婚約破棄をするために一世一代の賭けに出ました
※パ……ゲフンゲフン遊戯場やソシャゲガチャでのギャンブルはほどほどにしましょう。
「セルジュ・ダルジャン公爵令嬢!」
国立エトラー学園の卒業夜会。
美しい水晶のシャンデリアが魔法の光の中で煌めき、貴族子弟たちが舞踏と歓談に興じる場は、彼らにとっては学生時代最後の思い出となる場である。
「貴様との婚約は、この場をもって破棄する!」
ともすればその場を汚しかねない奇行ともとれる、王太子サイラス・エルステッドの怒声が、突然舞踏広間に響き反響する。
誰もが何事かと凍りつき振り返ると、彼の隣に立つ何とも可憐な風貌の子爵令嬢のラベンダー・ティップネスへとその視線を向けた。王太子の瞳の色――水色のドレスに身を包んだ彼女は、美しいピンク・ブロンドの髪を靡かせながらも、涙を浮かべて王太子の腕を掴んでいた。
(ようやく……ようやく、彼女を潰せる……!)
では肝心の王太子はというと、整った顔立ちに怒りというよりも『やっと言えた』という達成感が浮かんでいた。よほど緊張していたのか、彼の腕を掴んでいたラベンダーは、ほのかに彼の脈が速くなっているのを感じていた。よほどの緊張具合だった。
そして、面白い物を見つけたと言わんばかりに、扇で表情を隠す素振りを見せながらも、しっかりと笑みを浮かべて周囲にそれを見せつけたのは、彼の婚約者でもある悪名高き公爵令嬢のセルジュ・ダルシャン。
「まあ……!」
ラベンダーとは対照的に黒と深紅のドレスで着飾り、プラチナブロンドの髪を後方で結い上げ、深い闇色のアイシャドウと毒々しい水色の――ラベンダーの服と同じ色の――リップを付けた、絵に描いたような毒婦そのもののような風貌の彼女は、王国最大の歓楽街を抱える公爵領の運営に既に携わっており、名実ともに王家の財政を握る女であった。
ダルシャン公爵領は高級娼館や女性向けの男娼、高級倶楽部、はたまたカジノやひと時の夢を楽しむための宿屋など、この世のあらゆる欲望を提供する領を管理する家。
その欲望の巣窟に生まれた彼女は、動かせる金の量に比例した傲慢な言動で学園内でも有名で、王太子としてはその存在自体が『恥』であると考えていた。
何より、彼女は隣に立っているラベンダーとはあまりに対照的すぎた。
「今回はどのような御戯れで私を楽しませてくれるのかしら?」
そう尋ねたセルジュは、まるで退屈な茶会であるかのような態度で、緩慢な動作で扇子をひらりと閉じるが、その眼には確かな愉悦が宿っていた。
「貴様の学園内での横暴な振る舞いは見るに堪えない! 道を歩くだけで王の御前であるかのように道を開かせ、気に入らないものに罰を与える勝手極まる振る舞いは誠に許しがたい! よって貴様との婚約を破棄し、私はこのラベンダー・ティップネス子爵令嬢と新たに婚約することをここに宣言する!!」
観客と化した周囲が、一斉に息をのむ。
無理もない。二人が王名による政略婚であったことは誰でも知っていたからだ。
王国の財政は基本的に各寮からの税収によって賄われている。そして王国の税収のおおよそ7割は、ダルジャン公爵領の歓楽街から得られる収益によるものだった。
それは即ち公爵家が王国の財布そのものであるという事。公爵当主およびその妃は自領にしか興味が無く、政財界には滅多なことでは顔を出さないし当然財務卿であったりする事実もないが、その影響力は王国全土でも随一と言えるほどの強大なものだった。
なにせ、王国最大の歓楽街の管理者なのだ。
カネもあるのは当然ながら、あらゆる情報が倶楽部や後ろ暗い者たちより集まり、当然あらゆる醜聞も手中に収めている。
エルステッド一族がこの国の王家であるならば、彼らは影の王。ほかの家は当然逆らえないし、王家ですらも手綱を握っていられるか怪しい究極のフィクサーであった。
そんな家の令嬢であるセルジュを――実は王太子があまり誇張しているわけではないという事を踏まえても――ただ一方的に婚約破棄し傷物にしてしまうというのは、極めて非合理的で、影の王家への敵対ともとられかねない恐ろしいものであった。
「私がやれと命じたことは一度もございませんのよ?」
「だが止めることもせず、当然であるかのようにそれを良しとするとは何事か! ラベンダーもお前の気に障ったからという理由で階段から突き落とされそうな目にも合っているんだぞ!」
「まあ……それはそれは。なんと恐ろしいことをする方がいるのでしょうね?」
「とぼけるつもりか!?」
「ですから、存じ上げませんわ? それに――」
本当に私の気に障っていたら、今頃あなたの傍に彼女はいたのかしら?
