王×王妃⑤(シリアス物)
大きな破壊音が、娘との穏やかな生活の終わりを告げる鐘だった。
何の前触れもなく、庵の扉が壊され、私は反射的に娘を胸に抱き締めた。
ゆっくりと姿を現わした夫の姿は壮絶なまでに美しく、三年前と同じ、いや、それ以上に美しかった。
「見つけた――」
艶然と微笑む様は、狂い咲く赤薔薇の如く艶麗でいて、狂気を帯びる。
以前は心から美しいと思ったそれが、とてつもなく恐ろしかった。
けれど体は動かず、また庵を囲む複数の気配に逃げる事は無理だと悟った私に、夫はまた笑った。
「さあ、おいで――」
強引に庵から引きずり出された私達を、夜空に輝く青銀の月だけが一部始終を見ていた。
*
夫は気付いていた。
私が子を産んだことを。
気付いていて、探し出したのだ。
私と子を。
夫は見ていたという。
私が、二人の王子達に乳を含ませていたのを。
ただ一度だけ。
満月の光に照らされた中で見た、幽玄の世界が作り出す光景。
その後、二度と見ることはなく、夫も夢だと思うようになった。
けれど、私が姿を消した事で再びそれを思いだし、夫は知ってしまったのだ。
老夫婦を騙して口を割らせ、私が子を産んだ事を聞き出した。
狂気に堕ち、狂いながらも夫は妻と子を求め続けた。
そして、とうとう見つけた。
とうとう見付かってしまった。
王宮に連れ戻された私は、後宮の一室に監禁された。
それは、王妃として過ごしていた頃に使っていた王妃の間ではなく、高い高い塔の上。
小さい頃に母に聞かされた物語のお姫さまのように、私は閉じ込められた。
部屋の前には見張りの女兵士が配置され、入れるのはごく僅かの限られた者達のみ。
部屋は広く、生活に必要な物は全て揃っていた。
女ならば誰もが夢見る様な物があった。
豪華な衣装、美しい装飾品に部屋の内装。
食事も文句の付けようがなく、鈴を鳴らせばすぐに女官が飛んでくる。
けれど、窓はまるで檻を思わせるはめ殺しの格子状となっており、部屋の唯一の出入り口は常に鍵がかかっている。
高貴な虜囚という言葉が頭によぎった。
私はもう王妃ではない。
ただの、囚われ人なのだと。
それも王を裏切った罪人。
だから、夫は私から奪ったのだ。
たった一人の娘を。
「返して!」
部屋に連れて来られた時、私は娘を胸に抱いていた。
けれど、娘は夫によって引き離された。
足枷をつけられた私の手から、強引に奪い取り連れて行かれた。
返して、返して、返して。
何度も泣き叫び、来る者全てに懇願した。
けれど娘は、長らく私の手に戻ってくる事はなかった。
代わりに夫は毎日やってきた。
そして私に、強姦同然の夜伽を強いた。
子供が産めない体だと説得しても応じず、こんな事は何の益も生まないと懇願しても聞き入れてくれなかった。
強引な口吻から始まり、服を剥がれ体を求められる。
泣いて拒み激しく抵抗すれば、縛り付けられて体を奪われた。
三年間、いや、子を産んでから一度も夫を受け入れてなかった体は当初悲鳴を上げたが、はって逃げ出そうとすれば引き摺り戻された。
そして言うのだ。
「逃げたら娘には会わせない」
「この国を見捨てる」
そう言われれば、耐えるしか無かった。
そんな生活は五年ほど続いた。
外と切り離され、ただ寝台の上で夫を待ち続ける日々。
まるで娼婦同然だと言われても言い返せない生活だった。
そんな中で、私は知ってしまった。
ずっと疑問だった――連れ戻されてから、一度たりともあの貴族が面会に来なかった事を。
娘と夫を結婚させ、私に夫と別れる様に言ったあの貴族は、一度も顔を見せなかった。
その理由は、連れ戻されてから暫くして分った。
丁度その頃、周辺国での戦が終結し、戦火を免れた事が国中が大いに沸き立っていた。
それは、全てあの貴族のお手柄だろうと考えて居た私に、女官の一人が口を滑らせたのだ。
上層部のお気に入りの女官は、笑いながら告げた。
あの貴族の末路を。
「王とあの我が儘娘を結婚させようなど馬鹿な事を」
私が居なくなって半月後。
王妃が失踪しようとも、妾妃達は予定通り後宮入りした。
その中に、貴族の娘も居た。
そして貴族は、喜々としながら夫に申し出たのだ。
戦回避に尽力し、これからも夫の貢献を続ける代わりに娘を正妃にしてくれるようにと。
夫はそれを受け入れ、式は盛大に行うためにも半年という期間を設けた。
貴族は自分野勝利を確信し、未来の国王の外祖父という地位に酔いしれた。
しかしそれこそが夫の狙いだった。
私が居なくなった後、まるで狙ったかのように近付いて来た貴族に不信感を抱いた夫は、即座に貴族を調べた。
