『海王×海王妃(因縁編)①』
幸せだったの
本当に
ようやく掴んだ幸せだった――
――子供?
――そうよ!赤ちゃんが出来たの。私達に家族が増えるのよ!!私、本当に嬉しく……え?どうしたの?どうして……そんなに怖い顔をしてるの?どうして……
――堕ろせよ
――な、何言ってる……ちょ、ちょっと……っ!ど、どう、して、殴……るの?どう……やだ、来、ないで、こな、来ないでやめ……
――堕ろさないなら、俺が殺してやるよ
――っっっっ!
ドンッと腹部に強い衝撃を受けたのは、そのすぐ後だった。
逃げようとする体を引き摺られ、髪が抜けるほどの強い力で掴まれた。
ぶちぶちと千切れる髪も気にせず、腹部に当てた両手は蹴り上げられ、床にたたきつけられる。
やめて。
やめて。
何度頼んだだろう。
けれど、駄目だった。
あの人には、子供の命などそこらの石ころよりも無価値だったから。
そうして、折られて動かぬ両腕を必死に動かし、散々蹴りつけられた足でそれでも這いずった私に、あの人は笑った。
――まるで芋虫みたいだな
最後に見たのは、心底楽しげに笑うあの人の顔と、腹部へと降ろされた足。
言い表せない様な不気味な音と共に、ぶっつりと途切れた意識。
その後、上司である下女頭様に私は発見された。
下肢から流れる血だまりの中、体中痣だらけで、両腕は折れてて。
顔は腫れ、歯も何本か折れていた。
死ななかったのが奇跡
そう言われる中で、私は子供を失った事、再び子供を身籠もる可能性が低い事を知らされた。
そして心に決めた決意。
もう、二度と恋愛なんてしない。
ようやく出会えたと思っていた。
何人もの男性達に捨てられ、それでも最後に見つけた人。
お前と一緒に家庭を築いていきたい――そう言ったのに。
あの人は、去って行った。
それから数年。
凪国でも力有る貴族の娘の婿養子となったあの人が、王に謁見するのを陰から見た瞬間、全身の血が逆流し、私はパニックに陥った。
隣に立つあの人の妻のふっくらと膨らんだお腹は、私が手に入れられなかったもの。
妻の幸せそうな笑顔を見る度に、私の中で何かが壊れていった。
音を立てて、何度も、ガシャンと硝子が割れる様に。
――ねえ、貴方でしょう?私の夫の前の遊び相手って。ああ、そんな顔しないで。醜い顔が更に醜くなるわよ。別に私は怒ってないわ。結婚前の遊びなんて気にしないし、男の甲斐性にケチを付ける気もないわ。それが貴族の女性の嗜みですもの。ふふ、おかしいって顔ね?でも、大戦前からの由緒ある貴族の姫君である私には当然のこと。ただ、あなたみたいなのに手を出したなんて、よほどあの人も疲れていたのね。聞いてるわよ?子供を産めない欠陥品だって。でも、女の幸せは結婚とか子供だけじゃないから。
もう二度と、男に心など許さない。
――どうして、どうしてこの子は……お願い、もう二度とあなたの前に姿を現わさないから!だから、お腹の子だけはっ、私の家族なの!
家族を失い、孤児になり、許嫁を失い、また今恋人さえ失う。
そんな私に残された、最後の希望。
それを、あの人は奪い取った。
――身辺整理はしっかりと行わないとならないんだよ。貴族の家に婿養子に入るには色々と煩いからな。
――お願い、やめ
――ああ、そういえばもう一人始末しなきゃならなかったな。当主様との約束。
視界が真っ赤に染まる。
――ゴミは、きちんと捨てないとなぁ?
