海国宰相×海国文官⑦
夜の闇に紛れ、何とか自宅に帰り着いた時、そこに幼い弟妹達の姿は何処にも無かった。
それどころか、私物も家具も何も無いガランとした空間が広がっていた。
王宮での私の私室よりも広いが、それでも質素な部屋。
仕事で殆ど帰れない私の代わりに、十歳になる弟が他の弟妹達の面倒を見ていてくれた。
また週末だけは何とか帰ってはいたが、やはり王宮での仕事は忙しく、それを知った隣近所が何かと手を貸してくれるようになったのは、私が王宮に勤め始めてから半年も経たない頃の事だ。
中には同じぐらいの子供を失った夫婦も居た。
世話焼きのおばさんや、気の良いおじさんも居た。
あの暗黒大戦で財産だけでなく、家族や親戚を奪われた。
海国が建国し、ようやく穏やかな生活を営める様になって大神達は助け合う事が多くなった。
共働き、また稼ぎ手が年若ければ残された幼い子供や兄妹達を面倒見てくれる。
私にもその手は差し伸べられていた。
「あんたっ」
驚く声に振り返れば、廊下の奥に左隣に住む女性の姿が見えた。
とても気の良い神で、作りすぎたからとよく料理の差し入れもしてくれた。
大戦では許嫁を無くしたが、現在は良い神が居るらしく、よく男の神が来ているのをみかけた。
もういい年のおばさんだと言うが、まだ三十代半ばでその美貌にも陰りは見られない。
「久しぶりじゃないか!一体どうしたんだい、確か出稼ぎに行ったんだろう?」
「あ……あの、弟達は」
「弟さん達なら、あんたの上司の使いだかが三ヶ月前近くに迎えに来たよ。あんたが出稼ぎに行く間預かる事になったって――」
宰相様が弟達の面倒を見てくれている事は聞いていた。
しかし、別の場所に連れて行かれたなんて。
まさか、あの別邸に?
けれど今から戻れば確実に捕まるだろうし、何よりも別邸だとしても広すぎて何処にいるか分からない。それに本当に別邸に居るかさえも定かではない。
「あ、あの、何処に行くか言ってました?」
「え?ああ、一応聞いたんだけど……あれ?どこだったっけ?」
首を傾げる彼女に私は問い詰めようとする口を閉じた。
覚えていないのではない。
きっと、相手がはぐらかしたのだ。
居場所がばれないようにする為に。
しかしこれでは弟妹達を連れて逃げ出す事が出来ない。
「にしても、突然居なくなったからびっくりしたよ。元気にしてたかい?」
「え、あ、まあ」
「あの可愛いあんたの弟妹達も居なくなっちゃって、みんな寂しがってたんだよ。このアパートに居るのはみんな子供好きが多いからねぇ」
その言葉に私の中で熱いものがこみ上げる。
子供好き。
でも、子供を失った者、子供を永久に持てなくなった者、子供と離ればなれになってしまった者。
ここの住神はなぜかそういう者達が多かった。
だからこそ、小さな子供を連れた者が入居すると特に手助けしようとしてくれる。
最初にここへの入居をしたのは、私が働き出す時だ。
その時、面接をしてくれた面接官が私にこの場所を進めてくれた。
最初は王宮が借り上げた官舎みたいなものかと思ったが、実は全然そんな事はなくて。
ただ、アパートの管理神がその面接官の知り合いの男性だった。
大戦で妻と子供を失い、一人小さな孫を育てていたその老神は、心配せずに仕事を頑張りなさいと言ってくれた。
その意味は住神と知り合う中ですぐに分かった。
本当に居心地の良かった場所。
けれど、そこはもう失われてしまった。
もう、此処には何も無い。
「けど、一体ここで何してたんだい?しかもこんな夜遅くに。もしかしてまたここに住むのかい?けど、ここはもう別の相手が住むって話で」
「べ、別の?」
「ああ。だから、あんたに会えて嬉しいけど、ここに戻ってくるのは……あっ!もし住む場所を探してるんなら、ここの管理神に相談すればいよ!あいつ、ああ見えてそっちの神脈が広いし」
そう言われるが、私は曖昧に笑った。
「そういえば、今日は何処かに泊まるのかい?ないならうちに来るといいよ」
「……いえ、その、泊まる場所はあるんで」
「そうかい?色々と話したい事もあったのに――ん?なんか騒がしいね」
彼女は私に待っていてと言い置き、階下へと下がっていく。
