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葛原ケ岡に消ゆる身の  作者: うちはイタチ
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甦る悪夢

序章

①我が主・日野俊基




あなたの笑顔は、私の灯火。



あなたの喜びは、私の希望。



あなたの悲しみは、私の涙。



あなたの怒りは、私の不満。



あなたの憎しみは、私の殺意。



あなたの恨みは、…


私の……怨念。




②後藤助光という男




……鎌倉時代末期に、私は、死んだ。



妻に看取られ、病に苦しみ、



北条を呪いながら…。



辛い、最期だった。



怨念と復讐と後悔の念が、渦を巻いた。



汚辱にまみれ、穢れた私の魂は、



天国に昇る事が許されず…、



地獄にも、行けなかった。



しかし、私の、主に対する恩情は、



天界の神々の知るところとなり、



……私は、裁判にかけられた。




再び、…私の中で、何かが始まろうとしていた。



全ては、…我が主のために。





③天界にて




「…神の怒りを、買う事になってもか?」



改めて、裁判官は助光に尋ねた。



「…もとより、覚悟のうえにございます。」



「そは、神を冒涜する行為ぞ。」



言って聞かせるような、口調になる。しかし、相手の決意は固かった。



「ならば、お伺い致しまする。何ゆえに、神は、我が主の生命を奪い給うたので、ございましょう?」



「運命や寿命を変えるは、そなたの命とて、危うくなる…。」



助光に、相手の忠告は届かなかった。



「幕府は、…。」



「聴いておるか?助光。そなたの命に、関わる事ぞ。」

「幕府は、…権力を(ほしいまま)にした挙げ句、邪にも、私利私欲を貪り続けてまいりました。」



“時を逆行させるは、万死に値する。…”



裁判官の後ろで、白髭を蓄えた老人が、さも恐ろしげに呟いた。



“罰が当たらねば、よいが…。”



もう1人が、感慨深げに頷いている。



“まこと、正気の沙汰とは思えぬ…。”



「さらには、…一方的な処断のもと、我が主の命を無下に奪った。」





助光は、悔しそうに呻き、発言を続けた。



「神の存在には、疑惑すら感じまする。…」



まだ若い陪審員が、たちまち苦々しい表情になる。



「助光、控えよ。」



「…前世の無常観を慮るに、神など居らぬに等しいのではないかと…。」



「控えよ、と申しておるのだ!」



「かような者が神ならば、なぜに、崇め奉る必要がございましょう?」



なおも止めぬ助光に、 鉄槌が下った。



「口を慎め!大神の御前に、あらせられるぞ!」



「存じ上げておりまする。」



助光の唇が、肩が、言うに言われぬ悲しみにうち震えた。



「存じ上げているからこその、この無礼…、何とぞ、ご容赦下さいませ。」



切々と訴え続ける彼に、圧倒されたのか。しばらくは、口を開く者とてなかった。



「そなたの、…無念の死を遂げた主に対する心根…。よう、わかった。」



大神が、声をかけた。一瞬、場内にどよめきが起こる。



「今ひと度、…あの者の魂を、この世に呼び戻したいのだな?」



ややあって、助光が答える。



「…はい。」





「日野俊基の魂を…。」



「…はい。」



たちまち、場内は騒然となった。



“死者の魂を、…黄泉の国から呼び戻すなどと…。”



“あな、恐ろしや…。”



“まさに、前代未聞の大罪よ…。”



