プールにて
わたしたち――わたし、連太郎、千咲、関ヶ原会長、水戸君、平等院さん、UMA研究会四名――はバスで九旦町へ向かっていた。
連太郎の隣の座席をゲットしたわたしは、水戸君からメールで送ってもらった例の河童の写メを眺めていた。距離は遠いが、フェンスの奥に、確かに河童のような人影が存在している。
ううん……。と、ついつい唸り声を上げてしまう。
「どうかしたのか?」
前の座席に座る会長が尋ねてきた。
「いえ、この写メの河童について考えてまして。これは遠くからシルエットで見てるから河童に見えるだけなんじゃないかな、って」
「その気持ちはわかる。そのシルエットを見せられて『何に見えるか』と訊かれたら、『強いて言うなら河童に見える』という程度のものだ」
「そうですよね! わたしもまさにそう思っていたんですよ。この甲羅みたいなのはただのリュックサックにも見えなくはないですし」
「けど、なあ……」
わたしの思いに同意してくれたと思ったのだが、急に会長が言葉を濁した。訝しがっていると、中央通路を挟んだ隣の座席に座る平等院さんが鼻で笑った。
「何ですか?」
「君は水戸君の話を聞いていないのかい?」
「……そういえば途中までしか聞いてなかったわね」
会長の隣で千咲がぽつりと呟いた。
「そんなんでよく河童の正体を暴くと息巻いたものだね」
わたしと千咲は息巻いてないわよ。
「水戸君。彼女らに教えてやってくれ。君が見た圧倒的な衝撃をね」
「わかりました」
平等院さんの隣に座る水戸君が頷いた。
「……どこまで話しましたっけ?」
「条件反射で写メを撮ったところ」
と連太郎。
「そうでした。するとですね、その影がなんと、プールの中に入ったではありませんか! しかもそのまま潜水してしまいした。ぼくは慌てて自転車で坂を下ると、石垣に飛び乗ってフェンスにしがみつきました。自転車のライト――脱着可能なのです――でフェンスの網目からプールを照らしましたが、もう何も見えませんでした。そのまま三十分くらいそうしていましたが、人影は出てきませんでした。それから立っているのに疲れたので石垣から降りたのですが、更に一時間くらい耳をすましていました。しかし水音がまったくしないのです。フェンスを超えようとも考えましたが、流石に怖く、時間も遅くなったので帰宅しました」
長い語りを終えた水戸君に平等院は労いを言葉をかけ、それからわたしたちに得意げに言った。
「わかったかね? シルエットは水に入ったまま一時間三十分も出て来なかったのだよ。しかも姿形は河童に類似しているときた。これが河童ではなく何だと言うんだい?」
そんなバカな……。わたしが唖然としていると、連太郎が口を開いた。
「水戸君。フェンスに張り付いていた三十分間に、水面から誰かが息継ぎに顔を出したりはしなかったんだね?」
「そんなことしてたら気づきますよ。それに石垣から降りていた一時間にも、おそらく息継ぎに顔を出したということはありません。話にも出ましたが、水音がまったくしませんでしたし、そんな影も見えませんでしたから。ちなみに、辺りは物音一つない静かなところです」
「つまり、シルエットの正体は一時間三十分も息継ぎをしなかったってことか……。確かギネスの水中での息止め記録は二十二分だから、人間には無理だね」
フィンガースナップをしながら考え込む連太郎。その話を聞いたわたしは、ある素朴な疑問を思いついた。
「そもそも河童って何呼吸なの?」
「言われてみればそうだな。亀は肺呼吸だが……河童はどうなんだろう。お前の見解を聞かせろ、平等院」
会長が嘲笑を浮かべながら言った。
「おそらく河童は陸上では肺呼吸を、水中では鰓呼吸を行っているのだろう」
「河童に鰓なんてないだろ」
「水中でのみ発現するのだろうな」
「UMAは何でもありだな」
「というかそもそも……」
わたしは水戸君をじと目で見つめ、
「この写メも含めて、いまの話は本当なんでしょうね? 注目を浴びたくて作ったとかじゃない?」
水戸君は少しむっとした表情を浮かべた。
「心外ですね。注目を浴びたいなら河童じゃなくて心霊写真に偽装しますよ。高校生にもなって、河童を信じてくれる人なんて殆どいないでしょう」
それは、確かにそうだ。
「現にクラスメイトは誰も信じてくれませんでしたよ。家族もね。みんな、自作自演だと笑ってきました。だからぼくはこの話を、信じてくれそうなUMA研究会に持っていったわけです」
