王×王妃③(シリアス物)
警告)母乳に関する表現が出て来ます。苦手な方はUターンお願いします。
王宮に戻った私を最初に出迎えたのは夫だった。
三つ編みの淡い青味を帯びた長い銀髪に、私は目を細めた。
血を呑んだ様な赤い唇が私の名を紡ぎ、触れた雪花石膏の滑らかさに目を閉じる。
色素の薄い瞳は切れ長で鋭く、冷たい印象を和らげる為にいつも着用している伊達眼鏡は外されていた。
艶麗な美女の如き美貌は、津国や凪国の王に並んで炎水界でも轟く絶世さだった。
少しやつれているようだったが、それがまた何とも言えない色香を漂わせていた。
鼻孔をくすぐる甘い香り。
「ああ、ようやく帰ってきた――」
私の名を呼ぶ夫。
力強く抱き締めるそれに、やはり男だと改めて認識する。
服の上からでは分らないが、鍛えられた体は無駄な贅肉のないしなやかなもの。
長身痩躯だが、決してヒョロナガではない逞しい体は、多くの女性達がその腕に抱かれ乱れたいと願うものだった。
この腕で、妾妃達を抱いたのだ。
何故今更そう思ったのか。
それは、夫から感じた女物の香水が原因だったのか。
夫が私の頬を両手で包み込み顔を近付ける。
奪われる様に塞がれた唇。
その激しい口づけに、まさかという思いがあった。
ここは謁見の間だ。
私的なそれだとはいえ、誰が入ってくるとも知れない場所。
当然拒んだ私に、夫は縋り付く。
「逃げるな、逃げるな――」
そのまま押倒された私の瞳を夫が覗き込む。
美人は得だと思うほど、哀しげに歪められた顔は壮絶な色香を称えていた。
抱き締めて慰めてあげたい
そう思うほどに悲痛な色を見せる夫。
この数ヶ月間、子供達を全員失い、反乱の収束やらなにやらと駆けずり回されていた夫。
そうだ――子供達は何処に埋葬されたのだろうか。
半分とはいえ愛しい夫の血を引く子供達。
先に産まれた三人は、皆妾妃達にそっくりだったという。
だからだろうか?
妾妃達があんなにも簡単に子を殺してしまったのは……。
いや、そんな馬鹿な理由で殺すなんて有り得ない。
求めていたのは愛しい男の愛。
ただ愛して欲しくて、歯止めを失い暴走した悲劇の結末。
愛しい相手に愛してほしくて、たった一人の相手にしてほしくて。
それは実の子すら殺すほどに……。
上層部の一人は言った。
哀れな女達だったと。
けれど、本当に哀れなのだろうか?
私だって……もし、私がその妾妃だったならば……。
喉の奥底に押し込んだものが心を突く。
私ならば……どうしただろう?
妾妃達の話を聞いてから、心の片隅で考えて居た。
私ならば、何をしたのか。
最初の妾妃が思い出される。
妾妃はたった一人だけと言った夫。
けれどそうして迎えられてみれば、その後すぐに他の妾妃達が続々と迎えられていった。
その時の妾妃は夫に詰め寄り泣き叫んだという。
私だけだと言ったのに。
私一人だけが唯一の妾妃だと。
夫の愛を、他の女性達と共有する事を拒否した一番苛烈な姫だった。
周囲に当り散らし、他の妾妃達をいじめ抜いた。
彼女がようやく落ち着いたのは、妊娠が分った時である。
自分が一番最初に子を産むのだと知り、優越感に浸り、何度も他の妾妃達を読んでお茶会を開いた。
そして私をも呼び、その新しい命が宿った腹を見せつけてきた。
現正妃である貴方にも出来ない事を私はしてみせたのだと。
私こそが、正妃に相応しいのだと。
反対に私はどうしただろうか?
