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『海国宰相×海国文官 番外編 ~もし、紅藍に拾われなくて侍従長に拾われていたら~』

 あれから……どれほどの時を彷徨っただろうか。

 強くなった雨脚。

 濡れた衣服の重みは感じないが、体が酷く冷えていた。

 暖を取ろうにも、この状態では店には入れない。

 追い出されるか、それとも心配されるか――ただどちらの場合も騒ぎとなる。


 いや――今更騒ぎになった所でどうだと言うのだ。


 あの光景を思い出せば出すほど、その心配は無用の長物だともう一神の自分が囁く。


 けれど、結局は店に入ることもなく私は歩き続けた。

 雨のせいか、神通りは少ない。

 特に路地裏ともなれば。


 歩いて、歩いて、歩いて。


 そして遂に私の足は止まった。

 パシャンと膝を突き、地面に倒れる。


 あれほど凍えていた体が、今は酷く熱い。

 ああ、熱を出したのだ――。


 神と言えど不死ではない。

 病で死ぬ事もある。

 肺炎――そんな言葉が脳裏によぎり、そして……。


 少しずつ消えていく意識の中で、熱い物が頬を伝った。


「っ?! 躑躅?!」



 切羽詰まった声が耳を打つ。それが、聞き覚えのある懐かしい声の一つだと気づき、私は最後の力で顔を上げた。


 そこに居たのは--


「侍、従長、さ--」


 最後まで言い切る事無く、私は意識を失った。





 再び目を覚ました時、私は侍従長様の持つ屋敷に居た。王都にある屋敷で、王都に用事がある時にはここで寝泊まりをしていると侍従長様は言われた。


「本当は君の家に連れて行こうと思ったんだけど」


 意識を取り戻した私に、侍従長様は説明してくれた。私は、意識を失いながらも「逃げないと……」と呟いていたらしい。


「ずっとどこに居たの?! 心配してたんだよ!」


 私が突然居なくなって二ヶ月半。確かに辞職届けは出していたけれど、私の性格上挨拶回りに来る筈もそれが無く、消えるように居なくなってしまった事に疑問を持つ方達が居たという。また、辞めた後に私の家を訪れた所、弟妹達も居なくなっていたと侍従長様は言われた。


「君の再就職探しの為に紫魄が一時的に預かっているって聞いては居たんだけどさ」


 紫魄--海国宰相様の名に、私はやはり宰相様が弟妹達を連れていったのだと改めて思い知る事となった。


「その、弟妹達は」

「ん? なんか信頼出来る夫妻の所に預けているらしいよ。ああ、紫魄のお墨付きだからしっかりとした所だよ。まあ、仕事探しをしながら弟妹の面倒を見るのはやっぱり大変だからね。あ、でも相談してくれれば僕と界も手伝ったのに」

「……」

「あ、それと仕事もさ、遠くに行かないで王都はどう? その、確かに紫魄の事はあるけど、でもきっと躑躅なら紫魄よりもずっと素敵な神が見付かると思うし、その、僕も躑躅と会えなくなると寂しいし……」


 そこで侍従長様は何処か決まりの悪いを顔をされた。


「その、僕との事も、もう一回考えてくれないかなぁって」


 もう一回--。


「もう、一回?」

「そ、そう。その、もうフラれてるのは分かってるんだけど、さ」


 侍従長様曰く、私が何も言わずに二ヶ月半もの間、姿を消していた事で前の告白は断られたと判断したらしい。確かに私が相手に告白して相手が二ヶ月半も音信不通になっていれば、私だってそう思うだろう。


「その、もう素敵な相手を見つけた、とかだったら……その」


 何かを言おうとして、結局言えずに黙ってしまった侍従長様に私は思わず笑ってしまった。本当は嫌なのに、それでも我慢して相手を祝福しようとする--。


「私は、侍従長様を好きになれれば幸せだったかもしれませんね」

「躑躅?」

「……そんな事、分かり切って、いるのに」


 涙がボロボロと零れる。嗚咽が口から漏れだし、遂には泣き出してしまった私を侍従長様は優しく抱き締めて下さった。


「何があったのかは知らないけど、でももう大丈夫だよ」


 此処に居れば大丈夫と優しく言って下さる侍従長様の声を聞きながら、私は何度も頷いていた。




 侍従長様は何も聞かなかった。

 私も何も言えなかった。


 ぼかして説明しても、きっと侍従長様は気付いてしまれるだろう。

 それに--。


 私は自分の身体にいまだに残る幾つもの赤い痕を思い、気が重くなった。身体中に散らばる痕は、此処に来た三日前に比べると少し薄くはなったが、まだまだしっかりと残っている。この痕を侍従長様は見たと言う。屋敷の侍女が教えてくれたのだ。


