107.無貌ロケット
パンケーキの味なんてわかるわけがない。
こうして先輩といることは、我に返って見ると不思議だなと感じる。
誰かのことを私よりかわいいと思うことも、好きになることもないと不遜にも疑わなかった。
だけど、こうして先輩にパンケーキを食べさせて悦にひたっているのが今の私だ。
はあ、ほんとに可愛い。奇跡?
神様が手ずから生み出したみたいな可愛さ。彼女のアバターであるミサキが人気者になるのも当然だ。ただ強いだけではファンクラブなんてものができたりしない。可愛いのだ、彼女は。
でも頬にクリームをつけたりはしない。食べ方がすごく綺麗。意外と隙がない。いや、意外でもないかも。
この人、ゲーム内で背後から声をかけようとすると絶対その前に気付くから。
定期入れを忘れたのは本当に偶然だった。
考え事をしていたのがいけなかった。
もともと今日は沙月先輩をデートに誘おうとは思っていた。本音を言えばクリスマスイブを一緒に過ごしたかったが、彼女は園田先輩をはじめとした寮の友達と過ごすだろうと言っていたから。
だから今日。12月23日。クリスマスのイブのイブ。ぎりぎりクリスマスに関係のある日。
どうしてそこまでクリスマスにこだわるのかと聞かれれば、それがクリスマスだからと言うほかない。
気になる人とは一緒に過ごしたい日でしょ?
でも結局のところイブを逃している時点で負けたようなものだ。
戦う前から負けている。付き合いの長さと濃さでは、私は園田先輩たちには勝てない。
だから勇気を振り絞ってクリスマスイブの夜に誘ったって無駄だろう。23日を狙ったのはそういう理由もあった。
もし断られたら立ち直れないような気がしたから。
などと言いつつ、私は今日まで23日の予定を聞くこともできなかった。
それすら怖かった。勇気が足りなかった。気持ちを悟られて、距離でも置かれたら。それが一番怖かった。
だからもう諦めてしまおうとして、だけど自己嫌悪は拭えなくて、部のミーティングにも全然集中できなくて。
うっかりしていたのだと言うほかない。
ぼーっとしながら制服に着替え、部活の先輩たちに挨拶をして、駅まで歩いて、改札口でやっと気付いた。
同時に、これしかないと思った。
気が付けばスマホを取り出して沙月先輩に繋いでいた。
沙月先輩は優しい。
誰が何と言おうと。
わがままお姫様、なんて言いながらすぐに来てくれた。
冬でよかった。赤らんだ頬を寒さのせいにできたから。
私がいつも彼女をからかうのは照れ隠しだ。
てんぱってしまっていつも自分が何を言っているのか半分くらいわからない。帰ってから反省会。
前はそこまででも無かった気がするのに……気が付いたら平静でいられなくなっていた。
こんな接し方をしたって『そういう対象』としては見てくれないのはわかってるのにね。
勢いで誘ったものだからデートプランも何もない。
気が付けばあのゲームセンターに来ていた。
困った挙句ここを選ぶとは――それだけ思い出に残っていたのだろうと自覚する。
あの時、落ち込んだ私を元気づけようと必死な彼女の姿がなんだか面白くて、嬉しくて。
出会ったばかりなのに、しかも部活の勧誘ばかりされて煩わしかったはずなのに。
自慢だがこれまでの人生はおおむね順風満帆だった。
見た目と愛想が良かったのもあって周りの人には愛されていたし(これは人間関係に恵まれていたということも大きい気がする)、そうなる努力も怠らなかった。たまに性格のねじくれた同性から嫌悪を向けられることもあったが、疎まれるのは魅力がある証拠と受け入れた。
だからあの時――ゲームにログインした記憶が抜け落ちた時、あそこまで精神が落ち込んだのは初めてのことだった。
そんな時に優しくされたら、それはもう、もうだよ。仕方ないでしょ。
「今日めっちゃメダルでる! ねえ見てすごい出てるよやばいね!」
「ちょっと目を離した隙に先輩が銀色まみれに!?」
筐体からもりもり排出されるメダルを慌ててカップで受け止める先輩を見ていると思わず口元が綻ぶ。
みんな、ミサキが普段こんな感じなんて知る由もないのだろう。