「写メは本当だとしても……後半の話は盛ってない? 写メを信じてくれたから盛り上げるために」
「盛ってません。ぼくはいまの話を、UMA研究会のみなさんに写メを見せる前にしたのです。みなさんが写メのシルエットを信じてくれるかわからなかったのに、盛る意味がありません」
「その通りだ」
平等院さんはなぜか満足げに頷いた。
やっぱり河童を撮ったと言って注目を浴びようとは思わない、か……。わたしは水戸君に頭を下げた。
「疑って、ごめん……」
「いえ、それが当然の反応だと思いますから」
水戸君はそう言って、肩をすくめて嘆息してみせた。
◇◆◇
九旦町は山の麓と言って差し支えない場所にある。わたしの家や音白高校は北見良町という『家の森』と比喩されるほどの住宅街にあるのだが、ここは同じ市内とは思えないほどの田舎っぷりだ。まあ、音白市は東京と言っても所詮は二十三区から漏れた地域だ。山や森や林があっても不思議ではない。
わたしたちは廃校となった音白第四中学に向かって歩き出した。滅多に来ない場所故か、わたしも連太郎も会長も、一様にきょろきょろしてしまう。しかし、他の七名は見慣れているようであった。千咲は住んでいるし、水戸君はサイクリングで来ているのだろうと想像がつくからいいとして……UMA研究会の一同は?
「ここらではツチノコを探しているからな」
平等院さんからこんな返答が返ってきた。会長が苦々しい顔つきになっている。UMAに興味のないわたしからすると、余程暇なのかなあ、と思わないでもないが、熱意がなければツチノコなんて探さないか。
バス停から五分ほどで件の中学校とプールが見えてきた。ここで驚いたのが、プールは校門から狭い道路を挟んで位置していたことだった。水泳の授業が面倒くさそうだ。
「ここです。ここでぼくはあれを撮ったのです」
水戸君が坂の途中で立ち止まったかと思えば、そんなことを口にした。
わたしはスマホを取り出し、例の写メを呼び起こした。見比べてみる。……なるほど。アングルや距離感なども一致するようだ。
そのまま坂を下って石垣の近くまで移動する。そこで僅かな憤りを感じた。女子中学生も使用するプールのはずだったのに、石垣が低過ぎやしませんか。石垣の高さは身長百六十五センチのわたしの首までしかしかなかった。その上にフェンスがあるわけだが、そんなものは意味ない。プール全体は道路から丸見えである。変質者からしたら恰好の餌場ではないか。女のわたしからしたら、この中学廃校になってよかった、と思わざるを得ない。
「とりあえず中に入ろうじゃないか」
平等院さんがフェンスに手をかけたが、会長が素早く彼の肩を掴んだ。
「そこから行くな。ちゃんと正規の場所から入れ」
そう言って会長が指差した先に、プールと繋がっているであろう古びた小さな建物があった。十人でぞろぞろと建物の扉の前に赴く。
「錠も何もないんですね」
扉を見た連太郎が声に驚きを滲ませつつ言った。
「市役所に確認したが、プールには自由に出入りしていいそうだ。盗まれるようなものがないからだろうな。ただ、校舎にはちゃんと錠をかけていると言っていた」
会長が淀みなく答えた。昼のうちに市役所に電話を入れていたらしい。手回しが早い。
会長曰わく、建物の中は更衣室だったようだが、ロッカーなどはすべて片付けられてしまっているため、いまは何もないそうだ。
わたしたちは建物内に入った。もっとボロボロかと思ったが、以外にも中は綺麗だった。埃がないところを見るに、掃除はなされているようだ。扉から真っ直ぐ進み、石垣の高さ分の階段を上ると、消毒槽だったと思われる場所が現れた。
「これ冷たいわよね」
千咲がなぜか楽しそうに呟いた。
しかしいまは消毒液など溜まっていないため、その冷たさを感じることなくプールサイドへと躍り出た。
道路から見て知ってはいたが、プールに満たされた水は緑色に濁っていた。水面に近場の木々から落ちたと思しき葉っぱが浮いている。これが池なら何とも思わないが、プールだと考えると顔をしかめてしまう。
「うーん……もったいない」
千咲がプール全体を見回しながら残念そうに呟いた。
「何がもったいないんだ?」
会長の問いに、千咲は名残惜しそうな視線を濁ったプールに向け、
