SF小説【地下1階のタイムトラベル】
チーン、と気の抜けた電子音が鳴った。
エレベーターの扉が開く。
残業続きでぼんやりした頭のまま、俺はいつものように一階で降りるつもりだった。
だが、目の前に広がっていたのは、見慣れた会社の無機質なロビーではなかった。
薄暗いコンクリートの壁。
湿った空気。
古びた蛍光灯の、じじじ……という頼りない音。
そして、どこからか聞こえてくる、やたらと元気なドラムとブラスのサウンド。
「なんてったってアイドル! フッフー!」
「なんてったってアイドル!」
小泉今日子の、あの有名すぎるポップスが爆音で響いていた。
「なんだこれ……地下にこんな飲み屋街あったか?」
俺は思わずエレベーターの階数表示を見上げた。
赤いランプが灯っている。
―B1―
地下一階。
会社のビルに、こんな階は存在しないはずだった。
怪訝に思いながら、俺は出口らしき階段を駆け上がった。
重たいガラス扉を押し開けた瞬間、世界が変わった。
外は夜だった。
だが、光の質がまるで違う。
令和の街を照らす白いLEDはどこにもない。
あるのは、ぼんやり滲むネオンサインと、赤提灯の暖かい光。
空気にはタバコと焼き鳥と排気ガスの匂いが混ざっていた。
走っている車は、どれも角ばっている。
人々の服装もおかしい。
肩パッドの入ったジャケット。
太いネクタイ。
前髪を高く立ち上げたワンレンの女性。
やけに大きなメガネ。
そして、街全体を包む、根拠のない活気。
俺は慌ててポケットからスマホを取り出した。
画面は真っ暗。
電波がないどころか、まるでこの時代に存在を拒否されているようだった。
「嘘だろ……」
喉が乾く。
看板の文字。
流れてくる音楽。
道行く人々。
何もかもが、テレビの懐かし映像でしか見たことのない世界だった。
「俺、昭和に来てる……?」
平成生まれの俺にとって、そこは過去というより、ほとんど異世界だった。
最初は混乱した。
だが、次の瞬間、俺の中のSF好きが顔を出した。
過去の昭和。
しかも、おそらく昭和の終わり頃。
それなら、やるべきことは一つしかない。
「もしかして……若い頃の親父とおふくろに会えるんじゃないか?」
俺は立ち止まった。
二人の馴れ初めは、確か昭和の終わり。
親父は新入社員。
おふくろは同じ会社の事務員。
酒が入るたびに、親父は何度も同じ話をしていた。
「お母さんとはな、会社帰りによく行ったスナックで仲良くなったんだ」
その店の名前も覚えている。
――スナック・あけみ。
俺は記憶の中の地図を頼りに、昭和の街を歩き出した。
路上にはタバコの吸い殻が落ちている。
居酒屋からは、景気のいい笑い声とカラオケの歌声が漏れていた。
酔っぱらったサラリーマンが、部下の肩を組んで大声で何かを語っている。
不思議だった。
今より不便なはずなのに、街全体がやけに生きている。
やがて、紫色のネオンが見えた。
『スナック あけみ』
俺は息を飲んだ。
本当にあった。
重たい扉を開けると、カランコロン、とドアベルが鳴った。
同時に、強烈なタバコの煙が押し寄せてくる。
狭い店内。
紫色の照明。
カウンターにはウイスキーのボトルが並び、壁には古いアイドルのポスターが貼られていた。
「いらっしゃい。お兄さん、見ない顔ね」
ボリュームのある髪型のママが、こちらを見て微笑んだ。
「えっと……一人です」
「はいはい。じゃあ、そこ座って」
俺はカウンターの端に腰を下ろした。
奥のボックス席が、やけに騒がしい。
「次、誰が歌うんだよ!」
「部長、次は『パラダイス銀河』入れときます!」
「お前、気が利くなあ!」
恐る恐る振り返った。
そこにいた。
七三分けの髪。
異様に大きなメガネ。
まだ顔つきに若さが残る、少し垢抜けない青年。
そしてその隣で、はにかみながら手拍子をしている、肩パッド入りのワンピースを着た若い女性。
間違いない。
家の古いアルバムに写っていた、若き日の親父とおふくろだった。
俺は思わずグラスを握りしめた。
「親父……」
