海国貴妃(男)×人間の少女(最後はアンハッピーエンド風)
王×王妃に出て来た貴妃の話です
それは、海を司る神々の国の王宮――その奥深くに存在した。
ごく限られたものだけが、幾重にも張り巡らされた結界の中に入りそこに辿り着ける。
沢山の花が咲き誇る中心に、その柱は静かに鎮座する。
蒼く輝く水の柱、そっと指を這わす美貌の麗人を周囲は貴妃と呼ぶ。
「来ましたよ――私の愛しい――」
柱の中に浮かび眠るのは、一人の少女だった。
*
炎水界における国が一つ、海を司る神々の国――海国後宮には一つの特徴がある。
それは、そこに居る妃達全員が美しい男達だという事。
正妃以外は、全員だ。
そんな中、一人の妃が居た。
海国国王の第一側室にて、後宮を統べる四妃の一人――貴妃。
男でありながら、その清楚な美貌は、性別を超越した麗しき美女そのもの。
海色の長い髪と瞳からなる造形美は、まるで奥深い神域に隠れ住む巫女を思わせる清楚さだった。
しかしそれが災いし、多くの貴族達に男妾として飼われてきた彼は今、海国国王の後宮にて匿われている。
それは、後宮に逃げ込んでもなお虎視眈々と麗しい男妃達を狙う者達から、身を守るためだ。
何処までも追い掛けまわし、己がものにしようと企む者達。
誰もが死に物狂いで逃げ込み、時には王が差し伸べた手を掴み、上層部によって後宮に入れるように手筈を整えてくれた。
居たければいつまで居てもいい。
出る時は、愛するものを得て外で生きる覚悟をした時。
数百年が経ち、今までにも数人の男妃達がこの後宮を出て行った。
一時は百名を数えたここも、今は三分の二まで減っている。
自分もいつかは――そう、誰もが願う。
後宮と王の偽りの寵愛を隠れ蓑とし、表では着飾り女の様に振る舞いながら、その影では勉学に武術、あらゆる学問を身につける。
いつかこの後宮を出る為に。
いつか、自分達を助けてくれた王と上層部に恩返しをする為に。
妃妾達は願い求めて止まない。
外の世界に飛び立つ機会を。
しかし中々その機会には恵まれなかった。
特にその筆頭とも言うべき貴妃。
そんな貴妃の無聊と憂いを慰める存在が居た。
「貴妃様の髪は本当に綺麗ですね~」
貴妃の長い髪を梳きながら、侍女のお仕着せを纏う一人の少女。
彼女は神ではなく、乗っていた客船が海に沈み死ぬはずだったのを、たまたま訪れた海王が見つけて助けた存在だった。
本来神が人間の運命に関わってはいけないとされているが、その船はそもそも沈むはずではなかった船だった。
しかし、時空の歪みから這い出た魔性が贄を求めた結果、船は沈み一人生き残った少女。
当時まだ三つ。
目の前で両親を殺され、自身も大怪我をしたショックから心を閉ざした少女を不憫に思い、この国へと連れて来た。
それは本来であれば許されない事だったが、魔性から受けた毒の治療の為に使った宝玉により、少女は期間限定の半神へと変貌してしまったのだ。
半神は、神と別の種族の間に生まれた子供と、半分だけ神性を受けついでしまった存在の二種類が居り、少女はその後者に属した。
半神は神に比べて神力も身体能力も弱いというのに、魔性からすれば格好の獲物である。
けれど人に戻す術は見付からず、結果として此方側の不手際として、少女は半神としての神性が失われるその日まで海国王宮で引き取られる事になった。
せいぜい十年と少し。
それぐらいなら大丈夫だと認められて。
その身柄は後宮へと移され、その世話は貴妃に任された。
というのも、少女が貴妃に懐いてしまったからだ。
少女は面食いと後に揶揄されたが、理由は分かっている。
少女が引き取られた最初の夜。
他の誰もが気づかなかった少女の声無き泣き声に気づいたのは、貴妃だけだったからだ。