ケダモノが、笑った。
*
「泣くな」
泣きながら目覚めた私に囁く声が聞こえた。
ギュッと強い力で引き寄せられ抱き締められる。
横を見れば、現在の夫となった海王が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
体は酷くだるかったが、触れるシーツの感触は真新しく、ふわりと薫る石鹸の匂いを感じた。
夫はきちんと私を労ってくれる。
そこも、あの人とは違った。
あの人は自分が満足した後は、さっさと何処かに行ってしまった。
疲れ果てた私を置いて、飲みに出かけた事もあった。
今思えば、あの人にとって私の価値などただの遊びでしかなかったのだろう。
なのに甘い言葉に騙されて、挙げ句の果てには赤ん坊を失ってしまった。
更に、もう子供を得られる可能性は低い。
欠陥品――そう、私は欠陥品なのだ。
あの人の妻となった貴族の姫君の言ったとおり、私は結婚など出来ない女。
誰も見向きもしてくれない、ただのガラクタ。
なのに、こうして抱き締めてくれる腕の優しさに涙が流れる。
背中を撫でてくれる掌の温かさが、逆に痛い。
「落ち着いたか?」
耳元で囁かれる声は甘く、腰が砕ける様に神経を振るわす。
「明日は仕事が一段落するから。久しぶりに外で食事を取るか。四妃達から後宮の中庭の花が見頃だと聞いたしな」
「……」
「あと、久しぶりに王妃の琴の音を聞かせてくれ」
「……私の琴は飛ぶ鳥も落ちるんでしょう?」
夫の言葉に思わずそう拗ねたように呟けば、つんっと鼻の頭を突かれた。
「いつまでも根に持つな。私が悪かったから」
四妃から、夫が女性を褒め称える百の方法を叩込まれた知っている。
しかし、その効果の程は甚だ疑問であるが。
「それに四妃ばかりが聞くのはずるい」
「四妃達は私の先生だから」
楽器、調香、刺繍その他女性としての教養を、何故か男である四妃達から教わっている。
と、夫の体から、優しさとは別の何かがゴゴゴと湧き上がってきたように見えた。
「四妃……」
「そう、明日は笛を習うんです」
笛は徳妃が得意だったから、彼に習う事になっているが。
「私が教える」
「は?」
「私が教える。夫は私だ」
「いや、そりゃあ四妃達は私の夫じゃないですけど」
むしろ、形式上では四妃は夫の妻に当たる。
「王妃」
「はい?」
「王妃は私と四妃のどちらが大事だ」
一体何を言い出すのかと暫し固まる。
いつもは賢君として冷製沈着に振る舞う海王のくせして、まるでだだっ子の様に私に縋り付く。
見た目は絶世の美女。
けれど、今は幼い女の子にしか見えない。
「どっちが大事って」
「私は王妃が大事だ」
「ありがとう」
やはり妻として大切にされる事は嬉しいと素直に応じれば、王が少しだけ怒ったように唇を尖らせる。
「王妃は本気にしていないな」
「してますよ」
十分に大切にして貰っている。
時々、いや、かなりの確率でバカにしているのかという褒め言葉をくれるが、それでも一生懸命なのは分かっている。
「なら、明日笛を教えるのは私だ」
「は?だからどうしてそうなるんですか」
「王妃の夫は私だからだ」
どうしても譲らない夫に、私が折れるのはいつもの事。
ぎゅうと抱き締められ、頭を撫でられる。
そして、唇が頬に触れ、そのまま首筋を辿っていく。
ふわりと、夫の体から麝香の香りが漂った。
四妃から、王妃様は麝香を調合出来ますねと笑顔でからかわれるほど、既に私にも染みついた香り。
そういえば、あの人の香りも麝香だった。
今頃、あの人達はどうしているだろう。
結婚出来ないと蔑んだ私が海国王妃になった事は知っている。
けれど、あの人達に会うことはなかった。
事情を知っている凪国国王陛下や側近の方達が、決して私に会わせようとしなかったからだ。
地位有る貴族で唯一海国王妃となる私に挨拶出来なかったのは、あの人達だけ。
貴族は対面を重んじる。
昔ほどでは無いが、それでもあの人達だけ挨拶出来なかったとなれば、社交界では笑いものになるだろう。
それを、良くしてくれた貴族の当主夫妻が教えてくれた。
貴方は何も心配せず、ただ幸せになる事だけを考えなさいと送り出してくれた。
その夫妻は、少しだけ亡くなった両親に似ていた。
そう――もう、あの人達の事は忘れよう。
忘れてしまえばいいのだ。
私はこの国で、幸せに生きていく。
それだけで、十分。
なのに、私は再び出会ってしまった。
あの人に。
そして――昔の恋人達に。
封じた筈の悪夢の扉が、不気味な音を立てて開いていく。