145.センパイとコウハイ
まとまらない考えに苛まれながら自室でぼんやりしていると、とっぷりと日が暮れていた。
神谷は悩みを振り払うように、今やるべきことを鈍い頭で思い返す。
「……明日の英語、予習しとかなきゃ」
テキストとノートをテーブルに広げ、かちかちとシャープペンシルの芯を押し出す。
――――ごめんなさい。
「今日どこまでやったっけ……違う、コミュじゃない……ええと英語Ⅱは……」
鞄の中をごそごそと探るが見つからない。
学校に置いてきたかな、取りに行こうか……と考えながら部屋をうろうろしていると、本棚に入っている青い背表紙が見えた。
――――頑張って説得したんだけど聞いてくれなくて。
「あったあった」
気を取り直して再開する。
長文読解および和訳。あらかじめやっておけば授業も頭に入ってきやすいことを、神谷は良く知っていた。
試験前に慌てて詰め込むよりも、こうして日ごろから予習と復習を欠かさなければ定着するし忘れにくい。なによりあくせくしなくていい。どちらかというと効率を重視する神谷はそういった勉強方法を取っていた。
――――ほんとうに、なんて謝ればいいのかわからない。
ぱき、と何かが折れる音。
シャープペンシルの芯が折れてしまった。
「…………ふー」
スズリとはフレンド登録を交わしていたが、メールでのやり取りをするのは初めてだった。
あんな内容を『初めて』にしたくなかったというのが本音だが。
このままではアトリエが奪われる。極めて理不尽な方法で。
悪いことなど何もしていない。だけど、向こうから見ればそうではない。はっきり言ってあのギルドリーダーは――ユスティアは偏った考えの持ち主だと思う。しかし彼女の言い分を否定しきれないのも確かだった。
だとしても、このままされるがままになりたくはない。
だがどうすればいいのかわからない。
八方ふさがりで、どこを見ても暗闇が広がっている。
フランのようにある程度諦めてしまうのが賢い選択なのだろう。
そんなことはわかっている。神谷はあのアトリエの持ち主というわけでは無いのだ。
理不尽なことは生きていればいくらでもある。
言ってしまえばこうして神谷がこの世に産み落とされたことだって”理不尽”の産物だ。
「――――…………でも」
それを仕方ないと割り切れるほど、神谷は大人ではない。
「先輩。先輩ってば!」
「えっ? え、えーとなんだっけ。桃香は今日もかわいいなー……?」
「雑な褒めかたはのーさんきゅーです!」
いーっ、と不満を表明する後輩。
昼休み、お手洗いに行った帰りに桃香に遭遇した。
そのまま立ち話をしていたのだが……途中で上の空になってしまっていた。確かにこれはよくない。ぱちんと片頬を叩く。
俯いた先で自分のつま先がリノリウムの床を擦るのが見えた。
「どうかしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
即答した。
考える前にそう言っていた。
随分と嘘がうまくなってしまった、と少し落ち込む。
「……先輩……」
それを聞いた桃香の眉がきゅっと寄せられた。
どきりとする。何がうまくなってしまった、だ。ニヒルを気取ったところで何も変わらない。
神谷は内面を隠すのが苦手だった。
「もー、また!」
「あ…………」
「ほら、ちゃんとこっち見てください」
むに、と両側の頬を手で包まれて強制的に顔と顔を対面させられる。
じっと見つめてくる瞳から目を逸らそうとして、
「逸らさない!」
「…………っ」
ぴたり、と視線が固定される。
今は昼休み。廊下を行く生徒たちはそれなりにいて、神谷たちは当然その視線を集めていた。
だが今はそんなこと気にならなかった。桃香もまた、神谷だけを見ていた。
こうして間近で見つめてみると、本当に可愛らしい子だと思う。
すべすべの肌に、リップでも乗せているのか潤いのあるピンクの唇。そして大きなくりくりとした目。
「……瞳、くすんでます」
「え、ほんと?」
「いつもは宇宙みたいにきらきらしてるのに、今は炭みたいです」
「炭って……」
そんなにか。
ツヤが無くて、乾いていて、そして……炭というのは、死んだ木とも言える。
「いや、炭だって役に立つよ。燃えるし、黒くてかっこいいし……」
「そういう話じゃないんですよ」
「はい」
ぴしゃり。
この状況だと、桃香から逃げるすべはない。
「何かあったんでしょう。話してください」
「その前に離してほしいんだけど……」
「ダメです。逃げられたら追いつけないので」
観念するしかないのだろうか。
この子を巻き込みたく無いが……と、いつもと同じような思考に陥ろうとしていることを自覚する。
そうやって遠ざけるばかりでは、本当に仲良くなるなんて無理なのではないか。
本当に大切なのは、相手が何を望んでいるかではないだろうか。
なら、聞いてもらうことも歩み寄りかもしれない。
そう考えた時には、神谷の口は開いていた。
「……あのね桃香。実は――――」
――――もしくは。
もう抱えきれないほどに弱っていただけなのかもしれない。
「なるほど、あのアトリエが…………」
「まあ、アトリエなら買いなおせばいいし大丈夫だよ。別にあそこにこだわらなくたって――――」
「それは誰が言ってたんですか?」
「……誰って。それはもちろんわたしだよ」
「そうやって割り切れるならそんな顔はしないと思います」
ため息交じりの指摘にぎくりとする。
確かにこれはフランの言葉だ。
そんなにひどい顔を今の自分はしているのだろうか。なら、もしかしたら園田たちも感づいているかもしれない。
「…………でも、これが正しいんだよ。実際どうしようもないわけだし」
「正しくないとだめですか?」
「え?」
「正しくなくても、それがわかってても、間違った方を選びたいときだってあると思いますよ、私は」
そうかもしれない。
間違っているとわかっていても、正しさに背を向けずにはいられない時がある。
人間なのだから。
向き合うべきことから逃げたり、誰かをいたずらに傷つけてしまったり、愚かな道を愚かだとわかった上で進むことが――間違いなくある。
「大丈夫です。この可愛い後輩が一肌脱ぎましょう」
「でも、そんなのって」
「いーんです! 先輩は笑ってる時が一番かわいいんですから。そんなしょぼくれた顔ばっかり見たくないです」
人に頼ることには、いまだに臆病だ。
でもこの後輩を見ていると――寄りかかるべきかもしれないと、そう思わされてしまう。
先輩のくせに後輩に助けてもらうなんて情けない。そんな思いが無いと言えば嘘になるが……笑う彼女はそんな暗闇を感じずにいさせてくれる。
「それに……私たちの仲じゃないですか。ね?」
「……! ……あは、じゃあ頼もうかな」
「そうそう、そういう顔ですよ!」
本当に大事なのは何か。
プライドだとか、先輩の威厳だとか、心の奥底に残る傷だとか、そんなものではきっとない。
それらすべてを集めても、到底敵わないくらいに輝くものを守るべきだと、そう思った。
「ありがとう、後輩」
「任せて、先輩」
頷き合い、手と手を力強く合わせて別れる。
(――――先輩。きっとあなたならこうして元気づけてくれますよね)
大切な人が悲しんでいるなら、自分にできることをできる限りする。
神谷はそうしてくれた。
(だから今度は……私が、あなたのように)
どこまでやれるかはわからない。
上手くいかないかもしれない。
それでも動き始めたら止まらない。
「…………あ、お兄ちゃん? ちょっとお願いがあるんだけど…………」
決意でその身体を満たし、少女は歩き始める。