 この痕で、私に何があったのかを侍従長様は気付いただろう。同意の上でと誤魔化せれば良かったけれど、手首には縛られ傷となった痕が残っているし、そういうのが趣味--と思って貰えなければ確実に同意無しと感づかれてしまう。


 それに、私自身が屋敷で仕える男性に怯える姿を見せてしまい、きっとそれも侍従長様の抱く疑いを濃くしてしまっている筈だ。

 侍従長様は大丈夫なのに……と私は不思議に思った。


 宰相様との行為は、私に他の男性への怯えという形で残ってしまっている。私が怯えてからは、屋敷仕えの男性達は近づこうとはしない。私の視界に入らないようにしてくれるのだ。それがとても申し訳なくて、私付きとなってくれた侍女に涙ながらに話した事もある。


「大丈夫ですよ。彼等はなんとも思っていませんから」


 そう言って慰めてくれる侍女は、侍従長様の腹心の一神だと聞いた。


「今はとにかく身体を休めて元気になって下さい。我が君もそれだけが望みですから」


 侍女の言葉に、私は小さくお礼の言葉を告げた。何も言えないにも関わらず、こうして私をこの屋敷において下さり世話をして下さる侍従長様。そして世話をしてくれる方達に、私は心の中で何度もお礼を言った。


 侍従長様は、私をこの屋敷に匿っている事を誰にも告げていない。

 私が懇願したからだ。

 だから、侍従長様と仲の良い副事務長様--界様にも伝わっていないし、陛下にも話をしていない。当然、宰相様には絶対に話は伝わらないだろう。


 話では、宰相様はご自分の配下を何神か動かして何かを探していると言う。その捜し物が私である事はすぐに気付いたけれど、幸いな事に侍従長様は気付いていらっしゃらない様子だった。


 それを知らされたのは、ここで目を覚まして程なくの事だった。その時に、すぐにでもこの屋敷を辞して王都を離れるべきだったけれど、そうするには私の体力が足りなかった。


 それに侍従長様にも反対をされた。


「仕事を探すにしろ、もう少し休んでからでないと」


 今の状態で動くのは断固認められないと言われ、私は従った。そうして三日、この屋敷にお世話になっている。


 宰相様は今も探し続けていると言う。


 いっその事、宰相様が飽きるまで此処で身を潜めているのも良いかもしれない。確かに宰相様を怒らせてしまったけれど、宰相様には縁談が控えているし、所詮私は換えのきく愛神の一神だ。どれだけ腸が煮えくりかえろうとも、いつまでも私如きに構っていられるお方では無い。それに、きっと時間が経てば私に対する全ての気持ちは消えてしまうだろう。


 そうなれば、今度こそあの方は泉国の王妹様と誰からも祝福される夫婦となれるのだ。


 それに、泉国の王妹様も、夫に女性の愛神が居て悩まされて良い方では無いし、泉国の宝とも言える王妹様を蔑ろにすれば泉国への宣戦布告にもなりかねない。


 海国と泉国が戦争をするなんて、とんでもない話だ。


 宰相様だって、そんな未来を選ぶ事は無いだろう。あの方はとても聡明なお方だから、きっと海国の為に行動されるだろうし、お優しい方だからご自分の妻となる方を悲しませたりはしないだろう。


