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歌舞伎町 ビル 屋上
先鋭的なデザイン、ランドマークでもある東城ビルを優に超える高さ、新宿の新たな名所として誕生したビルの屋上から、アンリと杏花が歌舞伎町を見下ろしている。
「準備はいい?」
アンリに問われて、杏花がこくりと頷く。
アンリの手の中には一枚の小さな紙。羊皮紙のような厚さのある紙に、赤黒いインクで魔法陣が描かれている。ファイの作成したストックである。
「Blake」
アンリがそう唱えると、手元で握りしめていた紙が青白い炎にも似た光を発し、二人の周囲をふわりと生暖かい風が包み込む。
「おお、便利だね、これ」
アンリの視界に映るのは、彼女のいる場所から200メートル以上下方。人だかりができていて、魔捜のパトカーの止まっている事件現場。アンリの視界にオーバーレイするような形で映し出されるそれは、映画やドラマのような画面の中の出来事にも見える。
「見えた?間違いなさそう?」
「……うん。間違いないよ」
杏花の見つめる先では、男の遺体が運び出されているところだった。
「うまく逃げられたら合流する予定だったんだ。まあ、昨日あのネットカフェで起こった殺人事件のせいで会えなかったんだけど」
「ああ……」とアンリが苦笑いを漏らす。
「けど、彼もあんたの施設の関係者なんだろう?あんたが義理立てする理由はないんじゃない?」
「そうかもね。けど、私をモルモットか何かだと思ってるあの施設の中で、ゴンさんだけは優しかった」
権田原の遺体を見つめる杏花の寂しげな表情に、アンリはそれ以上追求することはしなかった。
「そっか」
数秒、言葉を飲み込んで、アンリはその一言だけ口にした。
× × ×
ラブホテル 客室
ベットの縁に腰掛けるオリアスを、ファイと有羽が見下ろすような形で囲んでいる。
「わざわざ杏花を外へ行かせたんだ。よほど聞かせたくない話なんだろう?」
ファイが無愛想な態度のままそう詰める。
「別にそういうわけじゃないんじゃが……。まあ、レガリアの坊の言い方を借りれば、“まだ話す段階ではない”というところかの」
オリアスは悪びれなくそう言った。
「それに、杏花を外に行かせた目的は、彼女に聞かせたくない相談をするためではない。まだ話す段階ではなかった仮説を、実証する証拠が欲しかったんじゃ。そしてその目的は、たった今果たすことができた」
オリアスはそう言って向かいに立っているファイの顔を見上げる。
「どういうことだ?」
ファイの問いかけに、オリアスがカカッと小さな笑い声で返す。不敵な笑みを浮かべたまま立ち上がると、彼女は明るい日差しの差しこむ、柄入りのすりガラスに手を当てる。
「人間の記憶を、妾は本棚のようなものだと思っておる。何かの記憶を呼び起こそうとする時、そこには関連する本を手に取って、その中から必要な情報を探し出す、というプロセスが挟まれるんじゃ。妾は昨晩杏花と話をした際に、彼女の記憶のある部分が反応していることに気がついた」
「昨日って、杏花の出生の話をしていた時だろう?過去を思い起こしているのだから、記憶の一部分が刺激されるのは不自然なことではないだろう?」
「なんじゃ、聞いておったのか」
「僕だけじゃなくて有羽もな」
ファイの言葉に、有羽が黙って頷いた。
「本棚、というのは例えが悪かったかもしれん。脳の中に並んでいるそれは、ラベルが振ってあるわけでも、項目ごとに整理されているわけでもない。妾は、杏花の脳内のどの部分に、家族や施設の記憶が仕舞われているのかを探す必要があったんじゃ。そして昨晩の会話の中で見つけたその場所なんじゃが、そこと同じ場所が、さっき“ゴンさん”という名前が出た瞬間に反応しておった」