「そなたの願い、聞き届けたり。」



判決が下った。それは、大神の、特別な計らいによるものだった。



「ありがとうございます。」



感激のあまり、助光は、その場に泣き崩れた。


というのも、つかの間、



「異義あり!」



の声が上がる。



「この者の冒涜的要求に対し、何ゆえに目を瞑るのか…。

私には、理解出来かねまする。」



「謀反を起こせし亡者の魂など、呼び戻すには及ばず!」



「恐れながら、…大神自らの矛盾…。

いかように、ご説明なさるおつもりでございましょうか?」



裁判所の鐘の音が、大仰に鳴り響いた。



「静粛に!」






裁判長は、声を大にして一喝する。



「判決は、すでに決定した。これ以上の議論は、無用と見なす。」



陪審員達から、不満の音叉が渦を巻いた。が、もはや、異論を唱える者は誰ひとりいない。



「助光よ。今のうちに、思う存分、喜びを噛みしめるがよい。」



大神の、包み込むような優しい声が、助光の胸に心地よく響く。



「しかし、忘れるではないぞ。

そなたは、ただひとつの魂を呼び戻したいがためだけに、とりわけ、時の逆行と、他の亡者の魂さえ甦らせるという重罪を、犯した。」



彼は、さらに言葉を続ける。



「代償は、そなたの寿命…。したがって、天寿を全うできる可能性は、皆無となる。

ここでの記憶は、何も残らぬ。

主を救うために与えられた機会は、一度きりだという事のみ、…努々(ゆめゆめ)、忘れるではないぞ。」



「はい。」



「異義なくば、こちらの契約書に御名を…。」



契約書には、びっしりと規約が記述されていた。

「署名」の余白部分に、さらさらと名前が書かれる。




後藤 助光




…それが、男の名前だった。



墨汁の文字は紙面から浮き上がり、一瞬にして消滅した。


契約が、成立した証しだった。……





④甦る悪夢




その時、彼は見たのである。


張輿に乗せられた男が1人。4人の兵士によって担がれ、静々とこちらへ向かって進んで来るところを…。


男は、公家であった。

黒の烏帽子と、黄土色の無欄直衣を身に着けている。


うなだれた顔は、心なしか青ざめて見えた。その、葬列の如き、厳粛さ…。


いや、…事実、それは死の行進だった。




彼は、ハッとなった。間違えるはずもない。夢にまで見たあの方が、今、目の前に現れたのだ。



人の気配に、気付いたのだろうか。


公家は、サッとばかりに顔を上げ、前方を見やった。端正な顔立ちが、花曇りの空の下に、白く映えた。 とたんに、驚きの色が走った。ショックが、大きかったせいだろう。


目は大きく見開かれ、声も出せずにいる。夢か現実(うつつ)か…。数メートルと離れぬ所に、彼が立っていたからだ。




彼は、走りだした。まるで、大きな力に引きずられるかのように…。


こけつまろびつも、霧の如く消え失せてしまうのを恐れでもしたのか、列の真っただ中へ、駆け出して行ったのである。


しとどの汗が、体中から流れ出た。


が、かまっている暇など男にはなかった。走りながら、彼は叫んだ。



「…俊基様っ…!」



「助光…っ!」


ほとんど同時に、公家も叫んだ。


と言うより、喉の奥からしぼり出すような声がもれた、と表現した方が妥当かも知れぬ。


差し伸べられた右手は、さながら、彼に救いを求めるようでもあった。


ふたりは、ひしと互いの手を握りあった。滂沱する涙を、拭こうともしない。


死ぬまぎわに、化粧坂(けわいざか)で再会できた喜びを、彼らは、しかとかみしめた。……




……




……






天地鳴動起こる時、


日の本といふ國に、


大いなる禍降りかかりける。




第1章 蠢動




…遠くで、微かに音が聞こえる。ピコンピコンという、奇妙な音だ。彼には、それが何の音か解らなかった。今だかつて、聞いた覚えがなかった。


例えあるとしても、思い出す事はできなかった。


暗い。異常なまでに、暗かった。光すら届かぬ、黒い世界。そんな表現が、妥当だった。



「…さん、わかりますか?」



暗闇の遥か彼方から、若い女性の声がした。



「終わりましたよ。」



再び、女性が呼びかける。



「…さん?」



…と、今度は、頭上でやはり若い男性の声がした。



「…さん、わかります?…終わりましたよ。…さん。」


“終わった?何が…?”



取り戻しつつある意識のなかで、彼は、ぼんやりと考えた。


何が、終わったのだろう。私がどうかしたと言うのか?それに、…さんとは誰のことだ?


再び、深い眠りに墜ちかけた時、ふいに、声が聞こえた。別の、まだ若い男の声だった。



「…助光。助光っ!目を…、目を開けよ、助光…!」



それは、耳に、というより、直接脳内に響き渡る感覚だった。


その声で、確実に彼は、意識を取り戻しつつあった。


懐かしい声。知っているはずもないのに、…ああ、これは…誰であったか?


