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エドガー先生と、そしてあの『お母様』が去った後、私は自分の部屋のベッドに突っ伏して、声を殺して泣いた。
悔しい。悲しい。そして、何よりも怖い。
あの人の、氷のような瞳。
優しい言葉とは裏腹の、冷たい響き。
私の全てを見透かし、嘲笑っているかのような、あの微笑み。
『そんなこともご存知ないの?』
『ヴァイスハイト家の令嬢として恥ずかしいですわ』
違う。私は、知っていたはずなのに。できていたはずなのに。
あの人がいると、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。声が出なくなる。体が動かなくなる。
まるで、冷たい蛇に睨まれた蛙みたいに。
私の心は、どんどん固く、冷たくなっていく気がした。
「……うっ……ひっく……」
このままじゃダメだ。
このまま、あの人の言いなりになっていたら、私は、私でなくなってしまう。
勉強もできなくなって、作法もできなくなって、本当に『出来損ない』になってしまう。
そうなったら、きっとお父様にも見捨てられる。
そうだ、お父様!
お父様に言わなきゃ。あの人が、どんなに怖い人か。私が、どんなに辛い思いをしているか。
お父様なら、きっと分かってくれるはず。だって、私のお父様なんだから!
あの人は、血の繋がっていない、他人なんだから!
私は、まだ濡れている頬を、ドレスの袖で乱暴に拭うと、ベッドから起き上がった。
怖い。お父様に話すのも、あの人のことを話すのも、すごく怖い。
もし、信じてもらえなかったら?
もし、あの人に知られたら、もっと酷いことをされるかもしれない。
でも、今、言わなければ、きっともう二度とチャンスはない。私は、このまま、あの人に心を殺されてしまう。
私は、震える足に力を込めて、立ち上がった。
執務室へと向かう長い廊下は、いつもよりずっと冷たく、広く感じられた。
壁に飾られた、ご先祖様たちの肖像画が、皆、私を咎めるように見ている気がする。
途中、掃除をしていたメイドたちとすれ違った。
彼女たちは、私を見ると、サッと視線を逸らし、壁際に寄って道を空ける。そして、私が通り過ぎると、何かヒソヒソと囁き合っているのが聞こえた。
『リリアーナ様、またお顔色が……』
『エレオノーラ様も、本当にご苦労なさっているわね……』
『本当に、難しいお方……』
違う! 私は、そんなんじゃない!
そう叫びたかったけれど、声は出なかった。唇が震えるだけ。
この屋敷の中で、私はもう、完全に一人ぼっちなのかもしれない。
だからこそ、お父様に、伝えなければ。最後の希望に、賭けるしかない。
ようやく、執務室の重厚なマホガニーの扉の前にたどり着いた。
心臓が、胸の中で暴れているように、早鐘のように鳴っている。
扉を叩く手が、震える。何度もためらって、それでも、私は、コン、コン、と扉をノックした。
「……誰だ?」
中から、お父様の、少し疲れたような、低い声が聞こえた。
「……リリアーナです。お父様、今、少しだけ、よろしいでしょうか……?」
私の声も、震えていた。
一瞬の沈黙。書類をめくる音だけが聞こえる。
やがて、「……入れ」という声がした。
私は、震える手で金色のドアノブを回し、緊張しながら部屋へと足を踏み入れた。
お父様は、大きな執務机に向かい、山のように積まれた書類に目を通していた。私が部屋に入っても、すぐには顔を上げなかった。
「……リリアーナか。どうした、珍しいな。何か用か?」
ようやく顔を上げたお父様の目は、少し疲れているように見えた。
「あの、お父様……!」
私は、机の前まで進み出た。
もう、後には引けない。
「お願いが、あります……!」
私は、勇気を振り絞って、切り出した。
「あの……お母様の……エレオノーラ様のことが……わたくし……」
言葉が詰まる。あの人の顔がちらついて、怖い。
でも、言わなきゃ。
「わたくし……怖いんです……!!」
堰を切ったように、涙が溢れ出した。もう、止めることはできなかった。
「レッスンも……いつも、わたくしができないことばかり……お母様は、優しくしてくださる時もあるけれど……二人きりになると、すごく冷たくて……『汚らわしい』って……! わたくし、どうしたらいいか……っ!」
私は、むせび泣きながら、必死で訴えた。昨日言われた言葉も、今日のレッスンのことも、ごちゃまぜになって口から飛び出す。
「お父様……! お母様は、きっと……わたくしのことが、嫌いなんです……! だから、いじわるするんです……! お願いです、助けてください……!!」
どうか、届いて。
私の、最後のSOSが。
お父様は、私の涙と訴えに、驚いたように目を見開き、持っていたペンを置いて、私の方をじっと見つめていた。
その表情は、困惑しているようにも、何かを考えているようにも見えた。
その、読み取れない表情が、私をさらに不安にさせた。