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歌舞伎町 路地
「杏花ちゃん」
不意に、呼び止められて振り返る。朝日に照らされて、短い緋色の髪が輝いていた。
「緋田……櫂……」
会うのは以前戦った時以来だった。次に会うときは殺すつもりでと言ったのに、櫂の表情はそんなことは微塵も感じさせないほどに穏やかだった。
「魔捜にも……、ちゃんと話をしに行くから。その前に、寄り道だけさせて欲しい」
杏花は絞り出すようにそう言った。巻き込まれるという形とは言えど、自身が犯罪に加担していた事は事実だ。魔捜に拘束される前に、ファイへの報酬を渡してしまいたかった。
「ファイの所だろう?わかっている。……今日は、これをどうしても渡したかった」
櫂の手には、一枚の封筒が握られていた。
「申し訳ない、中身は先に読んでしまった。読んだ後で、これが君宛のものだとわかった。……もしかしたら、この手紙は君を深く傷付けることになるかもしれない。それでも、これを書いた人物の切実な気持ちだけは、どうしても君に伝えたかった。読むか読まないかは君が選べばいい。処分も、君に任せる」
受け取った封筒をゆっくりと開く。
――拝啓、少しだけ未来の君へ
一行目には、そう書かれていた。見慣れた字。誰からの物かはすぐにわかった。
「いいの?これ、ゴンさんのでしょう?」
「捜査に関係のある事は書かれていなかった。だから、俺はその手紙を見つけていないことにした」
櫂の目には迷いはない。その目からは、警察官という職務を逸脱する事に対する覚悟が感じられた。
「ありがとう。……けど、読んだらちゃんと返すよ。私なんかのために、お兄さんが重荷を背負う必要なんてない」
「重荷じゃないさ。俺は、君みたいな子を救うために警察官になったんだから」
白い、歯並びのいい歯を見せて櫂が笑う。
「じゃあね、急がなくていいから。話をする気になったら有羽か俺に連絡してくれ。俺たちなら、君を悪いようにはしない」
そう言い残して、櫂はサッと杏花に背中を向ける。この人は、後ろから杏花に攻撃されることなんて微塵も考えて居ないのだと、その無言の信頼が何だか嬉しかった。その信頼に応えるように、杏花も櫂に背中を向ける。手の中の封筒を、ギュッと握り締めながら。
× × ×
拝啓、少しだけ未来の君へ
この手紙を読んでいるという事は、僕はもうこの世に居ないという事だろう。君を一人にしてしまった事、本当に申し訳なく思っているよ。
僕は君に、謝らなければならないことがある。本来、君の復讐心を一手に引き受けるべきなのは僕であると、その罪を僕は今までずっと君に隠し続けてきた。君を庇護するふりをしながら、ずっと君を騙し続けてきた。この期に及んでまだ、遺書という形でしか告白のできない僕を、どうか許さないでほしい。君を、不幸な身の上にしてしまったのは、すべて僕の傲慢さと浅はかさが原因なのだから。
あの日、君の家に鳳を連れ込んだのは僕だ。
僕は、鳳の下で働く科学者だった。あの頃の僕は、起爆剤の完成が人類を悪魔から守る最良の手だと、本気で考えていた。ファウスト家が壊滅して、ゲートを守る人間が居なくなってから、それまでひっそりと生きていたはずの悪魔たちが表に出てくるようになった。悪魔による人類の蹂躙が始まったんだと思った。
この世界を守るためには、人間が悪魔と対等に渡り合うための力が必要だと、僕は鳳の言った起爆剤という計画に加担した。バカな僕は、僕にそう声をかけてきた鳳自身が悪魔だったなんて少しも考えなかった。その後ろに、ファウスト家を壊滅させた張本人が居るとも。
複製と置換を司る悪魔の存在を知って調べていくうちに、それを使って医療行為を行っていた橘朔夜、君のお父さんの存在を知った。その術式を使えば起爆剤の完成にかなり近づくんじゃないかと、そう鳳に進言した。その結果が、君の家への強襲だった。
僕はただ、協力を仰げればと思っていた。……なんて、いまさら言っても言い訳にしかならないね。鳳は橘朔夜をさらってその術式を抽出するために、君の家に乗り込んだ。君のお母さんは、夫を守るために鳳と戦って亡くなった。僕は、その一部始終をただ傍観していただけだった。
