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ティー・ブレイク!  作者: 汐良 雨
イノセントワールド

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22

bar sábado



 カラランと軽やかな音でドアベルが鳴る。有羽がその扉を潜ると、むせかえるような肉と油の香りが肺を満たした。


「あ、有羽!いらっしゃ〜い!」


 椅子に腰掛けたまま、アンリがドアの方を振り返ってそう言った。


「あたしの肉、まだちゃんと残ってるわよね」

「食い切れないって言ったろ。レガリア、すき焼き準備してくれ」


 ファイが苦笑混じりにそう言って、カウンターで調理を進めるレガリアに声をかける。

 

「僕まだ一口も食べてないんだけどなぁ。有羽、今から準備するから先に焼肉消費しておいてくれるかい?」

「あたし、塩だれ派」

「はいは〜い」


 有羽が椅子に腰掛けると、慣れた手つきでアンリが取り皿に塩だれを注ぐ。テーブルの上のホットプレートには、所狭しと分厚い肉が並べられていた。


「にしてもすごい量ね……、兄さんも呼ぼうかしら」

「食って行けって言ったけど断られたんだよ。あいつは僕らの胃袋を過信しすぎている」

「まあ、あの人あの見た目でよく食べるから……。兄さんにとってはこれで三人分なのかしら」


 ホットプレートの上、程よく焼き色の付いた肉を箸で拾い上げ塩ダレの入った容器に放り込む。ジュワッと跳ねる油が有羽の胃袋を刺激する。舌に乗せると、目が覚めるような塩ダレの塩気、その後を追うように、口内を甘い肉の油が満たす。それは何の抵抗もなく歯を通し、あっという間に無くなってしまう。


「お米が欲しくなるわね」


 有羽がぼそりとつぶやいたその言葉を待っていたかのように、レガリアがカウンターから山盛りのご飯を差し出した。


「たくさん炊いてあるからどんどん食べてくれ」


 ありがとうと一言言いながらお椀を受け取ると、むわっと立ちこめる湯気とともに、これまた食欲を刺激する炊き立ての白米の香りが鼻腔を満たす。まだ少し油の残った口内に、熱々のご飯をかき込む。多幸感、とでも言おうか。ふわふわと有羽の全身を幸せな浮遊感が包み込む。


「あ〜〜〜、幸せ」


 殆どため息に近い声。このままずっと無くならなければいいのにと、ふとそう思った瞬間に有羽の脳裏にファイの時間操作魔法が思い浮かぶ。


「……ねえ、こんな時に何だけど、ひとつ聞いていいかしら?」


 幸福の余韻をぶった斬るかのように、低いトーンでそう呟く。舐めるようにファイの顔を覗き込むと、ファイは一瞬驚いたように眉を上下させた後、真っ直ぐに有羽の目を見つめ返してきた。


「貴方、時を戻した橘朔弥の体がその後どうなるか、知っていたわよね。……人間に対して使うの、初めてじゃなかったんじゃないかしら」


 鋭い瞳。それまで弛緩し切っていた空気が一瞬緊張感を孕む。問われたファイは、手に持っていた箸を器の上に置くと、ふうっと小さく息を吐き出した。


「もう、10年くらい前のことだよ。……買って帰って来た肉を、冷蔵庫に入れ忘れたまま寝落ちしたんだ」

「寝落……え?」


 ファイは神妙な面持ちのまま天井を見上げて、遠い記憶を掘り返しながら続ける。


「1パック五百円ほどだったが、一口も食わずに捨てるのは勿体無いと思って開けてみたら、既に肉はひどい臭いを放っていた。……ほんの半日ほどだったが、あれは真夏だったからな。真夏の半日は生肉を腐らせるには充分な時間だろう」


 有羽の眉間の皺が深くなる。自分はいったい何の話を聞かされているのだとアンリの方を見ると、アンリもまた神妙な顔つきで俯いている。


「僕は、腐った肉を半日巻き戻して調理をしたんだ。巻き戻された肉は元の鮮度に戻っていて、その時は美味しく食べることができた。……が、半日後、僕らは強烈な腹痛に襲われた」

「僕()って、……もしかしてアンリも食べたの?」


 アンリは黙ったまま小さく頷く。そのこめかみに、じわりと脂汗が浮かんでいた。


「薬でどうこうできるものではないと、肌感覚でわかった。だから今度は、僕ら自身の身体を肉を食う以前に戻したんだ。……結果は、言わずともわかるだろう」


 ああ…、と有羽は声にならない感嘆符を漏らす。ファイの神妙な面持ちからすると、半日後にまた彼の体を腹痛が襲ったのだろう。おそらく二人を看病していたと察せられるレガリアの方に視線を送ると、彼もまた虚空を見つめたまま遠い目をしていた。


「……にしても、時間操作なんて奇跡みたいな魔術を、なんてしょうもない事のために使ってるの」

「うるさい、あの時の僕にとっては生きるか死ぬかレベルの大事だったんだ」


 ジュウ、と一瞬重たくなりかけた空気を、肉の焼ける音が解く。アンリは黙ったまま、ホットプレートの上から焼き色のついた肉を一枚取る。


「まあ、魔術というのはそもそも奇跡なんかじゃないからね」


 カウンターから身を乗り出しながらレガリアが言う。


「悪魔にとって、魔術はただのインフラなんだよ。それこそ、魔界では誰もがそれを日常のしょうもない事のために使っている。戦争や闘いのために使うよりも、その方がよっぽど平和で良いじゃないか」


 喉の奥でクックッと笑い、レガリアが口角を上げる。有羽は「そうね」と小さくつぶやいて、ホットプレートの上に箸を伸ばす。一切れ肉を持ちあげると、切れ端からポタポタと油が滴った。


