海国宰相×海国文官⑧
あれから……どれほどの時を彷徨っただろうか。
強くなった雨脚。
濡れた衣服の重みは感じないが、体が酷く冷えていた。
暖を取ろうにも、この状態では店には入れない。
追い出されるか、それとも心配されるか――ただどちらの場合も騒ぎとなる。
いや――今更騒ぎになった所でどうだと言うのだ。
あの光景を思い出せば出すほど、その心配は無用の長物だともう一神の自分が囁く。
けれど、結局は店に入ることもなく私は歩き続けた。
雨のせいか、神通りは少ない。
特に路地裏ともなれば。
歩いて、歩いて、歩いて。
そして遂に私の足は止まった。
パシャンと膝を突き、地面に倒れる。
あれほど凍えていた体が、今は酷く熱い。
ああ、熱を出したのだ――。
神と言えど不死ではない。
病で死ぬ事もある。
肺炎――そんな言葉が脳裏によぎり、そして……。
少しずつ消えていく意識の中で、熱い物が頬を伝った。
「あら?ゴミ袋かと思えば、違ったみたいね」
体を打ち付ける水が突如消えた。
煩かった雨音が、少しだけ遠ざかって――そのまま意識を失った。
私が再び目覚めたのは、あれから三日ほど経った頃だった。
まだ雨は降り続いていたが、その音もどこか遠く感じられる室内は見た事の無い場所だった。
木目の天井、木目の壁。
部屋はそれほど広くない――たぶん、小屋の様な場所。
納屋という言葉が脳裏によぎった。
そこに作られた、簡易の寝台の上で私は目を覚ましたのだ。
「ようやく起きたのね?」
呆然とする私の耳に聞こえてきたのは、意識を失う前に聞いたあの声。
周囲を見渡せば、一神の少女が小屋の入り口に立っていた。
「あ……なたは」
「私?私は貴女の命の恩神よ。医者が言ってたけど、もう少し遅れてたら肺炎を起こしていたみたいよ。にしても、貴女ってば頑丈なのね?もう起き上がれるなんて」
少女は白い布がかけられた大きめの籠を床に降ろした。
「とりあえず、寝て、食べて体力を回復させろって言ってたからね。ああ、薬もあるわよ」
そう言うと、胸元から薬の包み紙を取り出した。
「今までは意識が無かったから、口の中に流し込んでいたけど、起きたなら自分で飲めるわよね?」
「あ、あの」
「食事はその籠の中。飲物も入ってるわ」
そう言って白い布が取り除かれて――私はギョッとした。
食べ物は食べ物だが……どう見ても、それは原材料。
なんで大根が丸のまま。
「感謝してよね?調理場からくすねてきたんだから」
胸を張る少女はそれがおかしいとはこれっぽっちも思ってないようだ。
見た所、着ている物から良い所の令嬢である事は分かった。
豪商の娘か、それとも貴族の娘か。
ただ、世間知らずの部類に入るだろう。
「食べないの?」
「い、いえ……これは食べ……」
れるのだろうか?
いや、無理だ。
大根は丸かじりできても、人参とか芋は難しい。
しかもじゃが芋は、芽の部分を処理しないと流石に不味いだろう。
「……出来れば調理道具が欲しいんですが」
助けて貰った身ではあるが、これだけは譲れないとばかりに私は懇願した。
幸い囲炉裏もあるし――どうやら、ここは居住する事も考えて作られた小屋らしい。
それから間も無く、私が頼んだ物を持ってきた少女はぶつくさと文句を言いながらそれらを床に降ろした。
相変わらず上から目線ではあるが、私の予想では少女はかなり素直な部類に入るとみている。
それに、面倒見も良いだろう。
なにせ、初対面の相手を自分の住まいの一角で面倒を見ているのだから。
「私の名は紅藍よ」
少女が名乗ったのは、私が調理した食事を食べて一息ついた頃の事だった。
というか、こちらが名乗る前から名乗ってくれるなんて……と唖然とした私に紅藍と名乗る少女は色々と説明してくれた。
その説明からすると、どうやら雨の中倒れていた私を見付けた紅藍が自分の住む屋敷まで運んでくれたらしい。
けれど、運ばれる最中に「見つかりたくない」と呟き続ける私に、何か事情があるのを察して屋敷ではなく、敷地内の外れにある紅藍の持ち物であるこの納屋に運び込んでくれたのだとか。
「家族は私のする事なんて大して興味もないから、見つかる事はないわよ」
貴族の娘だが、家庭内は中々に複雑である事は何となく分かった。
両親共にそれぞれに愛神を作り、殆ど家にも帰って来ないらしい。
政略結婚で結ばれた貴族の家では珍しく無い事でもあるが――私はそれを口にする事はなかった。
強がっている紅藍を見れば、尚更である。
「この納屋も……そもそも家族は存在すら忘れてるわ」
忌々しい思い出の詰まる場所だから……。
その小さな呟きを聞き取った私が紅藍を見る。
「……まあ、とにかく、ここは安全だから大丈夫よ。医者も、信頼のおける相手だし」
そうして納屋に運び込んだ後、高熱を出した私を医者に診せ、言われた通りに看病をしてくれたという。
と、そこで紅藍はジッと私を見た。
「で、貴女はどうしてあんな場所に寝てたの?」
「ね……いえ、その、寝ていたわけでは」
「寝ていたんじゃなかったら何してたの?あんな雨の中で」
「その……」
ああ、なんといって説明したらいいのだろうか?