閉じたままの扇子で唇だけを隠し、鋭い目つきでそう言って嗤う彼女を前に、サイラス王太子が言い返せる言葉など無かった。
「まあ、とはいえ私が図々しい態度を普段から取っているのもまた事実……」
「自覚はあったのか!?」
「ええ、まあ。そういう事ですので婚約破棄を受け入れる事はやぶさかではないですわ」
その言葉に、辺りがざわつく。
王太子としてもまさか、といった様子で驚きに眉を上げた。
「ただ一方的な婚約破棄をただ受け入れるのでは、私もこの国一の公爵家の体面というものがございます。ですので一つ、賭けをしませんか?」
「賭けだと?」
「ええ。実はこの場に、タロットカードがたまたまですが御座いますの。普通のカードがあればそのほうが良かったのですが……無いものは仕方ありませんので、これを使って、私とゲームをしませんか?」
「タロットカードで……?」
「ええ。タロットですので、名付けて『運命のブラック・ジャック』なんてどうかしら?」
彼女が扇子で自らの手のひらをトントン、と叩くと、どこぞから黒服の屈強な男たちが現れ、舞踏会の中央にテーブルと椅子が設置される。
「なんでそんなことを……」
「もちろんブラック・ジャックなので運だけでなく、殿下の知力も試されますわ。ベットするのはそうですね……慰謝料とかどうでしょう? 私が負ければ完全に当家有責として破棄に応じ、慰謝料をお支払いいたしますわ。私が勝てば婚約解消は無しです。やはりわたくしから吹っ掛ける以上は、それ相応のリスクが無いと、つまらないですもの……ねえ?」
妖しく彼女の目が光る。
それに対し、サイラスは悩んでいた。
悪くない話だった。
もとより今回の婚約破棄宣言は、婚約破棄に強引に踏み切るための苦肉の策だった。こうして公の場で婚約破棄を告げること自体が、廃太子になることも辞さない覚悟の上でのことだった。
国王陛下を何か月も必死に説得し、何とか勝ち取った許可を無為にするわけにはいかなかった。当然セルジュにゴネられることも覚悟の上だった。
それを、あの毒婦の有責で婚約破棄に応じ、慰謝料まで払ってもらえるという。通常であれば、ありえない話だ。
ただし、負けてしまうとラベンダーとの関係は終わってしまう。彼女とは永遠に会えなくなってしまう可能性すらあった。セルジュにはそれを成しえるだけの権力があった。どこぞの娼館に売られるならまだマシだ。最悪一生行方が知れなくなる。それも一族郎党で。
暗黒街の承継者は伊達ではないのだ。
「我が領の商いはつまるところIR……事業の横展開は多少あれど本業は賭博とも言えます。サイラス様……いえ、敢えてこうお呼びしましょう。エルステッド殿下には、やがてこの国を導くものとして、ご自身の運命を切り開く力を見せて頂きたいのです。皆様も、いかがでしょう? 王太子殿下の行く末を、このタロットカードで占うところを見たくはありませんか?」
始めは凍り付いていたはずの観客たちが、次第に好奇の目線をこちらに送り始める。
空気に、呑まれる。
嫌とは言い出せない雰囲気になり始めていることに気付いたサイラスは、しかし腕にこの間ずっとしがみついていたラベンダーにここで気付き、彼女と目を合わせた。
「ラベンダー……」
「サイラス様……」
私は、サイラス様を信じております。
そう言われた途端、身体に力が漲るかのような錯覚を覚えた。
ここで、勝負に応じなければ男が廃る。王太子の名が廃る。
あの女は気に入らないが、今回ばかりは全く以てセルジュの言う通りであった。
自身の運命を切り開く力を、見せなければならない。
王家ともあろうものが、運命の一つや二つを拓けずに国家元首など務まらない。
「いいだろう。その話、乗った!!」
力強く、威風堂々と宣言するその様は、さながら次期国王の威厳を辺りに知らしめるようで、思わず周囲から拍手が巻き起こった。
その姿を見て深く笑みを浮かべたセルジュは、そのままルールの説明を始めた。
「タロットカードといえども所詮はトランプと起源を共有する遊戯用の絵札……ルールは単純です。手札の合計点数が21または21に最も近いものが勝利し、22を超えるとドボンですわ。小アルカナにつきましては、正位置であれば通常通りの点数として扱い、エースであれば1または11として扱いましょう。ただし今回使うのはタロットカードですので、逆位置の場合にも意味と役割を持たせます」
ペイジ、ナイト、クイーン、キングのカードはそれぞれ1と2と3と4。
逆位置の場合、エースは点数を1で固定し、2から10の逆位置の場合は点数が1減少。ペイジの逆位置は0点とし、ナイトであれば1点扱い。
クイーンが逆位置で出た場合は相手プレイヤーの点数を1増やし、キングであれば自分の点数を10減らす。
大アルカナは引いたら即座に発動。その効果は以下の通りだった。
0愚者 正位置で引いた場合、自分の次に引くカードは強制的に逆位置になる 逆位置で引いた場合、自分の次に引くカードは強制的に正位置となる
1魔術師 正位置で引いた場合、相手のカードを一枚見ないで選び、その位置を正逆反転できる 逆位置で引いた場合、相手が自分のカードを見ないで選び、その1枚の正逆が反転される
2女教皇 正位置で引いた場合、相手の手札を1枚選んで公開する 逆位置で引いた場合、相手が自分の手札1枚を選び、公開させる
3女帝 相手の次に引くカードを任意で逆位置に固定することがでしる 相手の次のドローが強制的に正位置になる
4皇帝 相手の点数をー1 自分の点数をー1
5教皇 相手の次に引くカードの効果を無効化 自分の次に引くカードの効果が無効化される
6恋人 手札の任意のカード1枚と、見ずに選んだ相手の手札1枚を交換 相手の選択で任意のカード1枚を強制的に1枚交換
7戦車 このターン中に任意でもう1枚カードを引くことが可能 相手の任意でもう1枚自分が強制的に引かされる
8力 2枚カードを引き、その中から1枚を選びもう片方を破棄する 2枚カードを引き、強制的に大アルカナを、無ければ点数の高い方を破棄する
9隠者 山札の上3枚を確認し、順番を操作できる 自分の手札を山札に戻し、山札をシャッフルした後に同じ枚数を引く。
10運命の輪 手札を1枚捨てて1枚再ドロー 互いに自分と相手の手札1枚見ないで選び交換する
