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億年後でも

作者: 日々野

 広漠とした空を見上げている。

 雲が白く、抜けるような青天を、形を変えつつ悠然と流れていく。

 ナディアは足を止めた。そして地平を見通した。大地は、なだらかな草原である。青々とした草が風で揺れて、さらさらと、ふわふわと、太陽の光を浴びて輝いている。天の青と、地の緑の、鮮やかな対比であった。

 くしゅん、と音がした。

 ナディアは視線を落とした。露草が咲いている。座り込み、覗き込んだ。露草は、ちんまりとした青の花弁を二度三度、閉じたり開いたりした。おじぎのように茎を曲げると、大きく伸びをした。

 それから、か細い声で、こんにちはと挨拶をした。

「どこから来たの」

 と、露草は尋ねた。

 ナディアは、はたと返答に詰まった。

 分からないのである。だけでなく、長らくこの地をさ迷い続けた彼女は、相手から聞かれる今の今まで、それを考えたことがなかったのだ。

(ここはどこだ。私はどこへ行くのか。何をしているのか)

 今更めいた疑問を抱いた。思えば、奇妙な感覚だ。脳裏は、昏睡から覚めたように極めて明瞭だ。そのくせ虚ろなのだった。何も思い出せない。ナディアは、自身の名前のほか、全ての記憶を失っていた。

「私は、人を探しているの」

 露草の方が、先に身の上を明かした。

「ここにいるはずなのだけれど、存外、広いものね」

 その探し人とは、花びらとなり、どこかを舞っているらしい。ナディアは周囲を見渡した。果ての見えない大草原だ。露草は、ここでたった一人を見つけ出すと言う。何と途方もないことだろう。思わず嘆息が漏れた。

「恋人ね?」

「ええ、まあ」

 露草は言った。

「けれども世間が許さなかった。やむなく別の人と婚約を」

「では、駆け落ちね?」

 ナディアはにやりとした。これから、男女が手を取り合い、ともに行方を眩ます。そのしめやかな待ち合わせ場所としては、素晴らしく幻想的な地であった。そのようなものだと、露草は答えた。

 ナディアは人探しを手伝うことにした。宛てなく歩き回るよりはずっとよかった。それに、己の境遇も思い出すきっかけになるかもしれない。

 ナディアは露草を摘んだ。再び、彼女は歩き出した。

 柔らかな土を踏み、背の高い青草をかき分けながら、果ての見えない道なき道を行く。時おり、強い風が吹き通る。赤、青、黄と、色さまざまな花びらが群れを成して、くるくると身を翻しながら飛んでいった。そうした風の一群をいくつも見送った。露草の言う探し人とは、きっと、あのようにしてこの地を巡っているのだろう。

(彼の方こそ、皆目見当もつかないに違いない)

 と、相手の男の心境をも考えると、二人の行き違いに胸が痛んだ。

 やがて小高い丘に辿り着いた。

 ただの丘であれば取り立てることはない。ナディアの足を向けさせたのは、そのいただきに根を張る樹であった。枝張りは天高く、見上げるほどの身の丈だ。大木が一本だけそそり立つ光景は、高低の少ない平地においては一際目を引く存在だった。ナディアはその根元に歩み寄ると、

「こんにちは」

 と、話しかけた。

 大樹は豊かな枝葉を震わせた。そしてため息をつくように口を開いた。

「ここで何を?」

「彼女の恋人を探しています」

 と、ナディアは露草を胸元に掲げた。

 ほう、と大樹が息を吐いた。

「何と言う人物だい?」

「名前は」

 そう言えば、まだ彼の名を聞いていなかった。ナディアは露草を見下ろした。だが、花弁は沈黙している。おや、と思った。

「ええと、名前は」

 そのときだ。

 とある人物の名が脳裏に浮かび上がった。

 本当に突然の出来事だった。まるで雷に打たれたかのように、克明に、鮮明に、それが現れた。ナディアはやや呆然として立ち尽くした。我を忘れたまま、その名前を呟いた。

「ハッジ」

 と、声は掠れて吐息となった。

「思い出したな」

 大樹は言った。はい、とナディアは頷いた。

「皆が言いました。諦めろ、現世では縁がなかったのだと。私たちも思い直したのです。例え思いが届かなくても、相手がこの世のどこかで生きてさえいれば、それでいいのだと。そして別れたのです」