嫉妬というより諦めが強かった。
それは、夫が妾妃を持つと決めた時と同じ。
ずっと前から気付いていた。
子供が居ないから妾妃を持った夫。
けれど、私との間に子が居たとしても、ずっと妻一人だけで通せたのだろうか?と。
心変わりを別としても、王である夫はその地位故に別の女性を娶らなければならない時がいつか来るかもしれない。
王は国に尽くすべきモノ。
国と民の安寧の為に力を注ぐ。
その絶対的権力と引き替えに、王は多くのものを犠牲にしなければならない。
それが例え愛する存在だとしても。
美しく気高く誰よりも愛しい人。
だから、静かに諦めた。
夫が王になった時から心の片隅に留めて置いた。
いつか、別の女性を迎える時が来たならば、それを受け入れようと。
笑顔で、文句一つ言わずに。
それは決意。
でも、言い換えれば諦めだった。
ただ一人の妃になる為に戦い続けた妾妃。
戦う前から諦めた正妃。
果たして、どちらが正しかったのだろう。
私にも分らなかった。
ただ分るのは、国を少しでも早く以前の水準まで戻す必要がある事だけ。
そして――。
私を押倒したままの夫が私の服の裾から手を入れる。
それが、太股に触れた時だ。
「っ――」
胸の頂きから流れたものが服を濡らす感覚にハッとした。
それが何かを理解する前に、夫の手を拒み距離を取る。
驚く夫の視線に私は取り繕う様に告げた。
「ご、ごめんなさい、まだ体調が安定してなくて……」
体調が優れないとして離宮に移った身だったから、夫はすぐに納得してくれた。
そんな夫に申し訳なく思いながら、私は胸に感じる違和感に冷水を浴びせられた様な思いだった。
思い出すのは娘の顔。
母になった体は正直だった。
此処に我が子が居ないにもかかわらず、産まれた我が子の為に蜜をこぼし続ける。
愛しい娘。
私と老夫婦しか知らない、隠された子。
待っていて。
いつか、必ず会いに行くから。
それが一時になるのか、永遠になるのかは分らない。
けれど……。
私は遠く離れた場所に居る娘へと思いを馳せた。
*
それからの私は、殆ど不眠不休で働き続けた。
もちろん、落ちこぼれで無能な王妃に出来る事はそれほど多くなかったが、それでも猫の手よりはマシと思わせるぐらい良く動いた。
休んでいる暇などなかった。
今こうしている間にも、貧困と戦火の傷で倒れていく民達を思えば、休むなどという単語は浮かばなかった。
それに、少しでも早く娘に会う為には、とにかく働かなければならない。
一ヶ月、三ヶ月。
時はどんどん過ぎていったが、その年は洪水やら土砂崩れなどの災害も発生し、復興を阻害した。
また私自身も、頻繁に仕事を中断しなければならなかった。
それは、胸から流れる母乳が原因だった。
子を産んだ体は、子を育む為の母乳を作る。
例え子が側に居なくても、体には関係ない。
ポタポタと垂れて服に染み込む感覚に気付くと、すぐに物陰へと走る。
そして胸を手で押えて母乳を絞り出すのだ。
一度そのまま放置した事があるが、服の濡れは誤魔化せても匂いでばれそうになった。
子供を産んでいない筈なのに、母乳が出ているなんて知られたら一発でばれてしまう。
それ以来、私は母乳が流れ出すとすぐに絞る様になった。
けれど、絞った母乳はそのまま地面か排水溝に流すしかない。
それを見る度に、私は何をしているのだろうと自嘲した。
本当ならば産んだ娘に含ませていた母乳。
たった一度だけ与えたそれを、娘は勢いよく飲んでくれた。
なのに今は誰の口に入るわけでもなく、こうして流れ落ちていく。
「馬鹿、みたい」
私は涙を拭い続けながら搾乳し続けた。
娘に飲ませてあげたかった……。
そんな私に、王宮に響く赤子の声が追い打ちをかけた。
官吏の子供だろう。
赤ん坊の泣き声が聞こえる度に、無意識に娘を捜し続けた日々。
それに加え、赤ん坊の声に私の胸から母乳がにじみ出していく。
いっその事、全てをばらして娘を迎えに行きたかった。