11正義 点数が偶数なら+1、奇数なら−1 点数が奇数なら−2、偶数なら−1
12吊るされた男 このターンは双方の点数変動が無くなる 2枚追加でカードを引く
13死神 相手の任意のカード1枚を破棄させる 相手が自分のカードを1枚選んで破棄する
14節制 任意の1枚の点数を±1できる 引いた時点での自分の点数を倍加
15悪魔 相手のカード1枚見ないで選んで奪う 相手が自分のカードを1枚見ないで選んで奪う
16塔 相手の使用していた大アルカナがあればそれを任意でこちらが使用可 自分の使用済効果1つを再発動させる
17星 次に自分が引くカードが正位置になる 次に自分が引くカードが逆位置になる
18月 相手の現時点の点数を半分にする 自分の現時点の点数を半分にする
19太陽 自分の点数を+3 相手の点数を+2(自分は変化なし)
20審判 相手のカードの正位置逆位置を全て反転する 自分のカードの正位置逆位置をすべて反転する
21世界 引いた瞬間即時勝利 引いた瞬間即時敗北
「ああ、もちろんこの勝敗を皆様もお好きにベットなさいませ。賭け事も、ただ傍観するだけではつまらないですもの、皆様も思い思いにお楽しみくださいませ!」
その言葉と共に、周囲の貴族子弟たちも思い思いに賭けを始める。
中にはセルジュやサイラスに激励を送るために声を掛ける者も現れた。
「王太子殿下こそが打ち勝ち、次代の王となるでしょう!」
「ダルシャン公爵令嬢のような方が王妃になるなんて、到底ありえませんわ。ぜひ真なる愛を勝ち取ってくださいませ!」
「ダルシャン嬢、どうかご武運を!」
「殿下、今の手持ちを全部賭けました。負けたら帰りは徒歩になるから頼んだぞ!」
いい気な物だな。この野次馬どもめ。
内心そう毒を吐きながらセルジュにサイラスが向き合うと、そうだ、と彼女はポンと手を叩く。
「公平を期すために、この山札の検品とカード配りはティップネス嬢にお願いしましょうか」
「えっ!?」
まさか自分が巻き込まれるとは、全く思ってもいなかったかのようにラベンダーが素っ頓狂な声を上げる。
「新品の封を切るとはいえ、このタロットカードの出どころはこの私。であれば公平を期すために、検品はエルステッド様のサイドにご依頼しバランスを取ってしかるべしでは?」
セルジュの何とも尤もらしいその説明に、サイラスもまた力強く頷く。
「分かっているならばそれでよい。ラベンダー、お願いできるか?」
「わ、分かりました……」
セルジュからタロットカードを受け取ると、ラベンダーは隅々までそれを検品しはじめた。どこかに細工はないか、触感はおかしくないか、裏面の絵柄はおかしくないか、何か特徴的なにおいとかは……
「……問題、ありません」
「素敵ですわ。それでは始めましょうか。今回はディーラーがいないので、アップカードとかは無しにしましょうか。お互いに交互に引いて21に近い方が勝ち。殿下がベットするのは婚約の円満解消の権利、そして私がベットするのは慰謝料……そうですね、手始めに金貨五千万枚とかいかがでしょう?」
「ご、五千万!? 貴様、正気か!?」
ざわりと、動揺が広がる。
無理もない。たかが学徒では到底出ない金額だからだ。
「ええ、それは勿論」
「親のお金とかじゃないだろうな」
「まさか。私だって幾つかカジノを経営しているのです。これくらいのお金はポケットマネーで出せますよ。それに、はした金では賭けた気になりませんもの。それとも何ですか、貴方たちの受けてきた苦痛はその額でお釣りが来る程度のものなのですか?」
「ばっ……馬鹿を言うな! いいだろう、後悔するなよ!」
王太子の目配せで、完全に委縮していたラベンダーがおずおずといった様子でカードを配り始める。
婚約破棄するだけのはずがどうしてこんな奇妙なことになったのだろうか? と内心唸っているラベンダーを他所に、ゲームが進行する。
「では、エルステッド殿下よりどうぞ」
「う、うむ。」
サイラスのもとに配られた二枚のカードは、それぞれ小アルカナの10(正位置)とナイト(正位置)で合わせて12点であった。
(悪くない)
10以外を引ければ正位置でも逆位置でもとりあえずは問題が無い。絵札が10点というルールでもないし、極めて安全圏だ。
ちらりとセルジュのほうに目をやれば、彼女はいつも通りの薄ら笑いを見せているだけ。
「ドローだ」
力強く宣言すると、ラベンダーが山札より一枚のカードをサイラスへと渡す。
サイラスがそのカードを手に取るとそれは大アルカナ『力』の正位置であった。
「ふむ。大アルカナは即時発動だったか。この場合は、なんだったかな」
「力の正位置ですね。殿下が2枚カードをドローし、好きな一枚をお手元に残して要らないほうを破棄できます」
「ほう。随分と強い効果じゃないか」
「それこそがこの『運命のブラック・ジャック』の醍醐味ですわ。大アルカナは自分や相手のカードや点数に干渉することができる。ここがトランプとは違うところです」
更に二枚のカードが彼の手許に配られる。
めくるとそこにあったのは正位置の小アルカナの6、そして逆位置の皇帝だった。
(難しいな……)
6。
可もなく不可もない。4以上で敗北するが、大アルカナカードや逆位置の事も考えるとまだ踏み込めるか。
でも反対に皇帝の逆位置はマイナス1だ。21を目指すのに、ゴールが遠のく。
だが言い換えれば、安全圏が広まるとも考えられる。今12点なのでそれが11点になると、10でブラック・ジャックだ。バーストする可能性はなくなる。安全圏を確保したいならば逆位置の皇帝だろう。だがこのゲームで10点を取れるのは10だけ……
であれば。
「皇帝の逆位置を破棄する」
そういって、サイラスは逆位置の皇帝を破棄した。
「では私ですね。ヒットしましょう」
ヒット、と言われてこてんとラベンダーが頭を傾げると、ドローの事ですわよ、と彼女は短く補足した。
「あら、『節制』が逆位置ででてしまいましたので、点数が二倍ですわね」
点数が2倍。10以上あったら即座にバーストして負けてしまう命取りの爆弾に、ギョッとする。しかしそれを宣言しても彼女は平然としている。つまり、少なくとも彼女のカードは合計10以下。つまり20か、18か、16か……6とかの可能性もある。
