『海王×海王妃(因縁編)⑨』
「ああ、久しぶりだな--紅玉」
悪魔が、口を開く。
悪魔--そう、私にとってあれは悪魔、いや、悪魔よりも酷い存在だった。悪魔の方がまだ可愛げがあると思う。
見目麗しい--けれど、私の子を無残に殺した男。
そして、私を捨てた、男達。
私の夫になる筈だった彼が、私の前まで来る。
「何か騒がしいと思って来てみたが……これは凄い所に遭遇したものだ」
「……」
ゆっくりとこちらに伸ばされる手に、私は身をすくませた。反射的にその手を避けようとする。そんな私の態度に、男が、彼が不満げな顔をする。
「一度は結婚まで……子どもまで為した仲だと言うのに、酷いな」
「っ--」
「まあ、酷さで言えばお互い様か。というか、まさか海国王妃様がこの様な姿で居られるとは--大方、痴情のもつれか何かか」
痴情のもつれ--その言葉に、私の全身が冷えていく。
確かに、衣服は乱れている。けれど、それでもこの姿を見て、痴情のもつれと言えるのか。
「わ、私、は」
「しかも、相手を殺してしまうなんて」
「っ--」
殺す……。
私は、私に倒れかかるようにして血を流し続ける男を見た。
そして、私は自分の手が握りしめている凶器に気付いた。
「あ--ち、ちが、これ、はっ」
確かに、この男を殴ったのは私だ。でも、この男が私を--。
「私、この、襲われ」
「冗談だろう?」
「え?」
男がこちらを見て笑っている。
他の、男達も。
「この男は気高き海国の武官だと聞く。対して、貴方は海国の名ばかりの王妃。大方、貴方が誘ったんじゃないのか?」
「っ……わ、わた」
「そうでないとしても、分別をわきまえた武官がそういう事をするなんて、貴方に何か隙でもあったんじゃないか?」
まるで、襲われる方が悪いと言わんばかりの言葉に、私は怒りがこみ上げる。けれど、周囲から私に突き刺すような視線に、私は反論しようとした言葉を飲み込んだ。
「確かに、とても高潔な武官だと聞くな」
「というか、女には不足しないだろう」
「その前に、こんな場所に二神っきりで居る方が非常識というか」
男達の言葉に、私は何かを言おうとした。
「確かに街では化け物が暴れていたけれど、だからといってこんな場所に二神っきりで留まる方がおかしくないか?」
「既婚者としての分別もないな」
「それに、この武官は幾つもの由緒正しい貴族の令嬢との見合いがあると聞いてる。しかも将来有望で王の信頼も厚いしな。ああ、だからか」
「王の信頼が厚い国に忠実な武官として、王妃様の誘いは断れないってか」
違う……違う、違う、違う!
「しかも、言う事を聞かないからって、殺されてしまうなんて」
「違--」
「王妃様が神殺しをするなんて、凄いスキャンダルだな。しかも、痴情のもつれで」
痴情のもつれで、相手を殺した王妃--
そんな風な話の流れに、私は愕然とした。
「私、は」
「殺したでしょう?」
「殺しただろ」
「死んでるぞ、それ」
男達の冷たい視線に、私の中から罪悪感が膨れあがっていく。
そう、殺した。
私が。
もしかしたら、本当に私に隙があったのかもしれない。
私が、相手を惑わせる様な何かをしていたのかもしれない。
私がもっときちんとしていたら。
私が相手を誤解させる様な事をしなければ。
私が。
私が、全て悪い。
男に対する罪悪感と申し訳なさ。
後悔がこみ上げる。
そして同じぐらい、私は今後の未来に絶望した。
王妃が自国の武官を手に掛けた。
罪に問われるのは間違いない。
それは仕方が無い。
けれど、海国に、王に、上層部に、多くの者達にも迷惑をかけてしまう。
自分を王妃として選んでくれた者達。
王妃として慕ってくれる者達。
私は彼等の信頼を裏切り、海国の誇りを傷つけたのだ。
そして、武官の家族達から彼を奪ったのだ。
私が、殺した、殺してしまった。
私が彼をこんな風にさせてしまったのだ。
夫となる筈だった彼が--私の肩に手を置く。
「子殺しの次は、武官殺し。お前に関わる奴らはみんな不幸になるな」
囁き、そして。
「けど、大丈夫。俺達に全て任せれば良い。何、神が一神消えるのなんて……そう、こんな事なんてどこにでもある事。世の中、助け合いだろう? だから」
悪魔の囁きに、私がゆるゆると顔を上げた時だった。
「見つけた!」
バンッと凄い勢いで、外に繋がる扉が開いた。