そうして少女が眠りに就くまで、その小さな手を握り歌い続けた子守歌。
その後少しずつ心を開き始めた少女は多くの者達に懐くが、それでも一番懐いたのは貴妃であり、それが貴妃にとっては誇らしく嬉しかった。
端から見れば、女性の様に優美な貴妃は、その美しさを差し置けばまるで母親そのものだった。
貴妃も自分に懐く少女を殊の外可愛がり、また後宮の他の妃妾達や正妃も少女を慈しんだ。
別れが近い事を分かっていながらも。
少女はあっという間に成長した。
十六歳――その誕生日を迎えると共に、彼女から神性が失われた。
それは少女の月の障りと共に訪れた。
女になったと同時に、消えた神性は少女を人間界に戻す合図。
もちろん、そのまま放り出す事はせず、こちらできちんとした後見人を探し出し、一人前になるまで世話を任す手筈となっていた。
少女と離れがたかったのは貴妃だけではない。
何時の間にか、後宮だけでなく王宮の者達も少女が居なくなることを嘆き悲しんだ。
中には、神として生きる事を提案した者も居た。
しかし少女はその全てを断り、明日、この王宮を……いや、世界から出て行く。
「貴妃様の髪の毛を梳かせるのも、今日で最後ですからね。徹底的に行きますよ~」
「……私の髪の毛を梳かしたいのならば、此処に居れば宜しいのに」
「おやおや? 貴妃様は私と離れたくないんですか?」
軽口を叩くように言うのは、別れの寂しさを誤魔化す為。
少女の事なら貴妃は何でも分かった。
その、固い決意も。
だからこそ、無駄だと分かっていても口にしてしまう。
「心は変わりませんか?」
「……はい」
少女は去る。
明日の早朝と共に、この国を出て行く。
元居た場所に帰るのだ。
しかし、我が身を狙う者達を避ける為にも、貴妃は後宮から出られない。
まだ――まだ――。
「貴妃様」
「何ですか?」
少女が床に座り込んだ。
所謂正座である。
「今まで、育ててくれてありがとうございました」
「……」
「独りぼっちになる筈だった私とずっと側に居てくれて……ありがとうございました」
少女は笑う。
沢山のものをくれた貴妃に対して。
男でありながら、その美貌ゆえに多くの者達に狙われ、それゆえにこの後宮から出られない囚われの妃。
最初に男だと知った時は驚いたが、それでも少女の心を開かせたのはその優しさが全てだった。
男なのに女のように嫋やかで、まるで儚くも清楚な巫女の如き貴妃。
その美貌が浮かべる笑みとは比べものにもならないが、それでも少女は微笑んだ。
これが、最後だから――。
「今まで、本当に幸せでした」
「……」
貴妃は何も言わない。
いや、言えなかった。
少女の心を開かせたのは貴妃だと言われている。
でも、本当は貴妃の方が沢山少女に助けられた。
少女と過ごしたこの十三年は沢山の事があった。
楽しい事も、苦しい事も、嬉しい事も、哀しい事も。
『貴妃様、大好きです!』
何度も自分の運命に嘆き屈しそうになった。
けれど、この十三年の間だけは、それが驚くほど減った。
少女の世話が、少女との生活が余りにも楽しくて、そんな事を想う暇もなかった。
考えるのは、未来。
考えるのは、新しい生活の事。
少女の笑顔を見る度に自然とボロボロの心が癒されていった。
貴妃の方がよっぽど、少女に助けられていた。
なのに、言葉が出ない。
「皆さんから頂いた命を、精一杯生きます。貴妃様達が、いつかこの後宮から出られるまで」
真面目な顔の少女に、貴妃は意表を突かれて苦笑した。
人間の寿命は百年も持たない。
少女も七十まで生きられるかどうか。
そしてそれまでに、自分がこの後宮から出られるかも分からない。
だというのに、その強い眼差しに心奪われる。