「私ったら、欲しいものは何でも手に入れる強欲さが出てしまったのかしら。節制の逆だなんて?」
公爵令嬢の自虐ネタに、彼女の取り巻きの令嬢がそんなことないですよとフォローを入れつつも笑って見せた。
この段階では、まだまだ和やかな雰囲気だ。
「さあ、殿下のターンですよ。」
「ドローする。ラベンダー、頼む」
ラベンダーが頷き、カードを一枚配って見せる。
そしてそのカードを受け取ったとき、サイラスの顔に笑みが宿った。
「君の番だ」
「あら。自信がおありなのですね。ではこちらもヒットしてみましょうか」
ラベンダーが再度、セルジュにカードを渡す。
「そうですわねえ……私はステイですわ。殿下はいかがなさいます?」
「いいだろう。勝負だ!」
カードがオールオープンされる。
セルジュのカードは小アルカナの3と5、そこに『節制の逆位置』で点数が16点となったところに、小アルカナの2……併せて18だった。
対するサイラスは10と2の正位置、6の正位置、そしてクイーンの正位置……つまり3。
ぴったり21だった。
サイラスの脳が、一瞬動くことを辞めた。
時が凍えたかのような錯覚が、場の全員を駆け抜けていく。
「や、やった……! やったぞ!!」
「サイラス様!!」
ようやく事態を理解した途端、ワッと一気に会場が歓声で包まれ、大きく盛り上がる。完全にセルジュの負けだった。
広場の中には掛け金が増えたことで一喜一憂する者、抱き合う王太子と子爵令嬢、そしてその二人に優しい笑みを浮かべて拍手を二人に贈るものがそれぞれあった。
「おめでとうございます殿下。これでお二方は真に愛で結ばれた者同士よ。しかもちょっとしたお土産付き」
「……セルジュ様? どうして、笑っていられるの……?」
そう。最後の拍手を贈り祝福までして見せたのは、負けたはずのセルジュその人であった。
「あら、一応は心からの祝福ですのよ? どのみち政略結婚だったのですから、別に私自身が殿下に思うところは特に御座いませんもの」
「お前……」
(こいつは心から俺のことを欲していた。身も心も、何もかもを。何故そんなことをこの期に及んで言う?)
思わずといったようで、サイラスがその発言を訝しんだ。
セルジュが確かにサイラスの事を愛していたことを、彼は知っているからだった。
その愛し方は偏執的で、病的なもの。
どこまでも束縛し、自由を許さないような、重たい愛。
その愛が残っているから、彼女は自分が負けたら慰謝料をもらう、ではなく、別れない、などと言っているのだ。
……要するに、彼女はある種のヤンデレのようなものなのだ。
手放すつもりなど、最初からないのだ。それなのに。
「ところで殿下、次はどうなさいますか?」
思案に耽っていた所で、セルジュの声がサイラスの意識を歓声の鳴り止まぬ広間に押し戻した。
「次……?」
「ええ。せっかくですもの、ダブルアップチャンスとかはいかがですか?」
その爆弾発言に、浮かれていた広間が一瞬で完全に沈黙した。
ダブルアップチャンス。すなわち、また勝てば二倍という事。また勝てれば、の話ではあるが。
「お前が負けたら、どうするつもりだ」
「あら、その時は一億金貨、耳を揃えてお支払い致しますわ。現金で」
そう言って彼女が手を叩くと、鈍色のいかにも頑丈そうな宝箱のようなケースが、黒服2人がかりで広間へと運ばれていく。
彼女が目を閉じて頷くと、呼応するように黒服の男たちがその宝箱を開けた。
眩いばかりの黄金の輝きが、周囲を照らす。
その様に、周囲が騒然となるのも無理はなかった。
一億とは、よその国であれば国家予算に匹敵する額だったからだ。
「ま、マジかよ……」
「本当に一億出す感じかこれ……」
「わたくし、あんな大金の量は流石に初めて見ましたわ……」
強い同様が走る。
魔性の煌めきが辺りの正気を奪っていく。
「……お、俺が負けたら?」
「まあ、そうですわね。私が今五千万負けているので、それと相殺して慰謝料無しというところが着地点でしょうか。流石に婚約解消はなしというのは、本当に『節制』の逆位置みたいですし?」
負けても慰謝料が無くなるだけ。勝てば慰謝料二倍。国家予算級の慰謝料が、王家に……いや、サイラス個人に転がり込んでくる。
そもそも、自分は真実の愛を貫くために、こうして無理筋な婚約破棄を決行したのだ。お金なんて別になくとも良い。無くても良いのだが、あるならあるに越したことは無い。そう。ある分にはいくらあってもいい。元々は無くていいつもりだったのだから。何の問題もない。むしろ、こちらに利益しかない。そう、これは決して欲ではなく、リベンジマッチを望む彼女に対する慈悲からしていること。仕方なく応じてあげるのだ。
そう自身を納得させたサイラスが、再び席に着く。
ラベンダーも既に満面の笑みだった。
そしてそれは、セルジュも同様であった。
◇
サイラスに回ってきたカードは、小アルカナのキングの逆位置(4)、そして小アルカナの7の正位置だった。
次はセルジュから先に、とサイラスが勧めると、そうですかと小さく彼女は言い、ヒットと言葉を続けた。
そしてカードを受け取りと、ニヤリと不気味にほほ笑んだのち、そのカードを裏返した。
「『星』の正位置です。点に煌めく星々を味方につけた私が次にドローするカードは、必ず正位置となる」
「むむっ」
強いカードだ。
もしまた大アルカナのカードを引かれたら、こちらが窮地に陥りうる。仮に『世界』を引かれたら無条件勝利だ。
でも例えば彼女がもし今12以上とかで、正位置の10とかを引いたら彼女がドボン。逆位置ならそんなことは無いのに。
そう考えると、正位置のカードであっても必ずしもほしいとは限らないのだな、と一人内心で感心するサイラスであった。
ラベンダーからカードを受け取る。
その時、思わず額から一筋の汗が流れた。
逆位置のつるされた男だった。つまり、更にカードを二枚引かされる。今あるカードが、もっと弱ければ歓迎もできたが、これは。
「吊るされた男の逆位置ですか。ではどうぞ引いてくださいませ」
今の点数は11。10が一枚でも来たらそれ以上点を重ねたらアウト……あるいは5と6とかになっても……いや、待て。逆位置ならセーフか。逆にここで上手く点を詰めることができれば、有利な状況になれるのか?
