平穏な日々は既に無くて――。 ~Peaceful days are already gone.~
ロンドン郊外にある小さな個人経営の病院からは淑女の話し声が聞こえた。
「お医者様はご存知ですの? M・シェリーの“フランケンシュタイン”」
「えぇ、一寸だけでしたら……」
――嘘だ。俺は全て知っている。
そんな医者――エリックの心情にも気付かずに、水色のドレスを纏った淑女――ロザンヌは話を続ける。
「死体を継ぎ接いで怪物をつくるなんて神をも恐れぬ所業、とても同じ人間のしたこととは思えませんわ」
――俺だってそう思う。
ロザンヌの言葉は止むことがなく、むしろ饒舌にすらなっている。話しながらスカートのレースをいじくるのは、どうやら彼女の癖のようだ。
「ねぇ、先生。フランケンシュタインって存在すると思いますの? 医者としての先生のご意見をお聞きしたいですわ」
「フランケンシュタインなんて存在しないでしょう。あったら私たち医者の仕事がなくなってしまうじゃないですか」
「先生のおかげで安心しましたわ。あんなおぞましい継ぎ接ぎだらけの怪物が街を跋扈してたらと思うと、怖くて夜も眠れませんもの」
ロザンヌはホッ、と安心したように胸を撫で下ろした。どうやら彼女は本当に怪物を恐れていたようだ。
その表情からは安堵の色が見える。
「えぇ、それはよかった」
――あれは全部本当の話だ。あの悍ましい怪物は実際にいたのだ。あの怪物は俺の家族を奪った。そのせいで俺は永遠に平穏を失ったのだ。
俺のせいで喪うことになった恋人、家族のことを思うと、自分の不甲斐なさに自分で自分を殺したくなる。
エリックは無理矢理話題を変えようとした。
「そういえば、もうすぐ結婚なさるんですよね? 確かアラン = ノーランド子爵でしたよね」
「えぇ、ロザンヌ=スチュワートからロザンヌ=ノーランドに変わりますの。アランったら嫉妬深くて、今日も先生の所に行くって言ったら“お前、真逆あの医者と浮気しているんじゃないだろうな”ですって。まぁ~」
もうすぐ結婚するロザンヌは、よほど旦那となる男性と愛し合っているのだろうか。これでもかというように幸せそうな表情だ。
「あなたと浮名を流すなんて、私にそんな魅力があるように思うんですか?」
「先生もきっと、お洒落をすれば美しくなると思いますわ。では失礼いたしますわ、お医者様」
ロザンヌは颯爽と立ち去ってしまった。後にはエリックだけが残された。
ロザンヌが立ち去ると、すぐにエリックは箪笥に隠していた電話を出し、ある所へと掛けた。
「もしもし、エリックです。女王陛下はいらっしゃいますか?」
「――わかりました。今お繋ぎ致します」
交換手の女性は何事もないかのように、黙って繋いだ。
「エリック? 別にその名前じゃなくてもいいのよ……そっか、今、家にいるのか。じゃあ、エリックでいいや」
「陛下――」
「ここではヴィッキーと呼んでほしいわ。よろしくて?」
「わかりましたけど――」
「そうそう、さっき風邪で着たお嬢さん。あれ、ただの病人なの? 恋人」
「ただの患者です! もう、依頼はないんですか!」
「あっはっはっは、ごめん、悪かった――」
電話主の少女はケタケタと笑いながら電話を続ける。
「冗談は程々にして、――まぁ、ないわけじゃないんだけど」
「なんですか? なるべく簡素で簡潔に」
「エリックは人形師としても活躍してたわね? その工房の近くの貧民街があるじゃない。そこの娼婦が最近バラバラの状態で殺されてるの。一寸調べてもらえないかしら?」
エリックは諦めとも取れるような溜息を吐いた。
「わかりましたよ。どうせ、“命令”なんでしょう。それで?」
「諸費用は大英帝国が負担するから、犯人を捕まえてほしいの。偉大なる大英帝国の安寧のために、いいわね?」
「女王陛下の御心のままに」
電話は切れ、ツーツーと無情な音を響かせた。エリックは本日何度目かわからない溜息を吐いた。しばらく病院の方は畳まなくてはならないだろう。
最近、弟子のステイシーやマーティンと会っていない。彼らはどうしているのだろうか? 久しぶりに会いたくなってしまった。
これが、俺が切り裂き魔事件――後の切り裂きジャックとの対決に巻き込まれることになった切っ掛けだ。