 そう--私が、見付からなければ良いのだ。





 それから一月経過した。





「侍従長様、お疲れのようですね」

「うん、紫魄の仕事までこっちに押しつけられてるからね」

「え?」

「ああ、なんか視察の仕事が幾つか増えたらしくって、その余波だね。でも不思議だよね? 前はそんなに視察はしなかったってのに。あの陛下大好き男がさ」


 それを言うと、副事務長様から「お前もだろ」と言われた侍従長様の口調に、私はクスクスと笑ってしまった。けれど、すぐに何とも言えない思いが渦巻く。


 今まであまり視察のされなかった方が、視察--。


「あ、そういえば捜し物は見付かったみたいなんだ」

「え?」


 捜し物という言葉に、私は身構える。


「なんかさ、紫魄が動かしていた配下が下の部署で働き始めたからね。で、紫魄に聞いたらもう見付かったとか言ってたし」

「そ、そうなんですか?」


 見付かった?でも、私は今も此処に居るし--。


 顔色の悪い私に侍従長様が気付く。


「どうしたの?」

「い、いえ、何も」

「そう? なら良いんだけど--あ、そうだ、仕事探しだけど王都は嫌なんだよね?」

「え、あ、はい」

「ならさ、そこから少し放たれ場所なんだけど住み込みでっていう所があるんだ。ここなら王都

に出てくるのも近いし、どうかな?」

「え、えっと」


 地図を出され、幾つかの場所を示される。けれど、どこも王都までは一日程度で辿り着いてしまう。出来ればもっと離れた所が良いと告げれば、侍従長様は何処か悲しげな笑みを浮かべた。


「そっか……うん、じゃあもう少し考えてみるよ」


 そうして気付けば、何故か侍従長様に次の仕事を斡旋して貰うといった形になってしまった。……まあ、少しの間勤めて、その後は退職して別の場所にという方法も取れなくは無いし……それに、弟妹達の事もある。


 宰相様が私の事を諦めた後、弟妹達はどうなるかが問題だ。もちろん、あの方がそのままほっぽり出すという事は無いだろうけれど、今までのように……とはいかない筈だ。だから、その時には密かに弟妹達を連れに行かないと。


「その、申し訳ありません、こんなにも長くお世話になってしまって」

「え? ううん、良いんだよ! それより、僕としてはもっと長く居て貰っても良いんだけどね」


 ウインクされながらそう言われて、私は苦笑した。


 宰相様もそうだけれど、侍従長様だって私には雲の上の様な存在だ。本来ならこうして側に居る事すら難しいのだ。直接言葉を交わす事だって、私には分不相応だ。


 それに、侍従長様に憧れている方達はとても多い。それこそ男性女性関係無く、この素敵な方と遊びでも良いからと身を投げ出す方々は掃いて捨てる程居る。


 だからそんな侍従長様に愛を告白されるなんて、とんでもなく恐れ多いし……それを受け入れるなんて、私には許されない。それも、まだ宰相様に心を残している私が他の男性の想いを受け入れるなど、相手にとって物凄く失礼になる。


「君となら、きっと幸せになれると思うんだ」


 侍従長様の言葉に、私はきっともっと早くに答えを返すべきだったと思う。




 そんな機会を逸脱してしまった私に、青天の霹靂とも言うべき報せがもたらされたのは、それから更に一月後の事だった。


 侍従長様に縁談話が来たらしい。

 と、それだけならいつもの事だったけれど、今回は相手がかなり厄介な存在だと言う。侍従長様はあれと結婚するぐらいなら死ぬ--と、いつもなら「とりあえず数ヶ月だけ結婚して、その後離婚っていう手もあるよね? まあ、強力な後見がなくなれば、結婚なんて続けられないよね? 向こうも」と内容はとんでもないが、悪戯っ子の様な笑みを浮かべてそれさえも楽しんでいる侍従長様だと言うのに。


 ただ、今回ばかりは嫌で通る相手ではないらしい。

 それで陛下に相談した所、既に結婚する相手が居れば何とかなるとの事だった。もちろん、それでも突き上げは来るだろうけれど、正妻から相手を引きずり下ろす事は出来ない筈だ。


 その相手として、私が選ばれてしまった。


「ほ、他の相手は、いらっしゃらないんですか?」

「上層部仲間に聞けば居るかもしれないけど--その」


 何でも、めぼしい女性陣は王都から離れていて、他の女性陣は既に相手が居るので出来ないという。下手な女性に声をかければ後々厄介だし--と侍従長様は小さな声で呟かれていた。