いろいろと思考がサイラスの頭を過ぎる中、一枚目がラベンダーより配られる。
引いたのは小アルカナの8。正位置。
(まずい)
数字が思っていたよりもデカい。次に1か2を引かないとアウトだ。もしくは点数操作系の大アルカナで点数調整をするか。逆位置の小アルカナで調整できるか。
明らかに顔色が悪くなった事でセルジュが笑みを浮かべていることなど露知らず、一瞬祈るような気持ちで二枚目のカードが差し出されたとき、サイラスの恐怖は一気に安堵へと反転して見せた。
(逆位置のエース……!)
1点だ。つまり合わせて9点。合計で20点。先ほどよりは弱いが、かなり強いカードになった。
「では私の番ですね。ヒット」
ラベンダーが不安そうな眼付きで、セルジュにカードを差し出す。
対するセルジュの表情は読めない。相も変わらずの薄ら笑みだ。
「――月の逆位置です。でも先ほど『星』を引いているので、強制的に正位置として扱い、殿下の点数は半減といたします」
「なっ!?」
ギリギリでこらえた数字が、半分の価値にまで下がる。一気に10にまでなってしまい、焦りが生まれる。
これでは勝てない。また追加で引かなくてはいけなくなった。
「では殿下、どうぞ」
「チッ!」
「先ほどから顔と態度に出すぎですよ、殿下」
「うるさい! ラベンダー、ドローだ!」
焦りからか、僅かに声を荒げる彼に対して、ラベンダーは不安そうにカードを配る。
(くそっ!正位置の7か。一番微妙な数字じゃあないか!)
「では私もヒット」
優雅な手つきでカードを受け取ると、セルジュはじっとサイラスの目に視線を重ねた。
「ステイ」
「……引かないのか?」
「ええ。殿下は、いかがなさいますか?」
17では正直、微妙だ。でもあの女の余裕は何だ。何故あんな澄ました顔でいられるのだろうか。この勝負に負けたら、一億もの金貨を払うのは彼女なのに。国家予算だぞ!? もしや、もっと強いカードがあるのだろうか。
普通のブラック・ジャックと比べると、点数の積み重ね方はやや遅くなる。点数マイナスとかの概念が存在するからだ。であれば、まだ積み増しできるか?
悶々とするサイラスの考えを手に取る様に理解できてしまう程度には、サイラスの整った顔は白黒赤青と目まぐるしくその色を変えていく。
(少なくともポーカーフェイスはだめそうね……)
そう内心でほくそ笑むセルジュを他所に、チラリと美しい黄金に目を向けたのちにようやく腹を括ったサイラスがカッと目を見開く。
(ここは、勝負を仕掛ける時だ!!)
「ドロー!!」
彼の背後で観客に徹していた貴族子弟たちがおお、と感嘆の声を漏らす。
そしてラベンダーが一枚のカードを、テーブルの上を回転させながら滑らすように差し出した。サイラスはそれを捲って見せた。
「あら」
「なっ……!」
そこにあったのは大アルカナの21番。『世界』の逆位置だった。
引いたものに強制敗北を齎す、必敗のカード。
「ばっ……馬鹿なあああああっ!!」
「まあ、残念でしたわねえ殿下。これで慰謝料は相殺ですわね」
何とも淡白なセルジュと対照的にどよめきが巻き起こる。いや、どよめいているのはサイラスに賭けていた者たちで、セルジュに今回賭けていた貴族たちは逆転勝利に沸いていた。
「よっし! これで馬車代が出る!!」
「手に汗握る熱い戦いでしたわ」
「賭け事なんてはしたないと思っていたけど、はまってしまいそうだわ……」
さりげなく今後のカモが増えそうだななどとほくそ笑むセルジュをしり目に、サイラスは地団太を踏んでいた。
「~~~~~! あと少しだったのに!!」
「まあでも婚約解消にはなっていますから、結果オーライですよ殿下」
「そうそう。俺なんてさっきよりも多く賭けちゃったから当分ダイエット生活ですよ、ははは」
「さ、サイラス様……」
サイラスの取り巻きが宥めているのか煽っているのかよく分からないことをしている中で、ラベンダーが前へと出た。
「ラベンダー。すまない、せっかく勝てていたのに、一億を逃してしまった……!」
心の底から悔しいと言わんばかりの声が、サイラスから絞り出される。無理もない。途方もない金額だったのだから。
「いいんです、サイラス様。私はサイラス様がいれば、それでーー」
「――ではもう一戦やりますか?」
それは正位置に収まっていると思われる狡猾なる悪魔のささやきだった。
はっとした様子で振り返る先には、相変わらず薄ら笑いを浮かべる元婚約者。
「一億。賭けてもいいですよ」
「ほ、本当か!?」
「ただし今度殿下が負けたら、もう殿下から取り返すものはありませんので、婚約解消をナシとさせて頂きます。もちろん、降りて頂いても宜しいのですよ? 既に現時点では婚約は無効なのですから。一億はありませんが、殿下は目的を果たされたはずです。真実の愛と共に、末永く幸せでいられる権利はすでに殿下の物です。そこに一億はありませんが」
一億金貨という言葉は、耳にするだけでもまばゆい。
目を閉じても幻視してしまう。国家予算規模の黄金が、自らの目の前に転がる様を。王宮の自室に散乱する様を。
真実の愛と共に生きるという目標は確かにもう達成している。本当ならもう相手する必要はない。
でも、その半分の五千万金貨は、ほんのひと時前まで自分が握っていたものだった。五千万。国家予算には心もとないが、どこぞの領の予算としてならば十分に巨大だ。その五千万を、取り戻したい。だってあれは、本来ならば慰謝料なのだ。受け取る正当な権利がある。
だが、今度こそ負けたら、あのセルジュ・ダルシャンに囚われてしまう。それは、避けたい。