答えに窮する私の耳に溜め息が聞こえた。
「まあ、答えたくないなら良いわよ」
「紅藍、様」
「紅藍で良いわよ」
そう言い捨てる様に告げた彼女に、私はふと疑問に思っていた事を口にしていた。
「あの、どうして私を助けてくれたんですか?」
「え?」
「しかも、医者を呼んで診せてくださったばかりか、看病までしてくださって」
普通なら――見捨てられてもおかしくない。
特に、一部の貴族に至っては平民など石ころ同然と言い切る者達も居る。
彼女の家の名前を聞けば、その両親の選民主義っぷりを思い出す。
彼らは、民など使い捨てのゴミだと言い切ったぐらいだ。
直接顔を合わせた事はないが、遠くから何度かその姿を目にしていた。
そんな両親を持ちながら、紅藍は素性の知れない私を助けてくれた。
「別に……ただ、気が向いただけよ」
たまたま外出した先で、倒れていたから。
「それだけの理由よ。あと、目の前で死なれるのも面倒だったしね」
「紅藍さん」
「紅藍で良いってば!それと、拾ってここまで連れてきたのに、ここで死なれたら色々と面倒なのよ!!」
そう言うと、ふんっとそっぽを向く紅藍に私はなんだかおかしくなった。
「な、何がおかしいのよ!」
「だ、だって、紅藍は貴族の姫君なんだから、私がここで死んでも遺体は家の者に頼んでどこかに捨ててきてもらう事だって出来るのに」
「はぁ?何言ってんのよっ」
本気で「お前何言ってんのよ?!」と言わんばかりの紅藍に、私は笑い続けた。
本当に非道なら、そんな事ぐらいは平気でやる。
でも、それすら考えつかないこの姫君はたぶん本当の意味で純粋なのだ。
「馬鹿な事言ってないで、さっさと寝たら?!まだ病み上がりなんだし」
「ちょっ」
「病神は寝てなさい!別に、貴女が良くなるまで此処に居ても構わないんだからっ」
そう言って強引に紅藍に寝かせられた。
それから更に二日ほどして、私はようやく完全に起き上がれるようになった。
凍える事のない住まい、栄養のある食べ物、そして適度な睡眠。
またお風呂は小屋にはなかったけれど、屋敷の方で紅藍が入浴する際に一緒に入れてもらう事で清潔を保っていた。
体力もだいぶ戻った。
体が軽い。
そんな私に、紅藍は満足げに頷いていた。
紅藍は毎日の様に私の下へとやってきた。
殆どは食べ物や着る物だったが、時には色々な情報も持ってきてくれた。
そうして、此処に匿われてから五日目のその夜。
私は、紅藍からその報せを受けた。
「最近、なんか変な男達がウロウロしているのよ」
たまたまその日外に出た紅藍は、屋敷を出てすぐの所で彷徨く男に気付いたという。
こちらに気付くと、すぐに隠れた様子に何か嫌な物を感じたとか。
私は直感した。
宰相様の追っ手だと。
まさか、そんな。
あの光景。
泉国の王妹様との姿を見れば、余計に混乱する。
あれほどお似合いであるというのに、どうしてあの方は。
こんな取るに足らないセフレに追っ手を差し向けるのか。
分からない、分からない、分からない。
考える事すら苦痛に感じる。
蹲る私に、紅藍が焦ったように声を上げた。
「ちょっ、どうしたの?!」
「……い、いえ」
駄目だ、もう此処にはいられない。
今は外を彷徨いているだけでも、そのうちここに居ることがバレてしまう。
そうなれば、踏み込まれて捕まってしまうだろう。
どうして追い掛けてくるのだろうか。
まだ、この体に利用価値があるのだろうか。
それとも、一度手にしたものは死んでも手放さないというのだろうか。
ただ私に分かるのは、一刻も早く此処を出て行かなければ――という事だけである。
「紅藍……今まで、ありがとう」
「え?」