「その、君の戸籍に傷を付けてしまうかもしれないから、その、本当はこんな事を頼むのは駄目なんだけど」


 侍従長様が酷く申し訳なさそうに縮こまる。そんな侍従長様を見て、私に拒否するというのは難しかった。


 宰相様の事もあったけれど、もうあれから二ヶ月は経っていたし、そもそも宰相様はこの一月の間に以前の宰相様に戻られたと言う。

 そう--もう、私の事なんて忘れてしまっただろう。


 それに、私と婚姻を結んでも私が矢面に立たされるという事は無いと侍従長様が請け負って下さった。


「その、結婚式は行わなければならないんだけ、ど」


 ヴェールで顔は隠すし、大丈夫だと言う侍従長様に、私は頷いた。


「神生に一度ぐらい、花嫁衣装を着るのも、良いかもしれませんしね」


 たぶん私は一生結婚しないだろう。でも、幸せな花嫁に憧れていなかったわけではないし、花嫁衣装を着たいという気持ちもあった。


 それに、これは幸せな夢なのだと割り切れば、そう悪い事でも無いだろう。侍従長様は嬉しそうに微笑まれると、「すぐに陛下にお願いしてくるからねっ」と言って走り去っていかれた。



 そうして式は、二週間後に行われる事となった。


 心配だった宰相様は、視察が長引き式の二日後に戻ってくると聞き、私は安堵した。本来なら高官--上層部の方の婚儀となれば宰相様も参加するのが普通らしいが、大事な視察なので切り上げが難しいとの事だった。


「別に紫魄は良いよ。きっと君にキツイ事を言うだろうし」


 侍従長様はぷいっと頬を膨らませて顔を背けてしまった。




 そう、何事もなく終わる筈だった。




 式が遅れると聞いた時、嫌な予感がした。


 式自体は侍従長様が華美な事は嫌いだからという事と、あと別れた時の事も考えてささやかな物になる筈だった。もちろん、高官である侍従長様の婚儀となれば普通はそんな事は許されないが、陛下が許された事もあって認められたという。


 王都にある侍従長様の屋敷の一つ--私が滞在していた場所とは違う屋敷で、私は静かにそれを待っていた。

 紅い花嫁衣装を身に纏い、やはり紅いヴェールで顔を隠した私はふと外の騒ぎに気付いた。


 侍従長様が戻ってこられたのだろうか?


 突然入った仕事で出掛けられ、式までには戻るからと笑って出掛けられた侍従長様の訪れを待てば、代わりに刀を手にした男達がなだれ込んできた。


「居たぞ!」

「盗神女だ!」


 盗神--その言葉に、私は呆然とした。


 ただ、彼等は皆殺気立ち、刀をこちらに向けてくる。


「ふん--あんたもとんでもない女だな? 高貴な姫君との縁談のある高官をたぶらかし、のうのうと正妻の座に納まろうとするなんてな。馬鹿な奴らが許しても、おてんとう様は許さねぇよ」

「自分の馬鹿さ加減を地獄で後悔するんだな」


 男達がジリジリと近づいてくる。


「アンタは苦しめて殺せと言われてる。分不相応な願いを抱いたのが悪かったな」

「おい、自殺に見せかけて殺すんじゃなかったのか?」

「父親の方はそうだったが、娘の方は苦しめて殺せと言っていただろう?」

「ああ、そうだったな」

「って事で、さっさと終わらせるぞ」


 そう言って、男達が私に斬りかかろうとしたその時だった。


 また遠くから荒い足音が聞こえ、数神の男達が走り込んできた。


「っ?! なんだてめぇら--」


 男達はそれに答える事なく、先に侵入してきた男達の首を次々と掻ききっていく。そして最後の一神が私を神質に取ろうとして。



「うぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!」



 凄まじい悲鳴と共に、私の手を掴んでいた男の手が切り落とされた。そのまま、新たに入ってきた男達の一神が、私に近づき手首を掴んだままの男の手をはぎ取っていった。



「躑躅ですね」


 私は答えなかった。けれど、床に座り込み怯える私を躑躅だと向こうは断定し、呼びかけた男性が私の身体を抱え上げた。


「『躑躅』を『確保』した。行くぞ」

「このままにしておくのか?」

「余計な事はするなとのお達しだ。それに、意趣返しには良いだろう」

「うちの主様もたいがい性格が悪いな」

「大丈夫だ、侍従長様は我が君に対して十分に対抗出来るし、そもそもこの程度で何とかなる方ではない」

「むしろかんかんに怒ると思うが」


 一体彼等は何を言っているのだろうか。


 我が君とは侍従長様では無かったのか?