けれど、次第に王宮に入り込む暗殺者の増加に私はその願いを諦めた。
暗殺者は、妾妃達の親族達の協力者が差し向けた者達だけでなく、今後新たに妾妃を送り込もうとする者達から差し向けられた者達も多く、その全てが正妃である私を標的としていた。
今ならば、全ての罪を捕縛された妾妃達の協力者達に押し付けられる――そんな考えを抱いているのだ。
だから、諦めるしか無かった。
命を狙われている母の側ほど危険な場所はないから。
また問題はもう一つあった。
子を産んだ体は子の為の体となっていた。
毎日流れ出る母乳は一向に止まる様子を見せない。
そんな体では当然夫を側に近付ける事すら出来なかった。
それどころか、夜の生活を求めてくる夫を拒み、寝室すら別にしなければならなかった。
体調不良という名目は、不眠不休で働く時点でもう使えなかった。
だから、今は民達の為に働く時だと誤魔化し続けたが、夫の不満は日に日に募っていった。
元々迎えたくもない妾妃達を迎え、ようやく産まれた子供達は全員殺され、反乱収束後には舞い込む大量の仕事をこなす日々。
なのに、ようやく戻って来た妻からはひたすら拒まれる。
上層部からもそれとなく懇願されたが、出来る筈がない。
夫に抱かれている最中にもし流れ出したらと思うと、私は夫を拒み続けるしかなかった。
そうして私が王宮に戻ってから数ヶ月目。
捕縛された時に身重だった二人の妾妃の一人が出産した。
しかし、出産した妾妃は乳母達に剣を振り上げて子供を奪い取り、塔の上に立て籠もってしまった。
子供は生まれ次第取り上げと聞いていた私は、子を奪われる苦しみ故の事だと考えた。
それまでにも、同じ母として子を奪うのは余りにも酷だと夫に懇願した事もあったが、聞き入れて貰う事は出来なかった。
『あの女どもに同情など無用だ! 産まれても殺せば良いと言い放った奴等だぞっ』
それほどまでに貴方を愛していたのよ――。
思わず口を突いて出た言葉に浮かべた夫の笑みは、今も瞼の裏に焼き付く。
『愛していれば何をしてもいいのか? ならば、とっくの昔に俺は国を見捨てていた。お前以外を娶らせようとする国を! 俺は捨てた!』
愛していた。
愛していたけれど、どうにもならなかった。
傷ついていたのは夫も同じ。
国のために、民達のために、子供を残すためだけに夫は妾妃を娶った。
愛する妻を手放さない為に。
私を側に置き続けてくれる為に。
子が産めない正妃を側に置くために、愛してもいない女達を抱いた夫。
全てを承知の上だった正妃と王と妾妃達。
夫は自分を犠牲者だとは決して言わない。
私も、言わない。
だって、一番の犠牲者が誰かなんて知っているから。
ただ、国のために生み出された子供達。
そして母の愛故に殺された子供達。
両親が愛し合っていないと知った時、子供達はどう思うだろう。
巻き込まれた子供達。
犠牲になった子供達。
夫は子供達を決して蔑ろにはしないだろう。
けれど、それだけだ。
跡継として育てる。
けれど、父としての愛情を注げるか分らないと言った夫。
その様子に、それ以上の事を要求するのは無理だった。
夫は王になどなる気はなかった人だ。
けれど、大勢の者達が大戦で死に、他になれる者が居なかったから受け入れた。
そして必死に自分の義務と責任をこなし、妾妃まで受け入れた。
七人もの子をつくり、その子供達に対してもできる限りの教育を施そうとした。
もしかしたら時が経てば変わるかもしれない。
けれど、今は駄目。
夫が壊れる。
不遇な幼少時を過ごし、王になってからも自分の権力と美貌に多くの者達が群がり、妾妃達は夫の心を争い子供達まで殺してしまった。
夫が受け入れれば良かったのだろうか?
全てを諦めて、全てを割り切って……。
けれど、もし夫が妾妃達を愛しても、彼女達がそれで満足した可能性は低い。
ただ一人の女性になりたい。
ただ一人の妃になりたい。
他の女達など死んでしまえ!!
