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その日の午後、私はリリアーナの勉強部屋を訪れた。
朝食での出来事で、彼女がどれほど打ちのめされているか、その顔を直接見て楽しむためだ。
扉をノックもせずに入ると、リリアーナは小さな机に向かい、家庭教師のエドガー先生と向き合っていた。エドガーは、私が選んだ男だ。家柄は低いが野心家で、私の『支援』を約束する代わりに、リリアーナを『教育』する――つまり、その自信と学習意欲を徹底的に破壊するという、私の忠実な手駒になることを誓わせた。
「失礼いたしますわ。レッスンのご様子は、いかがかしら?」
私が微笑みながら入室すると、エドガーは慌てて椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。リリアーナは、私の声にビクリと体を硬直させ、まるで罪人かのように顔を俯かせる。ああ、もうすっかり私に怯えている。実に良い傾向だわ。
「エレオノーラ様、わざわざご足労いただき、恐縮に存じます」
「いいのよ。母親として、娘の教育に関心を持つのは当然のことでしょう?」
私は優雅に答え、部屋の隅に置かれた、ビロード張りのソファに音もなく腰を下ろした。まるで観劇でもするように、レッスンの様子を眺める。今日のレッスンは、この国の歴史のようだ。
エドガーは、私の視線を背中に感じ、わざとらしく咳払いをすると、リリアーナに向き直った。その声には、私の前だからか、普段より威圧感がこもっている。
「では、リリアーナ様。先ほどの続きです。建国王アルフレッド一世が、隣国との『百年の平和』を築くに至った、最も重要な外交政策とは何でしたかな?」
それは、貴族の子女にとっては基礎中の基礎。リリアーナも、本来なら即答できるはずの問題だ。エドガーから事前に聞いた話では、彼女は決して頭の悪い子ではない。――今までは。
しかし、私の視線を感じているからだろう。リリアーナは俯いたまま、口ごもる。
「え……ええと……それは……その……」
声が震え、言葉にならない。
私は、ここで絶妙なタイミングで口を挟む。声は、あくまで優しく、心配そうに。それが、より彼女を追い詰めることを知っているから。
「まあ、リリアーナ様。そんなことも、もうお忘れになってしまったの? 昨日、エドガー先生と何度も復習なさったばかりでしょう? わたくし、心配ですわ」
その言葉に、リリアーナの顔がさらに青ざめる。
エドガーが、待ってましたとばかりに追撃する。
「さあ、リリアーナ様! エレオノーラ様もご覧になっておりますぞ! しっかりとなさいませんと、ヴァイスハイト家の名が泣きますぞ!」
「は、はい……ええと、隣国との……婚姻、政策……?」
かろうじて絞り出した答えは、合っている。しかし、私はそれを許さない。そんな簡単なことで、安堵させてやるものですか。
「あら? 婚姻政策、だけでしたかしら? もっと重要な、経済的な取り決めがあったはずですわよね? 王女を嫁がせただけでは、百年も平和は続きませんでしょう? そんなこともお分かりにならないの? ヴァイスハイト家の令嬢ともあろう方が、そんな基本的なことも曖昧で、よろしくて?」
私は、わざとらしく、しかし深く、ため息をついて見せる。そのため息が、彼女の心を抉るナイフとなるように。
リリアーナは、完全に混乱していた。私の言葉とエドガーのプレッシャーで、頭の中が真っ白になっているのだろう。
「け、経済……? あ……あの……関税、の……協定……?」
「まあ、曖昧ですこと。それでは、まるで理解していないようですわ。ただ、言葉を覚えているだけ。それでは意味がありませんのよ? ねぇ、エドガー先生?」
「は、はい……まことに。リリアーナ様、もっと歴史の流れを体系的に理解なさいませんと」
リリアーナの翠の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。だが、決して泣きはしない。プライドが邪魔をしているのか、それとも、私の前で泣くことすら恐れているのか。どちらにしても、その必死に耐える顔が、私の心を最高に満たしてくれる。
(そう、その顔よ。分からなくて、悔しくて、でも誰にも助けを求められない、その絶望の顔! もっと、もっと見せてちょうだい!)
私は内心で歓喜しながらも、心配そうな顔を崩さない。
結局、リリアーナはその後の簡単な質問にもほとんど答えられず、ただ俯いて、小さな肩を震わせるだけだった。
やがて、エドガーが困り果てたように言った。
「……本日は、ここまでといたしましょう。エレオノーラ様、申し訳ございません。リリアーナ様は、どうも本日は集中力に欠けるようで……基礎的な部分も、理解が追いついていないご様子……」
その言葉は、暗に『リリアーナ様は出来が悪く、私の手に負えません』と言っているのと同じだ。素晴らしい報告だわ、エドガー。
「そうですか……。仕方がありませんわね」
私はゆっくりと立ち上がり、リリアーナのそばへ歩み寄った。
「リリアーナ様。お勉強は、あなたのためなのですよ。ヴァイスハイト家の令嬢として、恥ずかしくない知識を身につけなければ。明日は、もっと頑張りましょうね?」
その頭を、優しく撫でる――ふりをする。私の指先が髪に触れた瞬間、リリアーナの体が氷のように硬直するのが分かった。フフ、可愛い反応。
私はエドガー先生に目配せし、二人で部屋を出た。
廊下を歩きながら、私はエドガーに低い声で囁いた。
「……良い調子ですわ、エドガー先生。あの子には、自信など持たせる必要はありませんの。むしろ、自分がどれほど愚かで、無価値であるかを思い知らせるのが、あなたの仕事ですわ。もっと、もっと厳しくてもよろしくてよ。あの子が、自分の愚かさを骨の髄まで理解するようにね」
「は……ははっ! かしこまりました、エレオノーラ様! このエドガー、身命を賭して、お望み通りに!」
エドガーは、卑屈な笑みを浮かべ、恭しく頭を下げる。
これでいい。私の手駒は、着実に増えている。
リリアーナの心を折るための『偽りのレッスン』は、これからも、もっと陰湿に、もっと執拗に、続いていくのだ。