セルジュという女は、歓楽街の女帝なのだ。この国の欲望と闇を一身に引き受ける、国家の恥部。恥部の女王。痴女のようなものだ。そうサイラスは考えていた。
「……」
確かに、ダルシャン領はその歓楽街ビジネスで、莫大な量の税金を国庫に納めてきた。ダルシャン領がひと手にこの国の汚点を引き受けてくれているおかげで、他の領ではならず者が湧くことも無く、不良少年少女が皆誘蛾灯にでも引き寄せられるが如くダルシャンに集まるために他は大変治安が良い。必要悪であることは、いくらサイラスと言えどそれは承知していた。
しかし、暗黒街ダルシャンの究極の権力を、王家の手中に収めるためにサイラスはその痴女に自らを差し出すという事が、受け入れられなかった。
何故自分が。この国の王となる者が。このような痴れ者の贄として差し出されなければならなかったのか。
それに、この女はどこまでも自身の持つ力を認識し、暴風のように振り回す。彼女の前では、どんな障壁も意味はない。ただ素通りするだけで、あらゆる障害物は吹き飛ばされ、あらゆるものが頭を垂れる。だって彼女は暗黒街の継承者。あらゆる秘密をも握っている一族の愛娘。願うものは何でも手に入る。
しかしただ一つだけ手に入らないものでいたのがサイラスだった。だからこそ彼女は興味を抱き、執着した。
王家は絶対的な力が欲しかった。彼女はサイラスを欲した。利害の一致した政略結婚だった。
冗談じゃない。
どうするか途方に暮れていたころに出会ったのがラベンダーだった。
天真爛漫でころころと笑顔を浮かべる様は、砂漠のオアシスのようだった。
ささくれ立った毎日における、唯一の癒しと言ってもいいものだった。
そんな彼女が、サイラスを見つめていた。
「……」
彼女を幸せにしたい。彼女と幸せになりたい。そして、彼女の前では最高の男でありたい。
その思いが、彼を突き動かしたーー
「分かった。もう一戦、やろう」
――もちろんそれは全てきれいごとで、心の奥底では一億に目が眩んだだけなのだが。とりあえず再三サイラスが席に着く。ニッコリと笑みを浮かべたセルジュもまた、席に着いた。観客は大盛り上がりだ。
ラベンダーとセルジュの視線がここで、初めて交わった。ラベンダーがふと視線を逸らすと、二人にカードを配り始める。
「今度は俺からでいいか」
「ええ、もちろん」
「ならばドローだ」
始めにサイラスの手にあったのは10の正位置とペイジの正位置。合わせて11点だった。引いたカードは逆位置の小アルカナ8だった。一点減点で10点がサイラスの手持ちだ。
次は取りあえず安全圏であることにひとまず安堵したサイラスだったが、ここで予想外の事が起きた。
「まあ、魔術師の正ですわね。さてどれを反転させましょうか……」
セルジュが魔術師を引き当てた。慌てて効果を確かめると、セルジュが一枚サイラスのカードを見ずに選び、その正逆を反転させるというものだった。
10が反転すればマイナス1点に。ペイジが反転すれば0点に。だが逆位置の8が反転すれば、正位置となり一気に19点になり得る。正しく諸刃の刃のようなものだった。
(頼む……8を選んでくれ……!)
心臓がバクバクと音を立てる。これで8になったら、一気に勝利に大きく近づくことになる。
心臓がその稼働率を上げたことで、一気に頭に流れる血流が増えていく。血液が増えて、熱量が増えて、その結果として額に汗が流れる。脳が動くことで新鮮な酸素を欲しがり、呼吸が荒くなる。
セルジュの指はゆるゆると右往左往しており、完全にサイラスのリアクションを楽しんでいた。しかしサイラスにはもうポーカーフェイスをする余裕なんてない。おちょくられている自覚も全くない。目の前の金に対する欲望と、祈りが脳内を埋め尽くしていた。
「ん~……それではこれにしようかしら?」
やがてセルジュが指さしたのは、10の小アルカナであった。
残念ながら、8ではなかった。
反転されたことで点数が下がる。一気に0点になってしまった。
「くっ……! ま、まあいい、まだ試合は続くのだから」
「あらあら、殿下。心の声が丸聞こえですよ」
クスクスと嗤うセルジュを無視し、ラベンダーからカードを受け取るサイラスは頭を高速回転させていた。
(これは……キングつまり4点か。微妙だが、まだいける。だがセルジュのカードが、分からない。どうなっているんだ)
次にセルジュがカードを引く。特に何も言うことも無く、彼女はサイラスにカードを引くように促した。
(ええい、じれったい! くそっ!)
そしてラベンダーから差し出されたカードは『恋人』の正位置。
「あら、恋人だなんて。まるで私たちのよう……いや、今現時点ではわたくし破棄された状態でしたわね、失礼……」
「だ、黙れっ!」
淡々とカードを引くセルジュの様子から、おそらくはまだバースト圏内ではないとサイラスは予想していた。そしてそれは当たっていた。
セルジュが持っているカードはエースの正位置と、小アルカナ4の正位置、そしてキングの逆位置を握っていた。合わせて5点。点数調整に使えるエースを引ければ、大きく有利になれるだろう。
しかしカードはサイラスからは見えない。次に指を右往左往させるのはサイラスの番だった。しかしその手は僅かに震えていた。
やがて彼が指定したのはキングの逆位置。-10点という、ある意味すごいカードだった。次に彼女に渡すカードについてだったが、そこでサイラスはひらめいた。そしてサイラスが手放すことにしたのは、キングの正位置。
(これでマイナス12点……言い換えれば、少々点数が増えても問題は無いし、好きなだけカードを引き放題だ……!)