ギョッとした様子の紅藍に、私は追われている事、そしてここに居れば関係ない神達にまで迷惑がかかってしまう事を説明した。
「迷惑って……」
ここに居れば安全だ――とは紅藍は言わなかった。
いや、言おうとしたが……言えなかったのだろう。
彼女の両親を思えば、娘が保護した相手を匿うよりも追っ手に突き出すのは目に見えている。
彼らは面倒事が死ぬほど嫌いなのだから。
因みに、紅藍には私を追い掛けてくる相手の詳しい素性は伝えていない。
そこまで伝えてしまうと……何か取り返しが付かない様な気がしたから。
それに、もし彼女の両親の耳に万が一入れば、今度は別の意味で突き出される。
そう――宰相様に付け入る為の手段として。
「……行く当てはあるの?」
「……」
そんなものは無い。
でも、とにかくここから逃げなければ。
ただ、そうなるとある程度の手持ちが必要となる。
「行く当てもないのに、ここから出て行くの?」
「……それでも、行かないと」
早くしなければ、あっという間に踏み込まれる。
今この時にも、追っ手は迫っているかもしれない。
「分かった」
「紅藍?」
「私では、守り切れない。だから、逃げられるなら逃げて。協力するから」
そう言うと、紅藍が強い眼差しで私を見た。
「何か必要なものはある?」
「え?」
「用意するから。そういうのは私よりも貴女の方が詳しいと思うし」
そうは言われてもと私は戸惑う。
用意してくれる――それはなんと甘美な言葉だろう。
けれど、そこまで彼女を頼っていいわけがない。
ただでさえお世話になりっぱなしである。
その上、お金まで貸して――なんて言えるだろうか。
しかも返すあてがないなんて最悪である。
下手したら、これが今生の別れともなりかねないというのに。
「紅藍、私」
「言わないなら、貴女が此処に居るって騒ぐわよ」
「っ!」
「嫌なら言って」
脅しを含めた言葉に、私が凍り付く。
けれどそれすらも赦さないとばかりに睨む紅藍に、終に私は答えてしまった。
「お金……」
あと、旅に必要な道具を一式。
「……」
紅藍が黙ってしまった。
そりゃそうだ。
あまりにも図々しい頼みなのだから。
「オカネ……って、オカネ?あのオカネ?」
あの?というか、お金に「あの」も「その」もないだろう。
しかし、後に私は紅藍の余りの世間知らずっぷりに愕然とした。
まあ、それから色々とすったもんだあったけれど……とりあえず、何とか旅支度は整った。
お金も、ある程度纏まった額を手に入れた。
紅藍の母親の宝石を幾つか売りさばいたお金の一部を貰ったのだ。
丁度その日、紅藍の母親が愛神の一神から貰った宝石類を売り払ったという。
話を聞いてはいたが、元々紅藍の母親はお金にはかなりルーズな性質らしく、少しぐらいのお金が無くなった所で騒ぎもしないのだとか。
いつか家が潰れるんじゃないか――と心配しつつ、その時にはこの紅藍だけは巻き込まないでくれと全力で願いながら、私は紅藍と共に裏口へと向った。
「ここでお別れですね」
ここに居たのはたった数日。
けれど、今までで一番心が落ち着いた日々だった。
そうしてしんみりとした私に紅藍が笑った。
「あら、貸した物を返しに来るんだからお別れじゃないわよ?」
彼女が言い、私もつられて笑った。
そう……だった。
借りた物は返さないと。
その可能性が低い事は分かっていたけれど、それでもそう言ってくれる紅藍に私は頷く。
その言葉の裏に隠されたものを、私はしっかりと嗅ぎ取っていた。
「また、来ますね」
「待ってる」
そうして再会の約束を交わし、私は外へと走り出した。
雨の降り続く、肌寒い夜明け前。
けれど灯された希望は私の心を煌々と照らしていた。