瞼が、動く。目を開けようと幾度かしばたいた瞳に、一筋の光が射し込んだ。光は、とてつもなく眩しく、目を開けてはいられないほどに、思われた。


やがて、光の筋は全身を覆うほど大きくなっていた。




あまりの眩しさに、目を細める。


脳と身体の神経が、まだ一致していないのか。


(しとね)が、揺れているような気がした。



“目眩…か?”



と、彼は思った。



土埃の臭いが、鼻についた。


周囲から伝わる、人々のざわめき。馬の嘶きや、牛の鳴き声。それらは一緒くたになり、神経の隅々にまで染み渡ってくる。力が、漲ってくるようだった。


視界が、明確になり始めた。


室内のよう…では、ある。が、やけに狭い。彼は、四角い箱形のような(むろ)の、(とこ)の上に寝かされていた。



“…ここは、…どこだ?…”



何気なく周囲を見回した彼は、ギョッとなった。


薄闇の中に、うっすらと人影が見える。それも、ふたり。


1人は、成人男性だろうか?もう一方は、少年のようだった。




少年が、



「あっ…!」



と、声をあげるのと助光が飛び起きたのが、ほとんど、同時だった。



「急に動かれては、なりませぬ!」



少年の言葉に続いて、



「気がついたか。」



声をかけてきた者が、いた。落ち着いた雰囲気の、男性だ。


目の前に、直衣姿の青年公卿が座していた。年は、25~26歳。助光らの主・日野俊基だった。


傍らには、牛童(うしわらわ)の少年がいる。


牛童とは、牛車を牽く牛を飼い、牛を操る者の呼称である。


手に手綱と鞭を持って牛を統御し、乗者を快適に運ばねばならない。この場合、乗者とは、主の俊基や俊基の妻子だ。

頭部は垂れ髪の、童子姿。水干や狩衣を着用し、草鞋を履く。若者から老齢者まで、実にさまざまな年齢層である。


獰猛かつ巨大な牛を統御するには、童の持つ、霊力や呪的力が期待された。


ゆえに、成人後も童形(どうぎょう)の姿をし、犬男丸、子犬丸、黒雄丸などの名が付けられたという。




“……!?”



「…俊基…様?…夜叉丸?」



何がどうなったのか解らず、助光は面食らった。


果てしなく続く、怖い夢。決して、終わることのない悪夢。幾度となく繰り返される同じ夢を、とりとめもなく見続けてていた…。そんな気がした。



「…ここは?」



「牛車の中に、ございまする。」



すかさず、牛童の夜叉丸が返答した。



“…牛車…だと…?”



助光は、我が耳を疑った。


下級武士にしか過ぎない彼が、牛車の中に居る。しかも、夜叉丸まで…。それは、あり得ぬ事態だった。


が、その時になって、助光は、自分がやけに居心地よい格好で、寛いでいることに気がついた。

ふんわりと座り心地の良い敷物。立ち上がったり、牛車が揺れた際に大変便利な、固綿で丸みをつけた脇息。


細部にまで、綿密な意匠を凝らした天井。そこから、持ちやすそうな綾綿の紐がぶら下がっている。


力強く、安定した歩みを約束する、大柄で丈夫な体つきの牛。


防水・防腐用に柿渋が塗装された、人の背丈ほどもある木製の頑丈な大車輪。


黒く塗られた網代車には、極彩飾の菊の花と流水模様が、施されている。どこまでも回転していく、無限の連続性の動きを表現したものだ。


葵、橘、藤、桜とともに多様に意匠化され、着物、能装束、硯箱、屏風などに好んで使用されている。

牛車が、こんなに乗り心地の良いものだとは、知らなかった。




「暑気を受けたそなたを、介抱してくれたのだ。

礼を、申せ。」



俊基が、穏やかな口調で口添えをしてくれる。


助光は、違和感を覚えた。己自身、全く記憶がないからだった。あるいは、どこか意図的な創造性がある。熟知しているはずが、全く知らない。何かしら、異質なものを感じずにはいられなかった。



“…疲れているのか?”



そんな考えに耽っていると、夜叉丸が、



「はや、出仕の刻限にございます。

あまり、遅うなられましては…。」



俊基に、直(午後の勤務)が差し迫った旨、促している。



「左衛門尉殿は…」



“……!?”