あえて点数を大きくマイナスに振り切らせて、大アルカナカードで逆転を狙うことにしたのだった。
「あら、なかなか興味深いことをしますのね。私は……さてどうしようかしら?」
ここで初めて、セルジュが悩む仕草を見せた。エースと4とキングの4で19点。または、9点。悪くない数字となったからだった。
しかし、彼女は腐っても博打稼業で稼いできた女。
「ヒット」
手でトントンとテーブル叩く仕草を見せたことで、彼女の手札を後ろから観客として見ていた貴族子弟たちが大きくどよめく。
あまりいい手ではなかった。19であれば、止めるのが安牌という奴だろう。しかし彼女は勝負師であった。安牌に胡坐をかくのではなく、徹底した勝利を彼女は求めた。
求めてしまった。
(な、なんだ今のは)
どよめきに圧されて、少し落ち着いていた呼吸が、また早くなっていく。
そして彼女は目配せをすると、ラベンダーがカードを差し出す。くるりと回って彼女の前に差し出されたカードをめくると、セルジュは薄ら笑みをまたその顔に張り付けた。
「女帝。正位置。貴方の次のヒットを、逆位置に指定します」
相手の次のドローを任意で逆位置に固定できるというカードだった。任意というところがポイントで、やらせなくても問題はない。しかし、敢えて彼女はそれを行った。
「では殿下、カードを引かれますか?」
彼女の問いかけに、サイラスはああ、と頷いた。
どのみちマイナス12点なので、世界をまた引かない限り基本的に問題はない。どうせ78分の1だし、それを再度引くなんて……
そもそももう点数がマイナスの域に入っているので、点数が更に減っても問題なんて無い。むしろもっと沢山のカードが引けるようになってお得な位だ、と。そう判断し何気なくカードを捲った。
出たカードを見て、初めてセルジュはそのポーカーフェイスを大きく崩した。
その表情は、愉悦一色。昏い愉悦に満たされた、どこまでも邪悪な笑み。
「正位置の審判。ふふっ、ですが女帝で指定しているので逆位置ですね……?」
女帝の指示で、その審判が裏返る。
「はあっ……!?」
全てのカードが、正と逆の位置を入れ替えていく。
10の逆位置、8の逆位置、そしてキングの逆位置が、全て正位置に動いていく。
マイナス12点で怖いものなしだった点数が反転し、正の数へと振り切っていく。
サイラスは、事ここに及んでもう一つだけ、自分が破滅し得るカードが存在していることを、忘れていたのだ。
それが、『審判』だった。
そして審判は、今下された。
「殿下……いえ、サイラス様。私は、いつまでも貴方様をお慕いしております」
サイラスの今の点数は22点。
バーストだった。
「なっ……なっ……!?」
「残念でしたわね、ティップネス嬢? 婚約解消は、無かったことになりました」
「あっ……あああああっ!!!」
サイラスが自らの頭を押さえ、膝から崩れ落ちる。
「う……嘘だぁぁああぁあぁああああ!!」
その鮮やかな逆転劇に、誰もがスタンディングオベーションを贈った。
婚約破棄からの超展開でいつの間にか婚約者同士がギャンブルに興じているのはよくよく考えると訳の分からない構図だったな、と観覧者たちはやがて回想するのだが、何はともあれ今は会場を包む謎の熱狂が、それをすべて覆い隠していた。
「――いかがでしたか? 皆様。私たち夫婦の催し物は!?」
声高に宣言したセルジュの表情には、甘い快楽が迸っていた。
ざわめき立つ貴族子弟に、セルジュはさらに続ける。
「学生として楽しめる最後の夜会に、何か記憶に残るようなものは無いかと共に思案して、思いつきましたのです。恋物語のような婚約破棄劇を! ……まあ、『運命のブラック・ジャック』はわたくしのカジノでいつでもできますので実はこれはただの宣伝なのですし皆様ももう卒業されると大人になるので、半分マーケティングなのですが……お楽しみ頂けたのなら幸いです」
共に思案した。
その言葉に、そうだったのかぁ、2人してなかなか考えるなあ、等と一同が熱狂で呆けて納得する中、セルジュは完ぺきなカーテシーを行い、最期にこう締めくくった。
「皆様と共に学園生活を贈れたことは、わたくしたちの誇りでございます。どうかこれからも、この国をより良いものにするために、ともに切磋琢磨致しましょう! 本日は、本当に、本当にありがとうございました!!」
放心し四肢を床に付けたままのサイラスの事など、誰も見てはいない。
静かに立ち尽くすラベンダーの事も同様だった。
ここに、ダルシャン劇場は万来の拍手と共に終焉したのだった。
◇
夜会が空けていく。
撤収作業に入った学園のスタッフがウロウロとする中で、王太子は依然として四肢をついていた。
「サイラス様……」
ラベンダーの声が彼に鼓膜をそっと叩いたことで、ようやく放心していた男の脳が再起動に入る。
やっと見上げた先にいたのは、自らの瞳の色に合わせるべく渡したドレスの一部。
「私、サイラス様……いや、殿下との思い出を、決して忘れません……大切な学園生活の一部として、ずっと、心に刻み込んでおきます……」
「待って……」
「だから、殿下……ありがとう。そして、さよなら……!」
「待って……待ってくれ! ラベンダー! 行かないでくれ!! ラベンダー!!!」
慌てて手を伸ばすも、彼女は既に振り返っており出口へ向かってそのヒールを鳴らしていた。
コツコツチャリチャリと、音を立てながら。
「サイラス様……この度は、残念でしたね?」
そして次に聞こえたのは、甘い毒が背後に忍び寄る音。
「せ、セルジュ……」
「殿下はわたくしの物。誰にも、何者にも渡しませんわ……!」
にィっ、と極悪な笑みを浮かべるセルジュに恐怖し、腰が砕ける。
力の抜けた足をばたつかせながら必死に後ずさりする彼に、セルジュは更に恐ろしい真実を告げた。
「IR産業におけるショーというのは業の深い物で、基本的にやればやるほど赤字になるものなのですよ。世界最高の歌劇だろうとサーカスだろうと、必ず赤字になります。それでもショーをするには理由があります」