現れたのは、十二王家筆頭--星家の長姫。
その後ろから、凪国筆頭書記長官の朱詩様とその配下の方々。
そして--。
「か、海王--」
カルアが、静かに室内に入ってきた。
カルアは始終何も言わなかった。
物言わぬ骸と化した武官は、朱詩様の命によって配下の方達が運んでいく。
私は、上から朱詩様の外套をかけられ、支えられるようにして立つのが精一杯だった。
何か言おうとした。
言わないとと思った。
私は、私が、彼を。
「あの彼が、王妃様を害そうとしたのです」
そう言ったのは、夫となる筈だった彼だった。
彼は流れる様に話をしていく。
私が、この武官にこの建物に連れ込まれ、襲われていたと。
そして、危ない所に自分達が駆けつけたが、武官が私を神質にして逃げだそうとして、応戦している際に武官を殺してしまった事。
王妃はただ被害者であるという事を、彼は熱心に伝えていく。
「そうでしょう? ねぇ? 王妃様」
「っ--」
違うと、どうして私は言わなかったのだろうか。
それは、私がずるいからだ。
私は保身に走ったのだ。
彼を、彼の家族を思えば、真実を明らかにするべきだった。
海国を思えば、本当の事を告げるべきだった。
そして、私のような穢れた女ではなく、清らかで穢れない心優しく慈愛と慈悲に満ちた女性を新たに王妃にするべきだった。
そう--子どもの、産める、汚れていない女性を。
その後、私は朱詩様達によって凪国王宮へと連れ戻された。
報せを聞いた凪国侍女長の明燐様が急いで私達の滞在する部屋へと来られたけれど、茫然自失としていた私は出迎える事すら出来なかった。
「紅玉、ああ、なんて恐ろしい目にあったのでしょうっ」
血にまみれた私は、明燐様の指示ですぐに侍女達に連れられて浴室へと向かい、血を洗い流された。丹念に優しく身体を磨かれ、程なく汚れと臭いは落ちた。
けれど、それでもまだ私は自分の身体から血の臭いがする様な気がして、部屋に戻ってすぐに吐いてしまった。
私が、襲われた事は内緒にされた。
私を助けたと話していた彼達にも口止めがされたという。
けれど、これで終わりではない。
彼らがどうして、自分達が罪を被るような真似をしたのか、私には分かってしまった。
『これから宜しくお願いしますね--』
そう言って、朱詩様達に連れて行かれる前の私の耳元で小さく囁いた彼に、私は全身から力が抜けそうになった。
そう……私は、罪神なのだ。
いや、私が全ての諸悪の根源なのだ。
しかも、彼が罪を被る事で、もし真実が明らかになれば、私は自分の罪を彼等に押しつけた悪女だろう。
自分の罪に向き合う事もせず、王妃という地位と身分の名の下に、罪無き者達に罪をかぶせた……そして、自分の罪から逃げた、大罪神、だ。
私は布団の中で泣いた。
心配した明燐様が側に居て下さったけれど、それに対してお礼を言うことも出来なかった。
カルアは、居なかった。
私が朱詩様達に連れて帰られる際、カルアは同行しなかった。
そして今も、カルアは居ない。
ただ、カルアは私を無表情に見つめていた。
武官の血にまみれ、呆然とする私を、まるで汚らわしいものでも見る様に--。
真実なのだから仕方が無いでは無いか
冷静な部分の私が冷たく言い放つ。
実際に穢れているのだから、仕方が無い。
それが真実なのだから。
「紅玉、お腹が空いていませんか? 食事も持ってきていますのよ?」
「……」
明燐様も、私が武官に襲われた事は知っている。
だから、凪国侍女長の権力を使って強引に--という事はしない。いや、元々そんな事はしない方だけど。
ただ優しく、布団にくるまって顔を見せようともしない私に言葉をかけて下さる。
「恐かったですわね。でも、もう大丈夫ですわ。ここには貴方を傷つける者達は居ません。居たとしても、この私が近づけさせませんわ」
そもそも、凪国王宮もあの植物の化け物達で被害を受けている。
被害自体はそこまででは無いようだし、攫われた者達も居ないと言う。
でも、その後片付けや負傷者の手当てはあるだろうし、王都にも被害が出ている。
本来であれば忙しい凪国王妃付き侍女長様を、私が一神占めになんてしてはならないと言うのに。
私は迷惑ばかりかけてしまっている。
自己嫌悪に、私は溺れそうになる。
どうして、あの時、私は素直に武官に連れられていってしまったのだろうか?