「いえ、このプール五十メートルあるじゃないですか。それが、ちょっと……」
そういえばそうだ。ここは音白高校のプール(二十五メートル)より断然広い。縦は五十メートルで、横は五コース分ほどだろうか。大会とかではまず間違いなく五十メートルプールを使うだろうから、水泳部の千咲からしたら羨ましいのだろう。
「掃除して、市民プールにでもすればいいのに……」
「小さい子用のプールがないから、それは難しいんじゃないかな」
ため息をつきながら愚痴る千咲に、連太郎が現実的なことを言った。
さて、気を取り直して、あの河童の調査をしないとね。……いや、何をすればいいのだろう。水戸君の話通り、この辺りは非常に静かである鳥の囀りさえも聞こえない。民家なども、少なくとも目に見える範囲にはないようだ。
わたしが何をすべきか悩んでいると、不意に連太郎が歩き出した。消毒槽を抜けた地点から十歩ほど歩いた、飛び込み台のやや手前で立ち止まる。
「河童のシルエットが歩いていたのはこの辺かな……。水戸君、シルエットは飛び込み台から入水したの?」
「いえ。台は使っていませんでしたね。座って両足を浸けて、そのままちゃぽん、みたいな感じでした」
連太郎は真剣な表情で水面を眺めながらフィンガースナップを行い出す。そんな中、UMA研究会一同はプールの淵まで進行すると、部員の一人が来る途中に拾った長い木の枝をプールに真っ直ぐ突っ込んだ。枝が底まで到達したのか、ものの数秒で引き抜いた。
「ふむふむ……水の深さは石垣の高さとほぼ同じくらいだな。百五十センチくらいか」
「けっこう深いですね」
わたしが言うと、同じようにUMA研究会を見ていた――というか監視していた会長が唸り声を上げた。
「けっこうというかかなり深い。中学のプールだぞ? まあ、水の量を調節すればいいんだろうが……」
「これだけ深ければ河童も安心じゃないか」
「立ったら顔が出るんじゃないか? あのシルエット、山川や間颶馬や風原よりも身長が高いと思うぞ」
「寝ているのさ。もしくは、プールの底にどこか別の水辺に繋がる水路があるのかもしれない」
会長は付き合ってられん、とでも言いたげな表情になった。まったくである。
その平等院さんは素知らぬ顔で指をぱちぱち鳴らす連太郎に視線を向けた。わたしに尋ねてくる。
「それはそうと、彼はなぜあんなに指ぱっちんをしているんだい?」
「それ私も気になってた」
千咲も小さく手を挙げてきた。
考え事をするときの癖です、と説明すると、平等院さんの瞳に興味深げな色が宿った。
「ほうほう。君は何が気になっているのかね、間颶馬君?」
「いえ、あれが河童だとしたら、何をしに外に出ていたのかな、と思いまして。だってシルエットが写っていた場所――いま僕が立っているところですが――は、完全に更衣室を経由して入ってきた感じになりますよね? 河童が昼行生なら外に出ないだろうし、夜行性ならもっと外に出ていてもいいでしょう。水戸君が目撃したのは八時半なんですから」
連太郎のその疑問に平等院さんは、何だそんなことか、と言って笑った。
「外に出ていた理由は既にわかっている。例の写メを見てくれ」
UMA研究会の部員以外の全員がポケットからスマホを取り出した。
「シルエットの……僕らから見て左手に注目してくれ」
言われた通りにする。
「見にくいが、手に何か持っているだろう?」
「あっ、ほんとだ。棒状のものを持ってますね」
連太郎が驚きの声を上げた。……確かに、棒のようなものを手にしている。そこまで長いものではなく、細くもなければ太くもない物体である。
「これはおそらくキュウリだろう。この近くに農家があり、そこはキュウリも栽培している。おそらくそこから拝借したのだろうな」
得意げに何を言っているのだこの人は。と思わないでもないが、やっぱりこのシルエットは河童と言われたら河童だし、この棒のような物体もキュウリと言われたらキュウリに見えてしまう。これが先入観というやつか。遠巻きだし、手前にフェンスがあるし、暗いからそう見えているだけなのだ。きっと。たぶん。
「このことからわかることは、河童は昼行性だということだろうな。間颶馬君の言う通り、夜行性にしては寝床に帰るのが早い。この写メを撮られたときは、恐らく小腹が空いていたからキュウリを調達しにでも行っていたのだろうな」
なんて人間臭い河童なんだ……。