その後、程なく彼女の声と知らぬ男の声が聞こえてきた。
「あ?あの子?あの子なら今」
途端に階段を駆け上がってくる音に、私は上がる悲鳴を抑えた。
追っ手だ――。
私は部屋の扉を閉めると、窓へと向かう。
扉が激しく叩かれる中、窓の鍵を開けた。
ここは二階。
けれど、死ぬ気で挑めば何とかなる。
「おいっ!待てっ」
扉が蹴破られる。
しかし、私は窓枠を蹴って外へと飛び出した。
そしてそのままの勢いで、目の前に迫った太い木の枝に飛びつく。
よく弟達が遊んでいた太い大樹は、アパートのシンボルとしても有名だった。
枝はしなる事もなく私を受け止め、そしてその幹にそって下へと降りていく。
小さい頃はよく木登りをして遊んでいたからこそ出来る芸当。
世の中、何が役に立つかは分からないものだ。
そんな事を頭の片隅で考えつつ、背後から響く男達の喚き声を背に、私は地面へと降り立つ。
「待て!」
「逃がすな!」
「ああ、なんて事を!傷一つなく確保しろ!」
男達の悲鳴混じりの声と共に、窓枠に足をかけているのが気配で分かった。
「何が何でも捕えろ!!」
恐ろしい言葉が私の体を貫く。
捕まってはならない。
捕まったら終わりだ。
私は死に物狂いで走り続けた。
それにしても――。
追っ手自体がかかった事も驚きだが、これほど早く追っ手が来た事も驚きだった。
しかし、走り続ける中で次第に頭が冷静になっていく。
息苦しさは酷くなっていくのに、何故か頭ははっきりとしてきた。
そもそも追っ手がここまで早く私を見付けられたのも考えれば簡単だった。
私の性格と家族構成、家庭状況を知っていれば、私が幼い兄妹達を求めて必ず自宅に戻る事など簡単に考えつく。
むしろ待ち伏せされていてもおかしくなかった事も考えれば、少しだけ私が先にたどり着く事が出来たのだろう。
もしもう少し遅ければ、あのおばさんも言いくるめられて待ち伏せされていたかもしれない。
それこそ、扉を開けた瞬間に捕まった筈だ。
それを考えれば、私は自分の運の良さに体が震えた。
本当に、危ない所だった。
そして――。
もう、あの場所には戻れない。
身一つで逃げ出してきた。
といっても、元々家にはそれほど高価なものはなく、金銭的なものにも余裕などはない。
しかも、さっきはそんな数少ない私物や家具さえもなかった。
全て、持ち去られていた。
だから、私には何も無い。
そればかりか、助けてくれる親族も無い。
近隣近所の者達は助けてくれるかもしれないが、先程の騒ぎと今頃は追っ手達が先手を打っているだろう。
近所の者達も、宰相様から追っ手がかかった相手を匿ってくれるとは思わない。
海国王宮――いや、正確には民達における海王陛下と上層部の神気は絶大に高い。
だから、そんな上層部のトップとも言える宰相様からの追っ手ともなれば当然何があったのかと勘ぐられ、そのまま差し出されかねない。
または差し出されなくとも、かなりの負担を強いる事になる。
だからこそ、ここから離れなければならない。
私さえ離れれば、近所の者達が悩まされる事は無いのだから。
ただ一つだけ気がかりなのは幼い弟妹達の事だ。
一体何処に連れ去られてしまったのだろうか。
ふと王宮に戻るという事も考えたが、既に退職している身で果たして通してくれるだろうか。
いや、通してはくれるかもしれない。
宰相様の息がかかっていなければ。
ただし、絶対に連絡は行くだろう。
でなくとも、一度退職している身であれば身分証明となる物もない。
顔見知りであれば顔パスも出来なくはないが、退職している場合は最低限の身元確認は必須となる。
王宮の安全のためにも。
となればすぐに宰相様に連絡が行く事は間違いない。
それこそ狼の巣穴に飛び込むようなものである。
こうなれば、一刻も早く宰相様の影響下から離れるのが、一番の先決だろう。
弟妹達の事も心配だが、あの子達を連れて行ったのが宰相様の手の者であるならば、命にかかわる様な事はされないだろう。
いや、きっと酷い目には遭わされないと信じている。
それにもし私をおびき寄せる餌として扱うなら、それこそ最低限死なせる様な事は無いだろうから。
けれど……なぜ宰相様はあそこまで私を追いかけるのだろうか。