 ナディアは堰を切って身の上を明かした。止まらなかった。当時、心の奥でくすぶらせていた願い、恐れ、不満といった感情が、留め金を外してしまえば堪えきれず、どっと溢れ出るのだった。

 ほどなくしてハッジは世を去った。病死であった。ナディアが彼の訃報を知ったのは遠い土地でのことだ。単身、墓標を訪れた。

(この世のどこかで生きてさえいれば)

 ただそれだけの願望さえ絶たれた。という、悲境の崖のふちに立たされた思いがした。歳月が流れ、二人の憂き目を静やかに受け入れられるようになった頃、彼女は一つの考えを抱いたのだった。

(現世では縁がなかった。では、あの世でなら?)

 死後の世で再会できる。遂にそんな希望を見出したのだ。無論、誰にも告げない。というのも、その頃には彼女は既婚であった。

 ナディアは悲観に暮れることなく自らの生を生き抜いた。当時こそ不本意な結婚であったものの、夫は善良な人物だった。築いた家庭は円満だった。子は皆独立した。孫も抱いた。やがて夫は老衰で亡くなったが、親身な人々に囲まれたナディアの晩年は穏やかなもので、傍目には、誰も彼女の幸せを疑わなかっただろう。

 だがナディアは一点の不幸を抱えていた。昔に死に別れた恋人のことである。初め、恐るべき不貞だとして燃え盛った罪悪感は、次第に勢いが衰え、気がつけば追憶の静かな炎となっていた。とは言え、片田舎で親類に囲まれてひっそりと死んだ未亡人が、生涯をかけて心に炎を宿していたことなど、誰も知りえなかったに違いない。

 そうだ、私は死んだのだ。ナディアはぐるりと草原を一望した。今では、この地こそが、長く恋焦がれた死の世界であると分かる。

 愛する人間と死別した悲しみは時が癒す。それは人の心の常である。だがハッジはどうか。当時のナディアのように、彼がまだ絶望の崖に立たされたままであるならば、救い出せるのは自分をおいてほかにない。

「ご覧」

 大樹に促されて、ナディアは視線を動かした。

 風が吹くたび、くだんの花びらの一群が行き交っている。

「冥土での再会を望む人々だ。ああして花びらとなり、舞い散りながら相手を探し続けている。この途方もない地で、だ。中には、お前のように記憶を失って流浪を続ける者もいる。お前の探す恋人だってそうかもしれない。であれば、永遠に行き違う羽目になるだろうが」

 お前にそれが耐えられるか、と大樹は尋ねた。

「勿論です」

 ナディアは笑った。

 何しろ現世で出会えたのだ。障壁だらけの俗世と比べて、ここは何と美しく、穏やかで、よほど生きやすいでしょう、と彼女は答えた。

 ナディアは露草を大樹の根元に植えた。大樹はいい目印となり、いつかハッジの目に止まると思ったのだ。ナディアは腰を下ろした。

 地平線を見通していると、彼女の背に大樹が語りかけた。

「以前、お前とよく似た魂の持ち主がここへ来た」

 ナディアははっとして振り返った。

「彼もここに根を張った。丁度、そう、お前と同じところさ。そして待った。待ち続けた。……悠久の時が過ぎた。それでも待っていた。何しろ、彼は、一万年でも一億年でも辛抱すると言っていたからね。更に待った、待った……。そして、とうとう、お前が現れた」

 ナディアは立ち上がった。

 遥かに、こちらへ歩いて来る何者かの姿を見た。ナディアは目を凝らした。瞬きさえ忘れた。見間違えるはずがない。彼だ。

 ナディアは走り出した。

2010年4月完結

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