そして私の失踪に関わっていると知るやいなや、夫はその貴族を見せしめに使ったのだ。
元々、裏で色々とあくどい事もしていたらしく、事は簡単に進んだ。
先の妾妃達の事もあったのだろう。
夫はその時の経験を無駄にせず、上層部達と共に笑いながら罠にかけたという。
既にその時には狂気に堕ちていたのだろう。
貴族だけではなく、その姫君すらも処刑された。
その凄惨な末路に、夫に文句を言える者は居なくなった――表向きには。
けれど、先の妾妃達が生きていた頃に比べれば、大幅な進歩だっただろう。
それは、既に後宮入りした新たな妾妃達すらも怯えさせ、その親族達の行動を封じた。
そればかりか、王妃を捜す王を誰も止められなかった。
上層部達が止めさせなかった。
狂いゆく王と共に狂っていく上層部。
下級の王宮仕えの者達は怯えていた。
王達は狂ってしまったのだと。
けれど、私は知っている。
昔、同じ姿を見た事があったから。
全てに絶望し、全てを忌避し、生きる事すら望まなかった彼ら。
それを強引に生かしてしまったのは私だ。
そのままそこに留まれば死ぬ筈だった皆を、夫を、強引に外へと引きずり出させた。
後に凪国と津国の王妃となった二人に懇願し、後々彼女達の夫を巻き込み、その土地と共に死を願う夫達を光の下へと引きずり出した。
だから、その後の苦しみは全て私のせい。
壊れ狂いゆく自分達に恐怖し、全てを消し去ろうとした彼らを、私が留めたのだ。
死と共に得られる筈だった安息を全て取り上げて。
「愛してるよ」
子の産めぬ体を貪りながら、夫は囁き続けた。
それが、まるで呪いの言葉の様に聞こえたのは何故だろう。
愛してるのに。
愛していたのに。
きっと何処かで間違えてしまったのだ。
息子達とは、三年目を過ぎた頃から会わせて貰えるようになった。
置いていった二人の王子。
恨まれていると思っていた。
だから、会って貰えなくても仕方ないと思っていた。
けれど、娘と共に逃げ続けても、どうしても忘れられなかった息子達。
身勝手だけれど、息子達の様子をどうしても知りたくて、知りたくて……夫にその事を伝えると、次の日には会わせて貰えた。
息子達は私のことを責めなかった。
お母さんと呼び、会えた事を喜んでくれた。
その小さな温もりにどれだけ癒されただろう。
そして、見捨てて逃げてしまったことを後悔しただろう。
息子達がこうして今も私を受け入れてくれるのは、奇跡でしかなかった。
それほどに私は最低なことをしたのだ。
けれど、息子達もまた狂気に堕ちていると知ったのは、それから間もなくの事だった。
「おかあさんをいじめるあいてはもういないよ」
「みんな、ころしちゃった」
天使の様に愛らしく美しい笑顔で「殺す」という言葉を二人は使った。
驚く私にクスクスと笑い続け、もう大丈夫と穢れの無い笑みを向けた。
「これでずっといっしょだね」
「うん、いっしょ」
「ぼくと、おとうとと、ととさまとおかあさまと」
「あのことごにん」
夫は私が居なくなった後も、息子達と変わらず接していたという。
愛せなくても、父としてできる限りの事はしていたと。
「ととさまのてきはころさなきゃ」
「そう、おかあさまたちをいじめるあいてなんて、いらない」
私の身勝手な行動は、息子達まで狂わせたと知るも、既にどうする事も出来なかった。
夫の嘆き悲しむ姿に、息子達は思ったのだ。
お母様が居ないからだと。
お母様が此処に居られないようにした奴等のせいだと。
「ずっといっしょだよ、おかあさま」
「いっしょだよ」
私の、せいで。
それ以来、息子達は週に一度来てくれるようになった。
週に一度なのは、それ以上は夫が許さなかったからだ。
また逃げるかもしれないという恐れから、息子達と会うときにも必ず監視がついた。
それも仕方ない。
私は逃げたのだから。
そして、もしまだ逃げられるのならば逃げたい、という思いは消えてはいなかったから。
それから更に二年が経ち、王宮に連れ戻されてから五年目の春を迎えたその日、ようやく逃亡の恐れがないとして私は娘と再会する事が出来た。
娘は元気にしている、姫として最高の教育を受けていると皆からは聞かされていた。
息子達からも、夫が娘を大事にしてくれている事は聞かされていた。
今まで離れていた分を埋めるように、母を恋しがる娘に根気強く接し続けた夫。
夫に手を引かれやってきた娘は、美しい衣に身を包み綺麗に髪を結われていた。
五年も経ったのだ。
私の事を忘れてしまっていないだろうか。
そんな恐怖も、娘と出会った瞬間何処かに吹っ飛んでしまった。
ただ娘を抱きしめれば、娘も抱き締め返してくれた。
「声」が無いにもかかわらず、お母さんと呼ばれた気がした。