「さて、そろそろすき焼きが出来上がるから、そこのお肉攫っちゃってくれ」


 いつの間にか、バーの中にはすき焼きの甘辛い香りが漂っていた。口いっぱいに肉を頬張ったままのアンリが「ふぁーい」と気の抜けた返事をしながらホットプレートに箸を伸ばす。少々胃がもたれ気味のファイが数枚だけ取った肉をゆっくりと飲み込み、まだまだ食べ足りない有羽は焼きたての肉を白米と一緒に流し込む。

 bar sábadoの夜はまだまだこれからである。


 


   ×     ×     ×




都内 某所



 不快な熱がジメジメと肌を這う。風だけはひんやりと少し冷たく、初夏の夜の香りがする。キラキラと派手なネオンに照らされながら、橘杏花は一人、夜の都会を歩いていた。

 思えば、不自由な人生だった。選択肢がなかったからこそ、与えられた場所で精一杯に生きてこられた。だが、今急に自由というものを手渡されても、杏花にはどうすれば良いか皆目見当もつかないのだ。


「あのバーで探偵……?いや、柄じゃないよなぁ。魔捜ってのはもっと……」


 学校……と一瞬思い至ったところで、杏花の足が止まる。今更、自分が同世代の子供足並みを揃えて勉強をするなんて、探偵や魔捜以上に想像がつかなかった。

 ふと顔を上げると、遠くで柔らかそうな銀色の髪が揺れたのが見えた。白亜徹だった。


「いいの?スパイがこんなところフラフラしてて」

「潜入先だった施設も潰れたしね。少しの間スパイはお休みだ」


 白亜はふふっと杏花に笑いかける。潜入の緊張からの開放感を感じさせる、朗らかな笑みだった。


「ここ数年、不自由な潜入捜査官として生きていたから、急に休暇を言い渡されても与えられた自由を持て余してしまってね。……きっと、君もそうなんじゃないかと思って」


 杏花の腹の底を見透かすような物言いに、一瞬ゾッとした寒気を覚える。しかし、その言葉に他意がない事は白亜の表情から明らかであり、強張った体は一瞬で弛緩する。


「なんだ、あんたにも人間らしいところあるんだ」

「人間だよ、どこまでも。悪魔のように万能じゃないし、魔術師のように器用でもない。……君にはそうじゃないように見えていたのかな?」

「さあね。わかんない。……けど、なんとなく、前よりもあんたが親しみやすいように感じる」


 杏花がまじまじと白亜の顔を見つめる。そこに居たのは、自分と同じように自由を持て余す、孤独な一人の若者だった。


「あんたは、これからどうするの?」

「そう、その話をしに君に会いに来たんだよ」

「?」


 杏花がキョトンとした顔で首を傾げる。


「僕の次の潜入先が決まったんだ。君さえ良ければだけど、一緒に来てみないかい?」

「一緒に?私にスパイになれって?」


 怪訝な顔でそう言った杏花の様子に、白亜が堪えきれずに笑い声を上げる。


「君と同業ってのも悪くないけど、まだそれは少し早いかな。……君は、まだ一人で生きていけるほど強くも賢くもない。だから、学ぶ必要がある」

「……さっきから何が言いたいのかわかんないんだけど」


 白亜の要領を得ない言い方に、段々と強化が苛立ちを露わにする。大人ってのはこれだから嫌いだと、白亜を見つめる視線が鋭くなる。


「学校に、通ってみないか?」


 学校、という言葉に一瞬心臓が跳ねる。胸を渦巻くのは、期待と不安。通ってみたくないと言えば、嘘になる。けれど、ずっと施設で生きて来たハーフの自分が、普通の、人間の子供として学校に通うという想像はどうしてもできなかった。


「……今更、そんな所」


 ぼそりと呟いたその声は、諦観の音をしていた。


「紗紋高校、という名前は聞いたことがあるだろう?」

「ああ、あの監獄みたいな学園都市……」

「今度僕はそこで教師をする事になったんだ。僕の上司に掛け合えば、君一人を入学させるくらい造作もない。……どうかな?あの高校なら、ありのままの君を受け入れてくれる」


 あの学校に寝泊まりして身を隠していた頃、暇つぶしに校内の生徒を眺めていることがあった。その目に羨望に似た熱がこもっていた事に、杏花自身も気が付いていた。何にも怯えないで、何からも隠れないで、ただ自身に備わった魔術という超常を磨き続ける生徒たちが、杏花にはとても眩しく写っていた。


「すぐに結論を出す必要はない。けど、あそこでは君の血筋も、その瞳も、ありふれたただの個性だ。……あそこでなら、きっと君はこれからどう生きるべきかを見つけられる」

「……どうしてそう言い切れるの?」

「僕も、あそこの卒業生だからさ」


 白亜が柔らかな笑みを杏花に向ける。杏花は、黙ったままだった。


「その気になったら連絡してくれ。僕の、新しい電話番号だ」


 黙ったままの杏花に白亜が一枚の紙を手渡す。整った綺麗な字で、十一桁の番号が記されていた。


「じゃあ、連絡待ってるよ」


 それだけ言って白亜は人混みの方へ歩き出す。その背中を見ながら、杏花は一つ伝え忘れていたことがあったと思い出す。


「あっ、一つだけ!」


 去っていく背中を呼び止めると、白亜は不思議そうな顔で半身だけ杏花の方を振り返った。


「ありがとう」

「……?」

「まだ、言ってなかったから」


 助けてくれて、優しくしてくれて、……選択肢をくれて。与えてもらった全てへの感謝を、その一言に込めた。煌びやかな街のネオンに負けない、キラキラと輝く満面の笑顔だった。

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