ミサキファンクラブでおそらく唯一リアルで彼女との接点を持っているのは私だ。みんなが知らない彼女を私は知っている。そんな優越感を抑えることはできない。
だけど、私は本当は何を求めているのだろう。
先輩の”唯一”になりたいという気持ちはある。しかし、このままただの先輩と後輩でいたいとも思う。
他人のことを本当に理解することなんてできないと人は言うが、自分のことだってわからない。
「先輩、次はあっちのダンスゲームやってみませんか」
「お、いいね。行こう」
先輩の手を引いて歩く。
内心どぎまぎしているのなんて、きっと私だけだ。
ゲームセンターから出て、ひそかにため息をひとつ落とす。
三時間。
そんなものあっという間だ。
冬の夕陽は早上がりで、空はとっくに藍の色。
オレンジなんて欠片も無く、その残滓すら見つけられない。
「日が短くなったね」
「そうですね」
中身のない、置いただけの会話。
でも同じ時に同じことを思っていたことが少しうれしい。
「ねえ、今日楽しかった?」
「なに言ってるんですか。当たり前じゃないですか」
「……だったらいいんだけど」
衒いなく答えられたことに内心驚きを感じる。
うだうだ考えてはいたけれど、やっぱり楽しかったのだろう。それは間違いない。
でも先輩といると、その楽しさの何割かほどのもどかしさを感じる。
どうやっても届かない場所に手を伸ばしているような、そんな感覚。
駅へ向かって歩く。
その道の一歩ごとに、これでいいのかという気持ちがふつふつと湧き出てくる。
こんな尻込みしているのは私らしくない。
何をうじうじとしているのだ。
気が付けば駅の改札口。
別れの岸。
これでいいのか。
よくない。
もっともっとと心が叫ぶ。
私はもっと欲しがっていいはずだ。
躊躇う口を無理やり動かし、
「あ、あの! もう……」
もうちょっとだけ一緒にいてください、と続けようとした声は、着信音に遮られる。
ああ――だめか。
出ていいかと先輩が視線で問う。
自然に答えられただろうか。きっとできたと思う。
『――――――――』
「あれ、みどり。買い物終わったの?」
ああ、やっぱり。
天を仰ぎたくなる。
『――――――――』
「あちゃー……そろそろお開きかな」
「そう、みたいですね」
電話を切った先輩に相槌を打つ。
声は、たぶんちょっと震えた。
「…………えーと」
「あ、大丈夫です。私も私で用事があるので、このあたりで」
「そうなんだ…………」
慌てて取り繕ったものの少し気まずい。お互いに。
いや、私は普通に落ち込んでいるだけなので、気まずいのはたぶん先輩だけだ。
デートは終わり。
もうお別れ。
「……じゃあ、またね」
「はい! よいお年を」
うっかり勢いで年越しの挨拶をしてしまった。ゲーム内で会うこともあるだろうに。
恥ずかしさを振り切るように少し慌てて手を振って、踵を返して、改札を通る。
名残惜しそうに躊躇う足を動かしてホームへ。
…………楽しかったけど、でも、なんだろ。
寂しいな――――とこぼれそうになった時だった。
「桃香ー! 前の試合、応援しに来てくれてありがとー!」
ぶわ、と。
冷えた頬に熱が波打った気がした。
ああ、なんだこの人は。
離すならきっぱりしてほしい。
だけど、それでも。
嬉しい。
応援なんて当たり前だ。
来てほしいと言われたら、それは行く。行くに決まってる。
「……っはい! またいつでも行きます!」
だって私はあなたのファンなんだから。
がたんごとんと電車が揺れる。
椅子は埋まっているものの、この時間には珍しく空いた車内で、わたしはドアのそばに寄りかかる。
「沙月先輩、今日もかわいかったな」
揺れる。
電車が曲がる――のしかかる緩やかな重力に、手すりを握って耐える。
「今度あった時はまた別の場所に誘ってみよう。ちゃんと一日付き合ってもらって……」
揺れる。
(うん……今日の私は私らしくなかった。来年からはもっともっと頑張ろう)
揺れる。
少しだけ、前へ進む決意を。
ドアの外から見える暗がりの線路が照らされる。
向こうから別の電車が走ってきている。
「先輩は、優しいな」
電車がすれ違う。
轟音で声がかき消される。
「……すきだな」
その恋を聞いた者は、誰もいなかった。