 私はごく普通に、彼等が侍従長様の手の者だと思っていた。きっと侍従長様が助ける為に遣わしてくれたのだと。


「あの」


 私の声に、男性達が動きを止めた。


「その、貴方達は」


 けれどそれ以上を口にする事は出来なかった。「申し訳ありません」との声が聞こえた後、口元に何かを押しつけられ、私の意識は急速に遠のいていったから。




 そうして再び目覚めた時、私は広い寝台の上に居た。幾重にも天蓋から垂らされた薄絹に囲まれた寝台の上で、花嫁衣装を身につけたまま、私は鎖で戒められていた。


 右足首に美しい装飾の施された足枷と、そこから繋がる長く細い鎖があった。鎖は細いけれど、しっかりとした造りをしていた。


 そして--私の上に、あの方が居た。



「っ、あ、ぁっ」


 恐怖で私の喉が引きつる。


「ようやく捕まえた」


 最後にあった時よりも更に美しくなった宰相様が、口元を歪ませて艶やかに微笑んだ。





「お別れを言いに来ましたの」


 美しい神が言う。


「ようやく、本国での騒動も済み、私も祖国に帰れるようになりましたから。明日にはもう出発ですが」


 彼女は艶やかに微笑んだ。


「あの神も酷いですね。例え、政略結婚で、しかも一時的な関係とはいえ、仮にも夫婦--ああ、安心して下さいね、私、あの方とは名ばかりの夫婦でしたから。指一本触れられた事もありません。ええ、もし触れようものならあの方の指は今頃無かったでしょうし、そもそも互いに好みではありませんから」


 スラスラと流れる様に紡がれる内容を語る声は、どんな歌姫でさえ敵わぬ美声だった。


「とはいえ、一度ぐらい貴方に挨拶をさせて下さっても良かったのに。まあ、世間一般では正妻と愛妾はいがみ合うものと考える者達も多いですが、私達にそれが当てはまるとは限りませんもの。でも最後にお会い出来て良かったわ。ふふ、私は海国の事は嫌いではありませんし、大恩ある国ですもの。でも、やはり祖国が良いですわ。私の愛しい兄、そして仲間達が居ますからね」


 彼女は声に恍惚と言った感情を乗せ、夢見るような眼差しでうっとりと告げた。


「ああ……早く、お義姉様にお会いしたい。ああ、お義姉様と言うのは私の血の繋がった姉ではありませんよ。私には兄しか居ませんから。お義姉様は兄の正妻なのです。そして私にとっては大切な大切な方。ずっとお側に居られず、きっととても心細い思いをさせてしまった事でしょう。ふふ、だから凪国に逃げてしまわれたのですわ。でももう大丈夫、すぐに迎えに行って差し上げないと」


 まるで恋する乙女のように、彼女は瞳を潤ませた。


「ですから、私も色々と忙しくなるのでしばらくはこれませんの。でも、また来ますわ。その時には、きっと貴方も落ち着いている頃でしょうね。ふふ、大丈夫、あの方は優しい方ですわ。私という重荷も背負い、面倒な厄介事も解決して下さいましたからね」


 彼女は、私の耳元で囁いた。


「貴方達の婚儀には出席出来ませんけれど、きっとお子が産まれる頃にはまた来ますわ」


 そうして私の平らな--まだ何の命も宿っていない腹部を彼女は優しく撫でた。


「ごきげんよう--躑躅様。優しく健気で、哀れなお姫様。全てを諦めた方が幸せになれますわ。そう……紫魄から逃げる事なんて、絶対に無理なんですから」



 そう言って、彼女--泉国の王妹様は憐憫の眼差しを私に向け、優雅な足取りで去って行った。




 あの日、宰相様に再び捕らえられてから、私はずっと虜囚だった。格子の付いた窓、鍵のかけられた扉。全ての設備が整った室内から一歩も出られず、ただ宰相様の慰み者として生かされてきた。


 子供が出来ないのは、宰相様がその様な措置を取っていたから。



 でも、それももう終わり。


 昨日来た宰相様が私の耳元で囁いたのだ。



「そろそろ、子を作るか」



 そして今日、泉国の王妹様は宰相様と『正式に離縁した』と嬉しそうに伝えに来られ、去って行かれた。



 一体何がどうなっていたのだろうか?


 侍従長様はどうされているのだろうか?


 弟妹達は--。



 もう何も分からない。



 ただ、今日もまた来る。



 宰相様--違う。



 私を貪り食らい尽くす、『獣』が--。




 -Bad End-

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