いや、そもそもどうしてカルアにしがみついていなかったのだろう。
海国で、喧嘩の末に王都に飛び出して奴隷商神に捕まった時と一緒である。
昔に比べれば強くなったからと油断していた自分が一番悪い。
少しは物事を知るようになったと傲慢にも思った過去の自分を殴り倒したくなる。
そしてそれ以上に、私という存在が憎かった。
私という存在がなければ、武官の彼は殺される事は無かったし、そもそもあんな風になる事もなかった筈。
その前に、私に迫ってきた凪国の貴族の青年だってそうだ。
そして--。
子殺し。
私のお腹に宿ったあの子も……産まれる前に死ぬ事は無かった。
「紅玉……」
「……私」
明燐様が、優しくくるまった布団から私を外に出す。
そして、優しく抱き締めて下さった。
「私、私は」
「紅玉、良いのですわ。貴方は何も悪くありませんもの」
「私は、ふっ……くっ」
「何も悪くありませんわ。悪いのは、貴方を襲った男達ですもの。そう、か弱き女性を襲う男など、『男』ですらありません。ただのクズ、ゴミ以下ですわ」
優しい美声が私の耳と心に染みこんでいく。
「そんなクズの事を考えるのはおやめなさいな。むしろ、貴方の意識にそんなクズの事があると思うだけで、私はとても腹立たしく思いますもの」
「明燐、様……」
「そうですわ。貴方の中に、あんなクズは必要ありませんもの。むしろ、私の事を考えて下さいな」
そこは夫とかいうのが普通だと思う。けれど、確かに明燐様ほどのお美しい方であれば、自分の夫よりも明燐様だけを考えていたい--という同性は結構多いのも事実だ。
「--少し、何かを食べた方が宜しいですわ。食べやすいように、お腹に優しいものにしましたの。ああ、甘い物もありますから--紅玉は何がお好きだったかしら?」
そう言って、明燐様は指を鳴らす。すると、侍女達が部屋に入ってきて、テーブルの上に置かれた食事を更に食べやすい様に整えていく。
まあ、新たに甘いお菓子類もテーブルに置かれていった。
「身体を温めるお茶もありますわ。冷たい物が欲しいなら、そちらの薔薇水はどうかしら? 檸檬水もありますし、お好きなのを言って下さいね?」
「明燐様……」
凪国で栽培される材料を使った薔薇水も檸檬水も、他国に比べて格段に美味しさと香りの良さに定評がある。海国にもあるが、やはり凪国の方が味も香りも良い。
泣いた事で喉がカラカラになっていたので、薔薇水を頼み口に含むと、ふわりと口の中に香りが広がった。喉の中が優しく潤っていく。
「……美味しい……です」
「それは良かったですわ。ああ、薔薇がお好きなら、薔薇のジャムなどもありますのよ? ふふ、茨戯の手作りで、味もとても美味しいと評判なのです」
「茨戯様が作られたのですか?」
あの『薔薇姫』と謳われる茨戯様は、正に大輪の薔薇が咲き誇ったよりも美しいお方だ。その方が手ずから作られた料理は、それだけで希少価値があるが、それに加えてとても味が美味しいと言うのだから凄い。
美しくて料理も出来てなんて、正に完璧では無いか。
そう……私とは全然違う。
思わず項垂れた私に、明燐様が心配そうな声をかけて下さる。
「……ごめんなさいね、まだショックが抜け切れていないですものね」
「あ、その」
「でも、しっかりとご飯は食べなければなりませんわ。でないと、元気になるだけの体力が無くなってしまいますもの」
「……」
私は、目の前の食事を見る。
どれも美味しそうだ。
でも、いつもなら鳴り響く筈のお腹は全く動かない。
まるで、それを食べるだけの価値がお前には無い--と言っているようだ。
「ゆっくりで、良いのですよ」
「……」
「まあ、あれだけの事がありましたから、食欲が湧かなくても当然と言えば当然ですわ」
「……あの」
「ごめんなさいね、紅玉。私達の場合、こういう時こそ食べてしまうんですの」
「……こういう時?」
明燐様が柔らかく微笑む。
「そもそも、私達は何かをゆっくりと考える暇など無いぐらい、色々とありましたもの--物心つくよりもずっとずっと前から」
「明燐様」
私は、明燐様の言葉にただその名を呼ぶ事しか出来なかった。