「貴妃様達から頂いた沢山のものを、今度は私が返していきますね」
たとえ直接ではなくとも、少しずつ、少しずつ。
貴妃が自分の命を助けてくれたように、困っている人に手を差し伸べる。
「私ね、海に関係する仕事に就こうと思うんです」
この国は海を司る。
少しでも、その側に寄り添えればいい。
「此処から出られない貴妃様の分まで、私は頑張ります。そして世界最高齢を塗り替えるぐらいに長生きします。ですから――絶対に、いつか、外の世界でお会いしましょう」
少女の名を呼ぼうとした貴妃は、その笑みにただ魅入られた。
強い輝きの中に、まるで散り際に美しく咲き誇る桜の様な、儚い美しい、笑みに。
「どうか、お元気で……今までありがとうございました」
そうして少女は貴妃の前から姿を消した。
上りゆく朝日の中、後宮にある塔の上から去って行く少女を見守った。
少女が長き眠りについたのは、それから半年後の事だった。
*
「私の愛しい娘」
貴妃は棺を撫でる。
少女を女として愛していると気づいた時には、もう何もかもが遅かった。
今から十年前の事だ。
本来生きるべき世界で人として生き始めた少女は、通っていた高校の修学旅行というものに参加し、一つの船に乗った。
その船は、出航から数時間後、海から現れた魔性に襲われ海の藻屑と化した。
その報せが王宮を駆け巡るよりも早く――。
少女は、貴妃の元に現れた。
ある神にその体を乗っ取られて。
貴妃は、自分を襲うその神がもたらした嘲笑混じりの寝物語で全てを知った。
あの麗しい貴妃を手に入れるのは、この自分。
高貴なる我が身にこそ奉仕するのが相応しい。
そう声高に叫び続け、長きに渡って男である貴妃に身を焦がす様な劣情を抱き、我が物にしようと追いかけ回した挙げ句後宮に逃げ込まれた屈辱。
その後、ずっと後宮から略奪する機会を伺っていたその神は、見つけてしまったのだ。
貴妃に仕えていた少女という、格好の駒を。
自分が唯一望んで得られなかった『女』を手にする海王に対して、身を焦がすような嫉妬心に苛まれながらも、虎視眈々と機をうかがい、見つけた最大の駒。
人間などという下等な生き物を使うのは忌々しいが、それで本来自分に捧げられるべき『女』を手に入れられるならばあえて耐え抜こう。
そんな粛々とする自分に酔いしれつつ、また愛すべき『女』を手に入れるべく、その神は人間界へと向かい少女を手にした。
船を沈めたのは、少女を守る神々の力が余りにも強かった為。
自分が直接手を下すとまずいから、魔性に襲わせたら勢いが強すぎて沈めてしまった。
少女の体を乗っ取ったその神は、笑いながら言った。
「この少女に付加した特権が仇になったなぁ」
いつか――。
いつか、また。
少女がこの海国に来るときにはと、王が少女に与えた一つの力。
それは、この幾重にも結界が張り巡らされた後宮の結界を潜り抜ける許可そのもの。
少女は笑いながら言った。
そんなものは必要ないと。
けれど、それでも少女を惜しんだ者達が残した絆。
それが――少女を危機に陥らせた。
全ては自分達の罪。
少女の体を乗っ取ったその神は、少女を使って自分の本体を呼び寄せ、貴妃に襲い掛かった。
しかし、貴妃には特殊な印が結ばれており、結界が完全に壊れない限りは王の許可なく連れ出す事は不可能だった。
その為、すぐに外に連れ出す事は出来ず、少女を使って結界を解かせに行かせている間、自身は術で縛り付けた貴妃の体を貪った。
今まで会えなかった分を、寸でのところで取り逃がした分を取り戻すように、激しく、嬲られた。
その屈辱と恥辱に焼き尽くされながらも、貴妃は少女の名を叫び続けた。
早く、早く少女からその神を叩き出さなければ。
