120.いつだって君を
どこかの部屋。
滑らかな合成音声が静かに響く。
『目的としては奴の確保だ。だが万全を期さなきゃならねえ』
『あいつは油断ならない。下手なことをして失敗したらみすみす手がかりを送っちまうことになる』
ぱんぱかぱーん、と緊迫した空気にそぐわない軽快なファンファーレが鳴り響く。
討伐対象を撃破したことでクエストがクリアされたのだ。
「や、やった……」
着地したミサキは勝利の実感に震える。
何度もダメかと思った。最初から最後まで苦境の連続だった。
だが、間違いなくこの超高難度クエストはクリアされた。
「やりましたね、ミサキさん!」
「……ま、よくやったんじゃない? おめでと」
翡翠とカーマが口々にねぎらいの言葉をかける。
それを聞いたミサキは得意げに笑った。
『で、なんだが。質問をさせてもらうぜ――――』
『なあお前さんよ。人間が一番油断してる時ってのはいつか分かるか?』
「みんなありがとう。このメンバーでよかった。みんなほんとに強かったよ」
「あたしは……そんなに役に立ってない気がするけど」
「そんなことないよ! だってずっと回復してくれてたし、カーマのピンチも助けてもらったし……」
「……はいはい、いいからフォローは。それよりもあれ、お目当てのものでしょ」
フランは少し照れくさそうに手を振った後、ミサキの頭上から降りてくるものを指さした。
それは金色の光を放つ本だった。ゆっくりとミサキの目線まで降下したかと思うと、ふわふわと空中に浮いている。
これがおそらくグランドスキル習得アイテムなのだろう。
『自宅にいるとき? ……はは、違うね』
『答えはな――――』
ミサキは他の三人に目線で「いいの?」と聞くと、何をいまさらと言う感じに頷かれた。
もとよりそのためにこのクエストへ挑んだのだ。
「……ほんとにありがとね」
噛みしめるように微笑する。
本当に恵まれすぎているな、と思った。
良き仲間たちに囲まれ、ミサキは輝く本に手を触れる。
すると本は金色の光と化し、ミサキの身体へと吸収される。
光の粒子すべてが収まったとき、視界に《グランドスキル【ビッグバン】を習得しました》というメッセージが表示される。
「これがわたしのスキル……【ビッグバン】」
ミサキにとって初めてのスキルだった。
武器に付与されたスキルを使うことは例外としてあったが、彼女自身のものとしては初めてだ。
初めてこの世界に来た時に武器とスキルを使えないというハンディキャップを背負ったミサキとしては、感無量だった。
「おめでとう。よかったわね」
「うんっ! あ、そうだ。ラブリカとくまさんに連絡しなきゃ――――」
『獲物を仕留めた時だよ』
音はなかった。
誰も予想できなかった。
いまだ消滅していない『終焉の偶像』の亡骸がぱっくりと開くことなど。
「――――え?」
その裂け目には真っ黒な奔流が渦巻いていた。
のぞき込めばのぞき込むほど引きずり込まれてしまいそうな深淵から、真っ黒な粘液がぐじゅりとその魔手を伸ばす。
「マリス…………っ!?」
完全に虚を突かれた。
ボスが消滅しなかったのも、特別なモンスターなのだからそういうこともあるだろうと気に留めなかった。
……いや、そうではない。
心にわずかな、しかし確かな引っ掛かりは存在して、それを看過していた。
疲れはきっとあった。気も緩んでいた。
それも仕方のないことだ。強敵に勝った直後だったのだから。
だがこれを仕組んだ何者かは、それをこそ狙っていた。
黒い粘液――マリス・シードは一直線に”その少女”を狙う。
錬金術士、フランを。
「…………あ、」
反応できなかった。
目前にそれは迫っていた。
フランは感染を覚悟し、そして。
「だめだあああああああっ!」
視界に割り込んできたミサキを目の当たりにした。
「ミサキさん!?」
「何なのよこれはッ!」
悲鳴を上げる翡翠とカーマ。
対してフランは声も上げられなかった。
目の前でマリスをまともに受け止めたミサキは黒い粘液に侵されていく。