そう願い続けていた妾妃達。
その為には、どんな手段だってとり、王の忠告も警告も無視した彼女達。
そうして捕らえられた後も、ひたすら王への愛を叫び、死んだ子供達の事は欠片も口にしない。
私も褒められた存在ではない。
王妃であることを選び、産まれたばかりの娘を置き去りにした鬼母なのだから。
けれど……。
それでも何処かで信じたかった。
同じく子を産んだ者として、妾妃達の子への愛情を。
けれど、それが浅はかな思いだった事は、誰に指摘されるまでもなく私の心に染み込んでいった。
今思えば、その時に気付くべきだったのかも知れない。
夫の、壊れ逝く心を。
そして、命を預け合った仲間であり、敬愛する主君の不遇に対する己の無力さに苛立つ上層部達の狂気に。
「どうかわらわを正妃に! でなければこの子を殺しますっ」
私が塔に駆け付けた時、妾妃は子の首を掴んで柵の外にぶらさげていた。
まるで猫の子供――いや、物でも掴むかのように。
「わらわは貴方様を愛してる! わらわこそが正妃に相応しい! どうかわらわをお側において下さいませっ」
妾妃は泣き叫び懇願した。
けれど、夫は終に頷く事はなかった。
そして妾妃は絶望し――子を塔の外へと放り投げたのだった。
「あ――」
気付けば走り出していた。
伸ばされた夫の手をすり抜け、柵を乗り越えて赤ん坊を掴む。
「――っ!」
何か聞こえた気がした。
けれど、視界は一気に真っ暗になり気付いた時には、寝台の上に寝ていた。
赤ん坊は傷一つ無く助かったと言われた。
そして妾妃は処刑したと言われた。
それも、夫を道連れにしようとし、その場で切り捨てられたのだという。
私は手足の複雑骨折に加え、子宮を損傷していた。
何でも、落下したときに、緩衝剤になった茂みから突き出た木の枝が子宮を貫いていたらしい。
こうして、私は二度と子の産めない体になった。
それは同時に、新しい正妃又は妾妃が必要になるという事だった。
しかし命がけで妾妃の子供を守りきった私を目撃した者達は多かった。
王宮勤めの者達だけでなく、王宮一の高さからの塔だったが故に民達の目にもその光景は一部始終目撃されていた。
私は、他の妃の子を命がけで救った勇気ある心優しき王妃と謳われた。
結果、子が産めなくなったにも関わらず、王妃から引きずり下ろされる事はなかった。
けれど、ただそれだけ。
確かに王妃で居る事は満場一致で可決された。
しかし、王妃の地位が許されたからといって、王に新しい妾妃が不要というわけではなく、新しい妾妃選びを止める事は出来なかった。
私にも、王にも、上層部にも。
それから一月後、身重だった最後の妾妃が産んだ子とあわせて王の子は二人。
けれど、新たに自分の縁者の娘を妾妃に差し出したい者達にとっては、罪人の子供として王子二人の存在を無視し、新たな妾妃の必要性を訴え続けた。
そんな彼らも、私が王妃で居続けることに承認の意を示した者達だったが、それは民達や貴族達にとって美談の主となっていた王妃を引きずり下ろす事で彼らの怒りを買う事を恐れたからだろう。
ライバルの子を命がけで守りきった王妃は称えられこそすれ、退任させたとなれば間違いなく国民達の怒りを買う。
私は知らなかったが、夫の為に文句一つ言わず妾妃達を認めた私は、国民達にとっては国のために尽くす理想の王妃として認識されていたらしい。
と同時に、問題を起こした妾妃達の一件から、王が新しい妾妃達を持つ事を忌避する傾向が広がっていたという。
だから、彼らは王妃を辞めさせられなかったのだ。
辞めさせれば、妾妃すらも王の側に上げられなくなる。
もし正妃が無理でも妾妃として送り込むという手段を封じられるぐらいなら、ほとぼりが冷めるまでは王妃はほっとくべきだ。
そちらに天秤が向いたとしても不思議ではなかった。
そんなわけで、妾妃選びも慎重に行われると共に、内乱による後始末が一段落するまでは、一人たりとも新しい妾妃が王の側に上がることはなかった。
一方、残された二人の王子の身の振り方が問題になったが、できる限り妾妃達を減らしたかった王達によって、王位継承権は一時預かりとしてそのまま王子として育てられる事になった。
それは現時点では王位継承権を返上しているが、成長し今後の頑張り次第によっては王位を継ぐことが出来るというものだった。
だが、それは他の妾妃に新たな王子が産まれれば、王位継承権は果てしなく遠のくという条件付きで。
とはいえ、罪人として駆逐される事なく、王子として王宮に留まれたのは幸運だっただろう。
問題は、妾妃達の血を引く王子二人の面倒を見たいと思う者達が居ないというだけで。
そうして気付けば、私が王子達の世話役を引き受けていた。