窓の方を見るオリアスの瞳はじんわりと赤い光を放っている。
「じゃから、杏花を外へ行かせたのは、仮説段階での話を聞かせたくなかったというのも無くはないが、それ以上に、ゴンさんとやらに対するあやつの反応を観察したかったという方が大きい。……そして、今その仮説が確信に変わった。あやつの記憶の中の父親は、ゴンさん本人じゃ」
「待って、それじゃああの子が探してる父親ってのは?」
オリアスの説明に、有羽が疑問を呈する。
「うむ、我々はこれから、その謎を解かねばならん」
× × ×
歌舞伎町 路地
「先輩」
櫂を呼ぶ、静々とした落ち着いた声。背後から声をかけられ振り返ると、パトカーから降りて来たばかりの誓が居た。
「どうした?」
「柳川から連絡がありました。協力を仰いだ相手からの返事があったと」
「……!央乃か!」
彼女の能力を過小評価していたわけではないが、思っていたよりも随分と早い。
「お前は俺と一緒に戻れ。あとは彼らに任せる」
急いで現場を離れようとする櫂に、誓が慌てて声をかける。
「いいんですか?彼らは課長の……」
「ああ、問題ない。ここは歌舞伎町だからな。父さんと言えど俺を無視して好きにはできないさ。……それに」
そう言った櫂の視線の先には、未だ興味深げに現場を眺めるレガリアの姿。
「ここには彼が居る。彼の機嫌を損ねるのが得策じゃないことくらい父さんもわかっているだろう」
不敵に笑いながらそう言った櫂は、どこか波乱を期待しているようにも見えた。
「玲司」
「あ……!はいッス!」
櫂の声に、玲司が小走りで近づいてくる。
「俺は本庁に戻るから、後のことは頼む」
櫂の言葉に、玲司の表情が強張る。絶句である。
「頼むって……!俺じゃあの人を止められないっすよ……!」
そう言った玲司は、少し泣きそうになっていた。必死に形相で目を白黒とさせながら、櫂とレガリアを交互に見ている。
「まぁ、レガリアのことは好きにさせておけばいい」
「先輩……!?」
玲司に続いて、誓もまた言葉を失う。
「二人とも落ち着け。レガリアは享楽主義のどうしようもない奴だが、契約は必ず守る。それは彼が特別そうというわけではなくて、それが悪魔という種族だからだ。そんな彼が今、何やらこの事件に噛まなければならない理由を抱えている。利用するべきだろう」
さも当然のようにそう言い切る櫂の言葉に、誓が唖然として息を漏らす。落ち着くべきはあなたの方だと言いたくなる衝動を飲み込むように、こほんとひとつ小さく咳払いをして続く。
「わかりました、先輩がそう言うなら」
「月嶋さん……!?」
慌てて声を荒げる玲司に、誓が申し訳なさそうにアイコンタクトを送る。その表情に、玲司は一瞬躊躇ったものの、ようやく諦めたように首を振った。
「……了解ッス。けど、あんまり期待しないでくださいっすよ」
「大丈夫、すぐにせーやを来させるさ」
「ああ……」と誓が呆れたように息を漏らす。「行くぞ」と櫂に声をかけられてパトカーの方へと向かう中、誓の胸中を渦巻いていたのは、この後ここへと呼ばれる樹に対する憐憫だった。
× × ×
ラブホテル 客室
部屋の中では、杏花を中心にして女子たちがベッドの上に座り込む中、ファイだけが一人所在なさげにドアの近くに突っ立っていた。あれだけ恥ずかしがっていた有羽ですら、もうすっかり慣れているというのに、ファイが気まずく立っている理由はというと……。
「あー!これベビアンの新作じゃん!」
「すごいわね、ソワレの限定色もあるわよ」
部屋に備え付けられていたコスメセットを発見してガールズトークの真っ最中だからだ。「こんなことをしている場合か?」と、口から出かかった言葉を飲みこむ。まぁいいか、とファイが小さく微笑み彼女らの行動を肯定したのは、輪の中で微笑む杏花の姿が見えたからだ。