家ではいつも偉そうに新聞を読んでいた親父が、上司の機嫌を取るために必死でタンバリンを叩いている。
今ではすっかり口うるさいおふくろが、頬を赤らめて笑っている。
その光景は、妙におかしくて、妙に胸に来た。
俺の知らない二人が、そこにいた。
俺が生まれる前の二人が、ちゃんと若者として生きていた。
親父が席を立った。
カウンターのそばに置かれた、電話帳みたいに分厚いカラオケの選曲本をめくり始める。
俺の心臓が跳ねた。
近い。
若い親父が、俺のすぐ隣にいる。
「あ、すみません。隣、いいですか?」
親父が、人懐っこい笑顔で言った。
俺は、何とか平静を装ってうなずいた。
「どうぞ」
言えるわけがない。
俺、あなたの息子です。
そんなことを言った瞬間、時空が歪んで、自分の存在が消えるかもしれない。
映画で学んだタイムトラベルの基礎知識が、全力で俺を止めていた。
親父は選曲本をめくりながら、気さくに話しかけてきた。
「お兄さん、仕事帰りですか?」
「まあ……そんなところです」
「大変ですよねえ。でも、今は頑張れば頑張った分だけ返ってくる時代ですから。俺もね、いつかちゃんと家族を持てるくらいにはなりたいんですよ」
その言葉に、俺は黙った。
いつかちゃんと家族を持てるくらいには。
その“いつか”の先に、俺がいる。
親父はまだ何も知らない。
これから結婚して、子どもが生まれて、住宅ローンに苦しんで、反抗期の息子に無視されて、定年後にはテレビの前で居眠りするようになることも。
でも、その全部が、俺の人生につながっていた。
俺は小さく息を吸った。
「……大丈夫ですよ」
親父が顔を上げる。
「あなたなら、きっといい家庭を築けます」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「仕事も、恋も、たぶん不器用だと思いますけど……それでも、ちゃんと大事なものは守れる人だと思います」
親父は、きょとんとした顔をした。
それから照れくさそうに笑った。
「なんか、占い師みたいなこと言いますね」
「たまに当たるんです」
「そりゃ心強い」
親父は笑いながら、俺の肩をぽんと叩いた。
その手は、俺が知っている親父の手より細かった。
けれど、温かかった。
「ありがとう。なんか元気出ました」
親父は分厚い選曲本を閉じると、ボックス席へ戻っていった。
やがてイントロが流れる。
またしても、小泉今日子の『なんてったってアイドル』。
若い親父がマイクを握る。
若いおふくろが笑って手拍子をする。
俺はその光景を、最後まで見届けた。
そして、そっと店を出た。
ビルの地下一階へ戻ると、あのエレベーターは何事もなかったようにそこにあった。
俺は乗り込み、「1階」のボタンを押した。
扉が閉まる。
チーン。
扉が開くと、そこは見慣れた令和の会社ロビーだった。
白いLED照明。
無機質な床。
静まり返った受付。
そして、ポケットのスマホには、未読LINEの通知がいくつも溜まっていた。
何も変わっていない。
いや
俺の中だけが、少し変わっていた。
ふと、ポケットに違和感があった。
スマホの横から、くしゃくしゃになった一枚の紙が出てくる。
古びた紙。
懐かしいフォント。
そこには、こう書かれていた。
『スナックあけみ 領収書 金一万円也』
俺はしばらく、その紙を見つめた。
それから、スマホを開く。
連絡先の中から、実家の番号を探した。
最近は、用事がある時しか電話していない。
親父の話は長い。
おふくろの小言はもっと長い。
でも、今夜くらいはいいかと思った。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やがて、受話器の向こうで、聞き慣れた声がした。
「もしもし?」
俺は少しだけ笑って、言った。
「親父? 今、ちょっと話せる?」
令和の夜の街に、遠い昭和のメロディが、まだかすかに残っている気がした。
現代小説【地下1階のタイムトラベル】
完結