橘朔夜に娘が居たと知ったのはそれからかなり経った後だった。施設で拷問にも似た実験をされていた君が橘朔夜の娘だと知った時、僕は初めて自分はなんてことをしてしまったのだと自身の行いを悔いた。知らなかったでは済まされない。だから、せめてもの罪滅ぼしにと鳳の行いをとある組織に密告した。密告者である僕に接触してきた彼に、僕のことは捨て駒にしてくれてかまわないから、どうにか君だけは逃がしてほしいと頼み込んだ。
……そのあとは、君の知っている通りだよ。彼の作った偽起爆剤を配って鳳に忠実な部下のフリをしながら、復讐の機会を待っていた。君が、僕より先に歌舞伎町に向かったのは想定外だったけど、これを読んでくれているということは、君を逃がすことには成功したのかな。だとしたら、命を懸けた甲斐があったね。
僕は、考えの浅さから道を踏み外してしまった。君は、鳳に加担した自身も同罪だなんて考えているかもしれないが、君が鳳に受けていた仕打ちと、君の行いが全て鳳の命令の下だったことは彼に伝えた。彼なら、きっとうまくやってくれると思う。
これから君は、ようやく自分の人生を生きられるんだ。誰のためでもない、君だけの人生を。だからどうか、僕のことは忘れて幸せになってほしい。
君のこれからの人生が、どうか幸多き人生でありますように。
権田原
× × ×
トー横広場
「馬鹿だなあ」
手紙を握りしめながら、杏花が呟く。
「そんなこと知ってたよ。知ってたけど、それでも……」
ぽとりと、手紙の上に水滴が落ちる。水滴が、ボールペンで書かれた筆跡を滲ませる。
「ゴンさんはずっと私に優しかった。忘れてなんかやるもんか」
ぐしゃりと便箋を握りつぶす。握りしめた手の甲で、ゴシゴシと目元を拭う。
「ありがとうね。……私の、もう一人のお父さん」
朝焼けのオレンジ色が、目元の赤みを覆い隠す。誰も、きっと杏花が泣いていた事になんて気が付かない。
ズズっと音を立てて息を吸い込むと、初夏の湿気た空気が肺を満たす。
新宿、歌舞伎町。眠らない街は眠らないまま、今日も新しい一日が始まる。
× × ×
歌舞伎町 路地
「待ってたのか?」
トー横広場から大久保方面に伸びる路地。ほんのりと異国情緒の漂うその場所で、スマホを見つめたまま立っていた藍葉樹に、今しがた杏花と別れたばかりの櫂が声をかける。
「一つ、耳に入れておきたいことがあったからな」
姿こそ樹であるときのそれだが、樹が樹として動いているときの穏やかな表情はそこにはない。あるのは、彼がせーやとしてトー横広場で炊き出しを配っているときの気だるげな青年の表情だ。
「橘杏花追跡の命令が解けた。あまりにも急な展開だから、何か上から圧力でもかかったんじゃないかって噂されてる」
樹の言葉に、櫂は一瞬呆けたように口を開けた後、こらえきれずに笑い声をあげた。
「その様子だと、やっぱりお前やあの探偵社の仕業か?」
「いいや」
口元を抑えて笑い声を噛み殺しながら、櫂は否定の言葉を口にする。
「彼の仕業だよ。……ったく、やってくれたな」
独り言のように呟く櫂の言葉に、樹は首をかしげている。
「立つ鳥がしっかり後を濁して行ったってことだよ」
得意げな声色でそう言いながら、櫂がニッと口角を上げる。
彼――白亜透。次いつ会えるかと聞いた時、答えを濁した彼の姿を思い出す。きっとここまでが、彼の描いたシナリオだったのだろう。
昔から、どこまでも優しい奴だった。渡り鳥、ワンダーフォーゲルという立場で自身の存在を殺して任務をまっとうしていた彼が、たった一人の少女を逃すために旧友である櫂の前に姿を見せた。それはもしかしたら、職務の逸脱でもあったのかもしれない。それでも、橘杏花という悲しい存在を放っておけなかった。実に白亜らしいな、と櫂は思う。
「すまない、何でもないよ。忘れてくれ」
呆けたような表情で櫂を見つめたままの樹に背を向ける。
彼の功績が日の目を見る事はない。いいや、見られてはいけないのだ。それが、ワンダーフォーゲルという組織だから。
友人の立場を立てるように、櫂もまたその功績をそっと胸のうちに秘めた。
彼の優しさも、功績も――櫂一人が知っていればそれでいい。