「いかがなされまするか?」


助光には、牛車の護衛に付くか尋ねてきた。



「言うまでも、無きこと。」



無意識に、ふたつ返事で、了承する。漠然とだった。が、彼の胸中には、ある鬱々とした感情が渦巻いていた。


主君・俊基を失ってしまう強迫観念だ。


振り払っても、振り払っても…、幾度となく脳裏にこびりついては、甦ってくる思考。声。残像。恐怖。不快感。


説明のしようがない無常観が、沸き上がる。


それは、夢で味わう心持ちの気持ち悪さに、酷似していた。




やがて牛車は、ゆるゆると、滑るように動き始めた。


牛童は手綱をとり、鞭を持つ。牛の横に沿って、牛同様の速度で歩んでゆくのである。


乗者の召具装束は、位に応じたものだ。


牛童もこれに合わせ、白張・狩衣・水干など主家の出行に相応しい装束を、着用しなければならない。


付き従う者は、牛童だけではなかった。俊基の家では、牛車の左右を守護する者がいる。助光は、それの指揮的立場だった。その彼らまで、美々しく着飾ってお供するのである。


夜叉丸のように、特定の貴族の専属の場合、牛車は当然、私的なものとなる。

各邸内の車宿に入れられ、牛は牛屋に、牛飼は、これに隣接する場所で寝起きして、牛の世話をする。


ゆえに、牛車や車宿は、屋敷の正門近くに設けられていた。


ただ、牛の所有には、費用と手間が相当かかるため、名門貴族でも、私用の一頭を頼みにしていたらしい。




京の春。


雪が溶けだし、山々の緑が芽吹く頃。ようやく、空気にも温もりを感じる。


草花は、優しく風に靡き、雲雀(ひばり)(うぐいす)たちは、楽しげに春を告げる。


なめらかなそよ風が、頬を撫で、ほつれ髪を弄ぶ。



“春は、優しい。”



と、助光は思った。


言語を持たぬ牛さえ、気持ち良さげに、耳を動かしている。


助光の直垂の袴が、戯れな風の巻き上げを食らっても、かえって、心地よいくらいだ。


気候が、不安定なのかも知れない。外気温が、高くなり始めていた。


俊基の邸から、京都御所へは北方面に20数分。

ゆったりとした(かち)にも関わらず、皆、一様に、うなじに汗をかいていた。



「助光。大事ないか?」



心配しているのだろう。俊基が、長物見から顔を覗かせた。



「はっ。特に…。」



笑みを浮かべ、頷くのが見える。顔色も、だいぶいいようだ。

俊基はひと安心したらしい。笑顔を返し、前簾へ向き直った。


ふと、俊基は、妙な違和感に襲われた。助光が、なぜ倒れたのか。誰が牛車の中へ、寝かせてやったのか。実のところ、知らないのだ。


遠い昔。どこかで…。誰かに後頭部を強打され、意識を失った記憶がある。


気がついたら、俊基は牛車の中にいた。しかも、誰も、その事柄に触れようとしない。あるいは、知らなかったのか。はたまた、そんな事件など存在しなかったのか…。


それが、疑問点であり事実だった。




平安京は、唐の都長安を模して、条坊制により都市計画されたと、言われる。


最も広いのは、北辺中央の大内裏から南走する、幅員約28丈(約90メートル)の朱雀大路である。


次いで、東西に走る幅員17丈(約55メートル)の二条大路。


さらに、大内裏の両側面を南北に走る大宮大路が、幅員12丈(約39メートル)。


平安京を囲む四面の大路は10丈(約32メートル)で、この他の大路は、8丈(約26メートル)だ。


大路と大路の間には3本の小路がある。東西に28本、南北に24本走り、4丈(約13メートル)になっている。

当時の街路の路面構造に関しては、石を敷く路面と敷かない路面が、あったようだ。


牛車の通る路面は、ほとんど舗装されていたと、言えるだろう。


俊基邸の前も、路面が固く締まっていた。


ただでさえ堅固な地面が、牛車で、さらに押し潰されていく。


いかに多くの牛車が通過したか、伺い知れる。



大路に出るまでの間、俊基らは、いくつもの牛車とすれ違った。


小路から朱雀大路に差し掛かると、さすがに、人々の通りも賑やかになる。


壮麗なる伽藍。数多ある、歴史的建造物。人の群れ。物を売る者たち。


見渡せば、牛車がそこかしこに見える。


多彩で豪華な牛車は、乗る人の身分により、種類や車副の構成、服装などに違いがあった。そのため、主の身分や地位が、推測できるほどだ。


例えば、檳榔毛車(びろうげのくるま)