「ねぇ、あんたもつけてみなよ」
そう言ったアンリの手元には、女子の心をくすぐる可愛らしいパッケージを纏った、ブルーのラメが輝く淡いピンク色のリップ。
「いいよ、どうせ似合わない」
「似合うとか似合わないとかじゃないの。見てたでしょ?可愛いって思ったんでしょ?女子がメイクをする理由なんてそれだけでいいの!」
「いいって」と拒絶する杏花の唇に、半ば押し付けるかのような形でリップが触れる。スウっとなめらかに伸びるそれは、杏花の唇に彩りを加える。
「ほら、可愛い」
アンリが満面の笑みで杏花に鏡を向ける。
「可愛くなんてないよ。私はお姉さんみたいに綺麗じゃないから」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「……全く。アンリ、貴方が言うと説得力が全く無いのよ」
二人の会話に割って入ったのは有羽。
「いい?美醜の価値観なんてどうでもいいの。大事なのは、貴方が自分を好きになることよ」
有羽は杏花の正面に座り、真っ直ぐに彼女の顔を覗き込む。
「メイクはその助けになるの。可愛いなぁ、好きだなあ、と思った化粧品を身につけるとね、それをつけている自分のことも好きになれるのよ。自信を持って生きてる女の子は、容姿に関係なく可愛いのよ」
有羽が杏花の長い前髪に触れる。サラリと揺れる前髪の隙間から、赤い瞳が顔をのぞかせる。
「あたしはね、人と悪魔が共存して生きていける世界を目指してる。そこでは貴方のこの瞳も、隠す必要なんてないただの個性になるの」
「綺麗事だよ。人はそう簡単には変われない」
「そうね。けど、変えていくことはできる」
有羽はまっすぐに杏花の顔を見つめる。その瞳に映るのは強い意志。有羽は本気で世界の方を変えるつもりなのだと、杏花にもはっきりとわかった。
「イカれてる」
「あら、イカれてるのは世界の方よ」
有羽はなんの嫌味もなくそう言い切ると、ふんと鼻を鳴らして笑う。
「あはは、すんごい自信」
つられて杏花も笑う。有羽の少々過多とも取れる自信からは、一周回って本当にやってくれるかもしれないという信頼さえ感じ取れた。
「いいな、私も、そんな世界で生まれたかった」
「これからよ。貴方も一緒に作るのよ」
「……そうだね、そうできたらいいな」
杏花の言葉を聞いて、それまで傍観者を決め込んでいたファイが彼女の方へと歩み寄る。
「もう動けるか?」
優しさの中に、ほんの少しだが恥じらいも感じる不器用なセリフ。だが、優しくされることに慣れていない杏花には、むしろその不器用さが心地よかった。
「当然。気を使う必要なんてない」
強がりとも取れるそのセリフからは、強がりは微塵も感じられない。その態度に、ファイがふっと笑い声を漏らす。
「そうだな、余計なお世話だったか」
気を遣われると余計に立ち直れなくなる現象には、ファイにも覚えがあった。そういう時には普通に接してもらうことが一番の薬になることも。
「なら休んでいる時間が惜しい。さっさとやって終わらせるぞ」
「こっちのセリフ」
そう言って口角を上げる杏花の必死の強がりに応えるように、ファイもニッと意地悪そうな笑顔を作る。
「やれやれ、ようやく妾の出番かの」
オリアスが待ちくたびれたようにそう言った。
「これから嬢ちゃんの古い記憶に潜ることになる。しんどいぞ?」
「わかってる。覚悟はしてるつもりだよ」
「うむ。いい返事じゃ」
ふわり、とオリアスの周りを蝶が舞う。その瞳が、一瞬だけボウっと赤く発光する。
「それじゃあ、早速始めるとするかの」
オリアスが言い終わると同時に、煌びやかなピンク色の室内を、彼女の魔力を帯びた暖かい風が包み込んだ。