それは、カジノに客を呼び込むための盛大な広告。
カジノに人を呼び込むために、赤字でもショーを開催するのだ。これは世界共通の常識。
ショーの前後にカジノに寄ってもらって、少しでもお金を落としてもらうためにするのがショーだ。物販があったとしてもそのそばにカジノがあれば、じゃあついでに寄ってみようかという気にもなる。
憧れのアーティストのショーや素晴らしいサーカスの見世物で気分が高揚していれば、理性が弛みそこで賭博でお金を落としてくれる。
そこで勝ったり負けたりすれば更に興奮し、勝ちを増やそうと負けを取り戻そうと更に理性を溶かして、お金を溶かしていくーー
「それは、夢を皆様に与えるということ。いかがでしたか? 貴方に見せた、儚い夢の心地は?」
「くっ……貴様……、……!」
「浮気は結構ですが、本気はいけませんよサイラス様。私だって人の子、嫉妬の一つや二つ位はするのですよ……?」
サイラスは、決して愚かな男ではなかった。正攻法で行けば、絶対に彼女からは逃れられない。だから水面下で婚約破棄に向けた準備をしていた。
「いつから、気付いていた……この婚約破棄については、俺とラベンダーと父上しか知らなかったはず……!」
「いつからも何も、その陛下から報告があったのですよ。さっき倅から婚約破棄の打診があったがそれはまことか、と」
「何!?」
それは青天の霹靂だった。
「私も寝耳に水でしたが、せっかくですのでその場ですぐに今回の計画に思い至りまして。それは婚約破棄ではなく婚約破棄劇で、卒業される皆様の最後の思い出としてわたくしとサイラス様が共に計画した劇であると申し上げました。そしてそこでギャンブルをすることで我が領の税収アップに貢献していただく、とお伝えしたら陛下は快諾してくださいました」
「なっ……そんな、馬鹿な! もし俺が勝っていたらーー」
「ええ、ですから計画を全うするためにティップネス嬢を買収しました」
「え」
あっけらかんと言った彼女に、思わず目が点となった。
今この女、何といった……?
「ですから、手切れ金代わりに報酬五千万であの子爵令嬢を買収しました。契約書もちゃんとお互いに保持しています」
「は??????」
「サイラス様もお茶目ですわね。そんな都合よく世界が出たり審判が出たりするわけがないではありませんか。あんなのラベンダー嬢に仕込ませていることぐらい考えればすぐに分かることでは? 言ったではありませんか、共に思案した、と」
共に。
ラベンダーと共にということか。
「なっ……なっ……っ!?」
頭が真っ白となったサイラスに、思わずと言ったようにセルジュがため息をつく。
「いいですか、サイラス様。ギャンブルとは、必ず胴元が儲かるようになっているのです。今回のディーラーは実質的にあの子爵令嬢でした。であれば儲かるのはあの小娘に決まっているではありませんか。正位置だの逆位置だのだなんて、カードを配る時にくるりと回してお渡しすれば良いだけなのだからいちばん簡単です。もはやイカサマと呼ぶのもおこがましいようなテクニックですよ?」
そう言われて、思い返す。
世界の逆位置を引いた時、カードはテーブルの上を滑るようにくるりと回って差し出されていた。
同じくセルジュが女帝を引いたとかも、カードは回転しながら差し出されていた。
その事実を知り、恐怖から全身が震え始めた。
奥歯がカチカチと鳴るが、なんとか反論を絞り出す。
「で……でもっ! 俺が勝っていれば、五千万……いや、一億が手にーー」
「でもそれって、サイラス様との山分けですよね? 二千五百万なら私の提示した額より少ないですし、一億とか軽々しく言いますがちゃんと五千万ずつ分配なんてしましたか?」
「や、やるに決まっているじゃないか! それなのにどうしてーー」
「まあ、独りで総取りする方が確実ですからねえ……」
いけしゃあしゃあと軽く言ってのける彼女に、彼はいよいよ絶望した。
「サイラス様」
一億を前にして正常な思考を出来る人はそう多くありません。
ましてやサイラス様の目が眩むのをその場で目撃して、信じるというのはなかなか難しいこと。疑う事の方が、信ずる事よりも、ずーっと、簡単なのですよ?
「あっ……ああっ……」
「大体一億なんて大金をお渡しして、私が放っておくとでも? おふた方をカジノにご招待して利子付きで搾り取り返すに決まっているではありませんか。ま、搾り取り返すのは彼女が独り五千万貰った今の状態でも変わりませんが……」
おほほ、と小さく笑った事で、遂に何かが切れて、サイラスは仰向けに会場の床にどさりと横たわってしまった。
「あ……、……っ……」
「王家と公爵家への信用も、婚約破棄ではなく婚約破棄劇にした事で、ダメージがゼロになりました。喪った五千万も間もなくカジノで回収出来ることでしょう。万事が上手く行きました。うふふ、全てはサイラス様のお陰ですね?」
それは、王家すらも知りえない、彼と彼女の間の絶対的な力関係を意味していた。
サイラスは二度と、セルジュには頭が上がらなくなるだろう。
しかしこれは、セルジュ側も賭けであった。
ラベンダーが裏切らなければ勝てなかったからだ。ラベンダーが実質的なディーラーをするのは事前に決められていた。だからこそ、彼女に手札操作をされていれば敗北は必至だった。だからこそ入念に工作をした。疑心を煽った。五千万という釣り餌をぶら下げた。
そして彼女はギャンブルに勝ったのである。
「……俺の、心まで奪えると思ったら……大間違いだ……!」
「まあ、ここまで心をへし折られてもまだそう言えるだなんて。ですがサイラス様、私はサイラス様のそういう所を、お慕いしておりますわ」
「……黙れっ……!」
この女に屈してなるものか。
今回は負けたが、いつか必ず。この女から逃げてみせる。
「愛しておりますわ。サイラス様……うふ、うふふふふっ……!」
サイラス・エルステッドが陥落するまで、あと少し。
※なおこのあとラベンダーの報酬五千万はきっちりカジノでスられ回収されました。