白くさらした檳榔毛で、車箱全体を葺く。物見(窓)はなく、軒・柚も格子で前後に簾をつけ、青末濃の下簾を用いている。

車箱全体を、青・赤・紫などのより糸で織った糸毛車(いとげのくるま)もある。これなどは、金銅そう文を所々に散らし、飾りとした。




さらに、材料が得やすい網代車。


加工や彩色も多様性可能で、工夫次第では、高品位な牛車となる。


牛車のなかでは、最高級の仕様が施された、唐庇車(からびさしのくるま)。またの名を、唐車(からぐるま)と言う。


乗降には、(しじ)ではなく、短い梯子を使った。


()(日常や私用)の時に広く利用された、八葉車(はちようのくるま)もある。


網代の車箱に、八葉紋(九曜星)をつけたことから、名付けられたらしい。


飾り立てた風流車も、見かけられた。


網代車に雨の降り込みを防ぎ、居住性を高めた庇車(ひのぐるま)

屋形の前後の軒が、弓を伏せたような唐破風として、庇を作った雨眉車(あままゆのくるま)


文車(もんのくるま)と言って、網代車などの棟・袖・物見の上に、文様を散らしたもの。


車箱は網代で、物見が半蔀(はじとみ)になった、半蔀車など、多種多様だ。


助光は、牛車の心地よい音に耳を傾けた。


車輪が軋みもしないのは、潤滑油を注しているからだろう。


優雅な乗り物である牛車での外出。それだけで、高い身分の証左だったのである。




まもなく、御所近くにさしかかろうとする頃。


人々の動きが、慌ただしくなった。通常とは明らかに違う、某かの雰囲気が漂っていた。



「悪党どもの、蜂起でございましょうか?」



助光が、事もなげに話しかける。


この時代の悪党は、50騎、100騎という集団で行動した。引馬(ひきうま)唐櫃(からびつ)弓箭(きゅうせん)を携え武装した姿は、照り輝くばかりであったと言われる。


それはまさに、婆娑羅(バサラ)の様態だった。


畿内近国における、悪党蜂起の頻発。常に、六波羅探題による悪党追捕のための、軍勢の催促動員。


都の人々も、そのような事態に麻痺していた。

悪党問題は、これほどまでに、社会の奥深くに浸透していたのである。



牛車の前進が、捗らない。俊基らばかりでは、なかった。


市中を行き交う人々が、動けないでいる。何やら前方に、障害物があるらしい。



「助光。」



俊基が、声をかけるより一足速く、



「見て参りましょう。」



助光は俊基にそう告げて、駆け出して行った。


前方に、人垣が見える。


皆、一様に押し黙るか或いは、ひそひそ話しながら、何かを窺うように、爪先立ちしていた。


立ち往生する牛車が、そこかしこに見える。何を、畏れてか。見えぬ巨大な壁に、立ち塞がれたかのようだった。


かまわず、人垣をかき分ける。助光の鼻先に、香ばしい鰻の蒲焼きの匂いが漂ってきた。

腹が音をたてて鳴るのが、わかった。そういえば、飯を口にしていない。




今さらながら、助光は、腹を満たして来なかった事を、少々悔やんだ。


しかも、…。


弊害の正体は、武装した者どもだった。


眼前に列をなす関東武者が、我が物顔に歩んでいる。


馬に跨がった、数十名の武将はいるものの、皆、小具足(こぐそく)の出で立ちである。


小具足とは、直垂(ひたたれ)籠手(こて)臑当(すねあて)脇楯(わいだて)だけを着用し、鎧を着けぬ姿の事だ。


八割がたは足軽の、何の事はない集団だった。



“違ったか… 。”



迷惑な、と舌打ちした時。



「…様じゃ!」



「控えよ、…様じゃ!」


何に気が付いたのか。周囲が、口々に騒ぎ始めた。




若干離れた所に、輿の担ぎ手が見える。


ひとつの輿に、4人。遥か彼方まで、幾つも続いているようだった。



“宮将軍でも、御座(おわ)したのか…?”