それから、やはり息子達と同じく週に一度部屋を訪れてくれるようになった。
娘と息子達は非常に仲が良いらしい。
といっても、息子達が一方的に娘を構い倒し、遊びに引き入れていくのだという。
「本当に仲の良いご姉弟で」
見た目は娘の方が幼いが、実は息子達の方が年下だ。
けれど息子達は、娘の方が年下だと言って譲らないらしい。
そんなたわいない女官達の会話に笑みをこぼし、私は愕然とした。
気付かぬ間の心境の変化。
それは、確かに起こっていたのかもしれない。
それは夫も同様だった。
その頃から、少しずつ、少しずつ。
夜伽は相変わらず毎夜求められたが、昼間は週に一度外に連れ出してくれるようになった。
そうして私は多くのことを知った。
とくに、夫がどれだけ子供達にとって良い父であろうとしていたかを。
息子達に武術の鍛錬を行う夫を見た。
何日かに一度、自ら王都につれていき市政を学ばせた。
昼食だけは、必ず子供達ととった。
愛せないと言った筈の王子達にも声をかけ、その姿は普通の父子のようだった。
それは王宮の者達にも好意的で、もはや誰も王子達を罪人の子として見る者は居なかった。
また夫は、当時取り戻したばかりの娘が「声」を出せない事を知ると、すぐに国中の医者を呼んで診させたという。
そうして、ありとあらゆる手を尽くしてくれたと。
結果は残念なものに終わったが、夫は娘を心から愛してくれた。
「お父様の事は好き?」
「すき、おかあさまとおなじぐらい」
娘は父親を慕っていた。
母の身勝手でずっと引き離していたとは思えぬほど、父親に懐いていた。
引き離すべきではなかったのかもしれない。
私は初めて自分の行いを恥じた。
だが、それでもあの時は精一杯だったのだ。
娘の命を守るために。
でも、娘と夫の姿を見れば見るほど、心の中の後悔と苦悩は大きくなった。
娘の身を守ることと、父や弟達との時間を守ること。
果たして、どちらを優先すれば良かったのだろう?
私自身にも、分らなくなってきた。
けれど、もう、逃げる事は諦めていた。
娘と夫の姿を見れば、子供達の仲の良い姿を見れば、もうそんな事は考えられない。
上層部にも言われた。
夫は娘と会えて本当に喜んでいたと。
もう、二人を引き離さないでくれと。
引き離されれば、今度こそ夫は狂い壊れると。
同時に、私にも此処に留まり、王妃として居続けるように懇願された。
何者からも守るから。
貴方が居れば、自分達は優しいままで居られるから。
津国や凪国の上層部にも引けを取らない優秀な彼ら。
美しく聡明で才高い彼らは、同時に恐ろしいまでの脆さを持つ。
その脆さの奥に潜むのは、確かに狂気。
一度解き放たれれば、もう止められなくなる。
けれど、夫達はその狂気を少しずつ押さえ込んでいった。
娘を抱き締め笑う夫の姿を見ていれば、嫌でも分る。
だから……。
そうして穏やかな日々が続き、私はその日々を楽しむようになっていた。
また、娘と再会して半年ほど経った頃に、ようやく娘と共に住まう事が許された。
といっても、娘と同じ部屋ではなく、私と夫の部屋のある宮の一室に娘や息子達の部屋があるというものだった。
けれど、行き来は自由で、いつでも会いに行けた。
ただ、まだ私への監視はあったが、それでもようやく取り戻した娘との生活に私は浮かれていた。
いや、娘だけではない。
息子達も居る。
夫も居るし、連れ戻された当初の頃よりも優しくしてくれるようになった。
友人である上層部達も頻繁に来てくれた。
幸せだった。
満たされていた。
たぶん、神生の中で一番幸せな一時だっただろう。
そうして、いつしか忘れてしまっていた。
私と娘が王宮に留まることが、いかに危険な事であるかという事を。
例え、夫の狂気に怯えたとしても、それ以上に夫の魅力に虜になっていく彼女達の存在を。
彼女達にも心があり感情があるという事を、見て見ぬふりをした。
それが、引き起こした悲劇。
いや、バチが当たったのだ。
不相応にも、沢山の幸せを手に入れてしまったから。
私の幸せの影で、あんなにも多くの姫君達が嘆き哀しみ狂っていく事に気づけなかったから。
私は王妃。
王妃は後宮の主であり、後宮の管理者。
私は、それを忘れていた。
王の訪れがないまま放置された後宮で人知れず恨み辛み、嫉妬を募らせていった妾妃達の暴走は、最悪の結果を引き起こすものとなった。
「いやぁぁぁぁぁあっ! フォレンティーナぁぁっ」
子供達の居た塔に放たれた火は、私の娘を食らいつくし、骨一つ残さず焼き尽くした。
それは、初めて娘と夫が出会ってから、丁度十年目を迎える数日前の事だった。