何の訓練もしていない人が神を宿す事は非常に危険な事だった。
たとえ、少女のように宿すのが神の一部だとしても、だ。
そして時間が長ければ長いほど、少女の体に負担をかける。
貴妃は暴れ、抵抗した。
その度に体への凌辱は増したが、構わなかった。
男から受ける恐ろしい暴力すらも、少女を想う気持ちを曲げることは出来なかった。
せめて、王か誰かが異変に気づく事を願うと共に、そして誰よりも自分が少女を追い掛けたいと願って。
そして貴妃は有り得ないものを見た。
自分に覆い被さる神が結界を破壊する為に放った筈の少女。
その神の一部が少女を乗っ取り、動かしている筈の少女。
なのに少女は確固たる強い意志を瞳に宿して寝台の前に立ち、手に持っていた短刀をその神の体へと沈めた。
ドンッと、大きく揺れた神の体。
少女を見て驚いたのは一瞬。
憎々しげに睨み付け、少女に呪いの言葉を吐く途中で駆け付けた王達によって、その神は貴妃から引きずり出された。
しかし全てが遅かった。
男に穢された体のまま、貴妃は倒れた少女へと駆け寄った。
本体の負傷により、少女を乗っ取っていた神の一部は弾き出されたが、酷使された少女の体と魂は衰弱しきっていた。
しかし最大の衰弱原因は、少女が自分を乗っ取る神の一部に激しく抵抗した為だった。
抵抗の末、取り戻した自由で神に一撃を食らわした結果、中にあった神の一部は暴走し、少女の魂を蹂躙した。
もはや瀕死なのは誰の目にも見て取れた。
幸せに生きる筈だった。
幸せになれる筈だった。
なのに、神々によってその運命を狂わせられ、その穢れ無き魂の糸が切れかけていた。
少女の命はもはや灯火。
いや、このままでは冥界にすら飛び立てずに消滅するだろう。
魂の色はどんどん薄くなり、その存在を弱めていく。
乗っ取られ、酷使され、抵抗し、最後は痛めつけるように蹂躙された穢れなき魂。
待ち受けるのは、死すら超えた完全なる消滅。
消滅すれば、もう二度と転生すら出来ない。
完全なる『終わり』
私のせいで――。
貴妃は嘆き哀しみ、そして嘆願した。
魂の疲弊から神にする事も出来ず、もはや手段がないと分かりつつも、それでもなお。
どうか少女を――。
そこに居たのは、美しい貴妃でなく、死に逝く女を愛する一人の男だった。
どうか。
どうか。
どうか……。
そして少女の時は止められた。
「私の――」
貴妃は少女の眠る柱に縋り付く。
ようやく気づいた想い。
自分を狙う者達への恐怖すら凌駕し、ただ少女の元に駆けたいと願い始めた矢先の悲劇。
あの時、力ずくでも神にしていれば良かった。
少女が望むなら――それを理由にし、伝えなかった想い。
ずっと側に居て欲しい……。
その願いは歪められた状態で叶った。
少女はもう二度と何処にも行かない。
貴妃の力が続く限り、永遠にこの柱の中で眠り続ける。
生きたまま、死の、いや消滅の直前で止まったままの状態で、永遠に――。
「私の、愛しい娘――」
動かせない。
動かさない。
止めたままの時計の針。
いつか。
いつか。
少女を助けられる術が見付かるその日まで――。
「初めて、神である事に感謝しますよ」
その美貌が災いし、男達に飼われていた過去、どれほどその長い神生に絶望しただろうか。
どこまでも続く生き地獄にどれだけ怯えただろうか。
けれど――今、貴妃は感謝する。
その長い時を自分が生きる限り、少女の時間は止まったまま。
逆に進みゆく外の時間。
そして進んだ先に待ち受ける――未来。
いつか、少女を助ける術が見付かったならば――。
貴妃はそっと柱に顔を近付ける。
そうして、今も眠り続ける少女と口づけを交わすように、蒼く流れる水の柱へと唇を這わせた。
少女が目覚めるかどうかは、神のみぞ知る?