助光は、考えた。


鎌倉幕府9代征夷大将軍の、守邦親王なら仕方あるまい。


が、噂では、守邦親王は風邪のためか、体調が優れないと聴く。


ならば、宮将軍でもない邦良(くになが)親王であろうか。


それにしては、供奉の者が誰ひとりいない。


気がつけば、皆、足元に平伏していた。


有難いものでも崇めるように、頭を地面に、擦り付けているのだ。


ただ、廷臣たる殿上人らは違った。

平伏しないのは、公卿や、公卿の家臣、車副ばかり。


…妙な、話だ。


幕府の御家人ごときに平伏(ひれふ)す理由が、わからなかった。


その時。



“……!?”



助光は、信じられない光景を目撃した。




輿の中に、何か蠢いている。


全身を覆う、白い毛。垂れた耳。長く垂れた尾。毛質は、ごく短く硬そうだ。他に類を見ない、がっしりとした骨格。堂々とした、強靭なる筋肉。


咬まれても、大丈夫なようにだろうか。体の肉は、(たる)んでいる。


頭は大きく、鼻口部までもがただ者ではない。


全身から、耐久力と力強さ。そして、威厳を漂わせていた。


そいつが、後ろ足で胴体を掻いた時。



“……犬!?”



助光は、その生き物が何であるか、合点がいった。


土佐犬だ。


秋田犬と並んで日本を代表する、犬種のひとつである。


体格は様々。もともと、高知県の県境、深い山中で、猪狩りに使用されていた日本犬が、こう呼称されたらしい。




それにしても、何という大きさか。


陸奥国には、大きな熊がいると聞いている。


熊など、見た事もないが、この犬は、その生き物ほどもあろうかと、思われた。


首輪は、太縒(ふとより)の絹で、紅白の飾り鎖。


さても面白いのは、土佐犬の有り様だ。


当時代、権力の象徴とも言われた、高麗縁の半畳。


己を、何様だと考えてか。上質の畳の上で、ゆったり寝そべっている。


或いは、糞尿を垂れ流す犬すらいる。


人間が犬に仕えている様は、実に滑稽だった。



“犬だと?献上用か。”



事のあらましを耳にした俊基は、不愉快げに眉を潜めた。



“鎌倉には、…すでに4,000から5,000匹もいると、聞き及びまする…。“



助光が、後方の簾からそっと声をかける。


北条高時…。


第9代執権・北条貞時の三男で、母親は覚海円成(かくかいえんじょう)


鎌倉時代末期・北条氏得宗家当主。鎌倉幕府第14代執権である。


北条高時の、狂気じみた田楽好きや闘犬好きを、知らぬ者はいない。闘犬に関しては、完全に、度を越している。


闘犬は犬合(いぬあわせ)とも言い、文字通り、犬を闘わせる遊戯だ。


月に12回の、闘犬の日を決定。


北条一族他、諸国大名までもが見物する、と言う。


増鏡・下五にも、「うつつなくて、朝夕好む事とては、犬くひ、田楽なぞを、そいあそばしける。」と記述されているほどだ。



助光は、さらに声を押し殺した。



“皆、…高時の犬めを、お犬様と…。”



“馬鹿々々しい…!”



吐き捨てるように、俊基が呟いた。



“たかが、犬ごとき…”



その、たかが犬…が今、小事件を起こそうとしていた。


鰻の蒲焼きの風味に、そそられたらしい。蒲焼きとは言っても、切り開いた鰻に、甘いたれ仕込み風の醤油味を、塗りつけたにすぎない。


よほど、腹が空いていたのか。いい気で寝ていた犬は、のそのそと起き上がった。


むろん、気付く担ぎ手は、いなかった。


突如、輿が激しく揺れ動いた。鎮座していたはずの犬が、外へ飛び出ようと、足掻いたのである。


担ぎ手はよろめき、輿の均衡が崩れた。


巨大な犬に、か弱い人間が勝つはずもない。


担ぎ手が()けた隙を狙って、犬は、勢いよく駆け出した。

人々の間から、悲鳴があがった。



“何の騒ぎだ?”