既に王妹様が来られた今、使い古しの、いや、妾以前の存在が居なくなろうが構わないではないか。
それとも自分の無体を私が口にするとか、王妹様に話されるとか思われたのだろうか。
そうだとしたら、心外である。
宰相様との事は、結局私にとっては夢のような時間だった。
本来なら望むべくもない、幸せな一時。
たとえ結ばれなくても、普通の恋神同士とは程遠い関係だったとしても。
本当に、幸らだった。
恨むのはお門違いだし、それをネタに脅迫などもしない。
ただ、この思い出を胸に宰相様の側から離れる。
それだけで良かった筈なのに。
空を覆う灰色の雲は未だ分厚く、地面に大量の雨を降らせる。
私はダメ元で、良く行く店などに弟達の情報を求めようと歩き出したが、すぐに身動きがとれなくなってしまう。
「……ここにも」
店に行くには通らなくてはならない通りを彷徨く男達。
彼らの様子から、私を探している事はすぐに分かった。
今の夜遅い時間帯に出歩く者達がそもそも居らず、神混みに紛れる事も出来ない。
物陰に隠れたまま、私は困り果てた。
このままではいずれ捕まってしまう。
しかし行くところはない。
どこかに泊まるにしても無一文の状態では泊めてくれる所などないだろう。
かといって、街の外に出るとしても男達の彷徨く通りに一度出なければならない。
その後、行き詰まった私は何とか近くの公園までたどり着くと、そこの遊具の一つに身を潜ませた。
近くに気配はなく、私はそこで一夜を明かす事となる。
そうして怯えながらの眠りから目覚めたが、外はまだ雨が降っていた。
「……これからどうしよう」
弟達の事も、大丈夫と信じながら、それでも時間の経過と共に再び不安と心配が頭をもたげてくる。
しかし、弟達の居場所を知るのは宰相様だけだ。
たぶん宰相様は私が弟達の居場所を求めて戻ってくるのを待ち構えているのだろう。
行けば必ず捕まる。
周囲に追っ手の影は無いが、王宮に近づけばそれだけ捕まる可能性は高くなる。
かといって、弟達を見捨てて他の国に逃げ込む事は出来ない。
いや、どうしてあの可愛い弟妹達を見捨てていけるだろう。
大切な宝物なのだ。
彼らの為に今まで頑張ってきたのだ。
愛しい家族。
彼らの為ならば、どんな辛い事でも耐えられた。
見捨てては行けない。
宰相様の影響下から逃げなければと思う気持ちを、弟妹達への思いが凌駕する。
それに、もし運良く影響下の少ない他の国に逃げ込めたとして、弟達はどうなるのだろう。
利用価値の無くなった私の弟達の面倒を見る義理は宰相様には無く、放り出されはせずとも孤児院かどこかに送られてしまうかもしれない。
下手すれば離ればなれに里親に引き取られる恐れだったある。
そうすれば、皆がバラバラとなる。
いや、もう二度と会えないかもしない。
そんなのはイヤだ。
それぐらいなら、私は戻る。
宰相様の慈悲に縋り付く。
どんな罰だって受ける。
手足を切り落とされ、牢屋に叩き込まれても構わない。
弟妹達を見捨ててはいけない。
私に残された、数少ない家族なのだ。
私は立ち上がり、雨に紛れて歩き出す。
しかし私は知らなかった。
その後に目の当たりにする、現実に。
あれほど弟妹達の思いに溢れていた心すらも凌駕する程の絶望。
弟妹達を愛している?
彼らの為ならば、どんな目に遭わされても構わない?
そんなのがただの詭弁だったと後に思い知る。
愛する弟妹達。
影ながらお慕いしていた宰相様。
大切な、大切な宝物。
けれど、それらが全てあのお方の物だったと知ったならば。
「……」
苦労して、必死の思いでそこに辿り着いた私は見てしまった。
逃げ出した別宅で。
大切な弟妹達が、彼女に懐く様を。
美しい王妹様に心からの笑みを浮かべ、無邪気に懐く弟妹達の姿を。
そして、宰相様が王妹様と寄り添う姿を。
四阿の中に見えた、桃源郷の様な光景。
あそこに、私の居場所は無い。
何を勘違いしていたのだろう?
最初から、私はいらなかった。
私は必要なかった。
宰相様だけではない。
弟妹達にも。
ああ、私は哀れな道化――
ふらふらと歩き出した私は、雨に打たれ幽鬼の様な姿でその場を離れた。
私は、これからどうしたら良いのだろう?