ストップ。充分わかった」
ノってきたところを中断されて不満そうな姫野だったが、放っておけばいつまで続くかわからなかったので致し方なし。
「……まあなんでもって言われても困っちゃうよねえ」
「そうなの! もうどうしたらいいかわかんなくて……」
「付き合ってって言っちゃえば?」
「それは……」
その考えは姫野の中にもあった。
本当になんでもしてあげると言うのならば。
そう言った選択肢もあるのではないかと。
しかし、
「ううん、それはたぶん無理だと思う。できることならって言ってたし」
「えー? 予防線っぽくてやだな」
「……うん。でも、たぶんほんとに全部受け入れてくれるとしても、私は付き合ってほしいとは言わないよ」
そんなことで無理に付き合ったところで意味がないから。
それは想いが成就したとは言えないから。
「そっか」
「まあ、だから悩んでるんだけどね……あーもう、どうしたらいいんだろ!」
再び頭を抱える姫野を見たあーちゃんは目を細め呟く。
「……いい子だね、姫」
少女が悩んでいる間にも時間は進み、授業も進む。
気づけばまた次の休み時間になっていた。
退屈な授業があっという間に終わる。結構なことだ。
それならいっそのこと常に恋愛の渦中に身を置いて…………
「私はもうだめかもしれない」
「んー?」
「ちょっと飲み物買ってくるね……」
こんなのが年がら年中続いたら身が持たない。
そーたいせーりろん、と呟いて教室を出た。
姫野たちの教室がある二階から降りて、一階。
そこから校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の入り口に真っ赤な自販機がある。
人の通りが多い場所なのでだいたい誰かが利用しているのだが、今日も先客がいた。
「んっ……ん~~~!」
低い背丈を精いっぱい伸ばして一番上のスイッチを押そうとしているその人は、まさに現在姫野の頭を悩ませている張本人だった。
(あんまり可愛いことしないでほしい……)
姫野はため息をついて近寄り、彼女が目指すドリンクのボタンを押してやるとガコンという音を立ててペットボトルが落ちてくる。
「せんぱい」
「あー桃香か、びっくりした。ありがと」
神谷は取り出し口に手を突っ込んでボトルを拾い上げる。
もうちょっとで届きそうだったんだけどね、と苦笑しながら蓋を開けると温かいレモンジュースを飲み始めた。
ごくごくと動く白い喉にしばし目を奪われていると、三分の一ほど飲んだあたりで口を離した。
「……ぷは。ジャンプしたら届くんだけど負けた気になるんだよね」
「あはは、負けず嫌いですね」
「桃香はなに買う? 先輩がおごってあげよう」
「え、いいですいいです」
そう? と首を傾げる神谷に頷きを返し、硬貨を入れてミルクティーを出す。
なにが飲みたかったわけでもないが、気が付くとこれを選んでいた。
開け放たれている渡り廊下の近くと言うこともありかなり寒い。
喉が渇いているわけでもないので蓋は開けず手の中で遊ばせる。熱を持ったペットボトルがじんわりとその温度を姫野の手に移していく。
どうするべきだろう。
答えが出るまで会うつもりが無かったので非常に困る。
冷静に考えると、同じ学校なのだからこうして鉢合わせる可能性は十分すぎるほどにあったはずで、しかしそんなことにも頭が回っていなかった。
(どどどどうしよう)
もじもじと床をこする爪先が止まらない。
そうしている間にも無言の時間は積み重なり、それに比例して姫野のテンパり具合も加算されていく。
「そういえばしてほしいこと決まった?」
「ひえっ!? い、いえそのですね、どうしよっかなーって、あはは……」
突如投げ込まれた直球ど真ん中に一瞬でメーターが振り切れる。
わたわたと荒ぶる両手からペットボトルがすっぽ抜け、どうしたらいいのかわからなくなってしまった姫野が選択したのは――逃げの一手だった。
「ま、またこんどー!」
背を向けて、ひた走る。
視界の端に、壁の張り紙が見えた。
『廊下は走らない』。
「……!」
きゅ、と上履きの裏が悲鳴を上げる。
じくじくとわずかに疼く膝。怪我の事を忘れていた。
立ち止まれてよかったと思う。
そうでないと彼女のもとへ二度と近づけないような気がした。
ゆっくり振り返ると、心配そうに見つめてくる神谷の姿。
「桃香……」
始業チャイムが鳴り響く。
スピーカーから聞こえるその大音量は、二人の足を動かすことはない。
「先輩。お願いがあるんです」
少女が口にしたのは、わがままで――しかしささやかな願いだった。