牛車の前簾を上げ、覗く顔が、次々と現れる。



畏れ(おのの)く、市民。


逃げ惑う、女や子供、老人たち。


恐怖のあまり、腰が抜けたのか。土佐犬の間近には、出店の柱にしがみつく女が、いた。


近頃、(おご)っていた犬である。


いつも、美味い餌でも喰っていたのだろう。当然のように、蒲焼きを貪っている。


熊の様に巨大な犬は、初めてだった。が、蒲焼きを食べる犬も、初めて見た。


皆、怯えるばかりで、どうする事もできない。



「助光っ!馬引けいっ…!」



何を思い付いたのか。

俊基が、突拍子もない事を命じた。



「はっ。」


助光には、わかった。幕府に、一泡ふかせるつもりなのだ。


だから、牛の牽引力を引き出せる(くびき)と呼ばれる横木をも、牛の背椎部の隆起から外した時、



「…あっ!何をなされまする!?」



夜叉丸が慌てたのも、無理はない。


ましてや、(すはえ)まで取られては、黙認するわけには、いかなかった。



牛飼の振舞や牛車の立ちは、品の良さが、大切である。愚かなのは見苦しい。


牛は、馬に比べて調教が難しいとされる。


特に、外部の刺激に対して敏感だ。


普段、ゆったりして大人しい臆病な牛に、ちょっとした刺激を与えたら、どうなるか…。


鞭が、しなった。


鋭い音が響き、牛が、唸り声をあげた。


刹那。牛は、豹変。猛り狂ったように、走り出すと、ところ構わず、暴れまくる。


犬は犬で屋台を覆し、次々と、汚く食い漁り続けた。


滅茶苦茶になっていく商売道具を見て、亭主の嘆きようは、言葉にならないほどだった。


腹を空かせた犬に、荒れ狂う牛。そこへ、暴れ馬が加わった。馬上には、ひとりの男がいた。


もう、何が何だか解らなかった。


どちらにも、手が出せない。凶暴、このうえない。


が、…。


喧騒の最中。そのお犬様を、悪し様に蹴り飛ばした者がいた。


馬の後ろ脚の、一撃というやつである。


するどい犬の悲鳴に、周囲は、たちまち殺気だった。


犬は当然だが、それ以上に驚愕したのは、人間の方だった。



「蹴りおったな!お犬様を、蹴りおったなっ!」



足軽の(おさ)でもあろうか。馬上の男に向かって、怒りも(あらわ)に叫んでいる。



「人聞きの悪い事を。」



男は、鼻先で笑った。悪びれるふうもない。



「脚で、()でてやろうと思うたまでよ。」



逆鱗に触れる、挑発的な物言いだ。





「な…んだとぉっ!?」



男の態度に、足軽頭が吠えた。



「よくも、鎌倉殿への御献上のおん犬を…」



「献上の犬が、聞いて呆れるわ。

民を困惑させときながら…。はた迷惑な執権北条よ。」



足軽頭は、それには答えず、



「蹴ったと、お認めなさるのだな?」



すぐにでも、検断所へつき出さんばかりに、噛みついた。



「おおよ。馬が…な。」



物見高い民衆が、集まってくる。人垣ができ、ぐるりと遠回しに囲んでいた。


公卿と、幕府に仕える者のやりとりは、周囲の人々をはらはらさせた。



“どうなさるおつもりでございまするかっ?”



言わんことではない。とばかり、夜叉丸が助光を振り返った。



“なるようにしか、ならぬ。”



助光が、なかば開き直った態度で、馬上の俊基を見つめている。彼とて、気をもんでいた。


この時代、何事においても理屈や倫理は、通らない。己を正しいと主張するのは、決まって権力者だ。


大義名分など、成り立たぬ。離反すれば、謀反となる。



“万が一、つき出されるような事あらば…。”



やきもきする夜叉丸に彼は、



“無謀な事は、せぬ。引き際ぐらい、心得ておろう…。”



全て、見透かしたような口ぶりだった。




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