すさまじい勢いで全身を浸食され、抗おうにも抗えない。覆われたその下では肉体が、そして精神が歪められていく。
「……ご……めん……ちょっと駄目っぽい……」
「な……なんであたしなんてかばってんのよ!」
感染してしまえばもう不可逆だ。
マリスの力を持つ彼女と言えど、直接『原液』を注入されてはどうにもならない。
「……だって……立場が逆なら……フランは……きっと、同じことを……ぐうっ!」
そんな仮定に意味はない。
だってどちらが犠牲になると言うなら、きっと心も身体も強いミサキよりは自分のほうがいい。
今回のボス戦だって本当は大した活躍はできなかった。
仮定をするのであれば、マリスと化したフランをミサキが倒すほうが確実だ。
そんな考えがぐるぐると回る。
フランは自信を失いかけていた。アイデンティティの喪失が、彼女を揺るがしていた。
粘液がほとんど全身を覆い、あとは顔を残すのみ。
もうどうにもならない。
だが当のミサキは僅かな憂いも抱いてはいなかった。微笑の形に口元を変え、言う。
「じゃあ……あとよろしくね、フラン……」
「…………!」
信頼。
きっとフランならどうにかしてくれるだろうという確信のもと、その言葉は紡がれた。
ミサキはフランの懊悩など知る由もない。だからそれを解消しようとすることもしない。
だが、これまで培ってきた二人の時間は確かな信頼になり、フランの心を打つ。
自分はいったい何を悩んでいたのか。
ミサキと自分の関係は、自分たち二人だけのものだ。他と比べる必要なんてないし、比べられるものでもない。
彼女が信じるというのなら。信じてみてもいいのだろう、他でもない、この自己を。
「わかったわ、ミサキ。この天才錬金術士に任せておきなさい」
胸を張って投げかけられたその言葉を聞いたミサキは力なく目元を緩め、完全に取り込まれる。
輪郭が歪む。膨張し、収縮し、変形し、空中へと浮かび上がっていく。
事情を知らない翡翠とカーマだが、うろたえるでもなく武器を構え、不測の事態に備える。
戦い慣れしているのだ、とフランは改めて理解した。
だがこの戦いにはどうしても巻き込めない。マリスには通常の攻撃が通じないから。
そして、理由はもうひとつ。
「翡翠。カーマ。あなたたちは逃げなさい」
「でもミサキさんが……!」
「ミサキがもしあなたたちを傷つけてしまったら! ……いったい、あの子はどれだけ……」
あの優しい子はそのことをきっと悔いるだろう。
深く深く自分を責めるだろう。
それだけはさせてはいけない。
「……わかった。任せていいのね?」
「信じてもらえるとありがたいわ」
素直に引いてくれたカーマに胸をなでおろす。
ここで言い争っている場合ではない。
……そして。それよりも。
任せられたのは自分だという自負。
ここを他の誰にも譲りたくないという子供じみた意地。
例え自分よりもミサキとの付き合いが長くても、これだけは。
この世界でだけは、彼女を一番に助けるのは自分でありたかった。
「あいつをよろしくね」
そう言って、カーマはまだ不満そうな翡翠を連れてログアウトした。
ボスは倒されているので、すでにこの空間からは自由に出ることができる。
フランの見上げる視線の先、マリスとしてのミサキがいつの間にか完成していた。
「――――――――」
一言で形容するなら――天使だった。
しかしその姿はあまりにいびつ。
サイズはもとのミサキとほぼ変わりない。
全身は真っ黒で、顔までものっぺりとしている。
そして特筆すべきはその背中。肩甲骨のあたりから巨大な腕のような部位が生えていた。
腕と言っても人間のそれとは大きくかけ離れている。
手の部分だけが極めて大きく、指も長く広げられている。反対に腕の部分は極端に短く――まるで翼のよう。
そして頭の少し上には輪っかが浮いていて、胸には脈打つ漆黒の球体が半分ほど露出していた。
「…………ちゃんと倒してあげる。だから安心して負けなさいよね」
歪んだ天使が静かに聖堂へと降り立つ。
夕陽を背に受けるその姿は、元のミサキからは悲しいほどにかけ離れていた。




