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 気まずい沈黙に満ちた朝食が終わると、アルブレヒトは「すまないが、急ぎの来客があってね」と、まるで逃げるように早々に執務室へと向かった。娘と向き合うことから逃げたのだ。都合の良いこと。

 リリアーナも、私の視線から逃れるように、幽霊のように音もなくダイニングルームから去っていった。その小さな背中には、もう昨日のような震えはなく、ただ、冷たい諦めのようなものが漂っているように見えた。フフ、効果はてきめんね。


 私は、残された紅茶を優雅に一口飲むと、背後に控えていたヒルダに声をかけた。その声は、朝食の時とは打って変わって、冷たく響く。


「ヒルダ」

「は、はい」


 ヒルダの声に、僅かな緊張が走る。さすがは古株、私の本質を嗅ぎ取り始めているのかもしれない。


「後で、主要なメイドたちを第一広間に集めてちょうだい。新しい女主人として、皆さんに一度、きちんとご挨拶と、いくつか確認しておきたいことがあるのです」

「……かしこまりました。すぐに手配いたします」


 ヒルダは、私の意図を探るように一瞬だけ視線を上げたが、すぐに伏せ、恭しく一礼して下がっていった。その動きに無駄はないが、どこか硬さが感じられた。


 一時間後、私は第一広間へと向かった。

 陽光が差し込む明るい広間だが、そこに集まった十数名のメイドたちの顔は、一様に暗く、緊張していた。部屋係、衣装係、洗濯係、そして厨房で働く者たち。皆、この屋敷に長年仕えているベテランから、まだ若い見習いまで様々だが、共通しているのは、私という新しい支配者に対する不安と好奇心だった。

 ヒルダが、その最前列で背筋を伸ばし、厳しい顔つきで立っている。彼女が、この集団の『要』だろう。


 私が姿を現すと、空気がさらに張り詰めるのが分かった。メイドたちが一斉に深々と頭を下げる。

 私は、最も優雅に、そして最も慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、ゆっくりと彼女たちの前に立った。まずは、『飴』からだ。


「皆さん、顔を上げてちょうだい」


 穏やかな声で言うと、おずおずと顔が上がる。


「改めまして、エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイトです。これから、皆さんと共に、この素晴らしいヴァイスハイト家を支えていくことになります。どうぞ、よろしくお願いいたしますわね」


 私は、一人一人の顔を見渡すようにしながら、言葉を続ける。


「わたくしが来てからまだ日は浅いですが、皆さんの仕事ぶりには、本当に感心させられています。この屋敷が常に美しく保たれているのも、食事が素晴らしいのも、全て皆さんのおかげですわ。特に、庭の手入れは見事ですね。旦那様も、きっと誇りに思っていらっしゃるでしょう。本当に、ありがとう」


 予想外の賛辞だったのだろう。何人かのメイドの顔から、緊張が少しだけ和らぐのが見えた。特に、庭師に近い部署の者たちの顔が明るくなる。単純なものだ。


 しかし、それだけでは終わらない。緩んだ空気を、今度は『鞭』で引き締める。

 私は、ふっと表情を引き締め、声のトーンを少しだけ落とした。


「さて、皆さんにお願いしたいことがあります。それは、リリアーナ様のことです」


 その名が出た途端、空気が再び凍りつく。皆、朝食での出来事を噂で聞いているのかもしれない。


「ご存知の通り、リリアーナ様はまだお若く、お母様を亡くされたばかりで、心が不安定でいらっしゃいます。わたくしは、母親として、あの子を全力で支えて差し上げたい。ですから、皆さんにも協力をお願いしたいのです」


 聖母の台詞。だが、その裏に潜むものを、彼女たちは感じ取っているだろうか。

 私は、ヒルダの目をまっすぐに見据えて言った。


「あの子が、健やかに、そしてヴァイスハイト家の令嬢にふさわしく成長できるよう、皆で見守っていきましょう。時には、厳しさも必要になるかもしれません。そして――」


 私は、そこで一度言葉を切り、広間全体を見渡した。一人一人の目を見るように。


「リリアーナ様の様子について、何か気づいたことがあれば、どんな些細なことでも、《b》必ず、わたくしに直接報告するように《/b》。良いことでも、悪いことでも、全てです。隠し立ては許しません。これは、リリアーナ様を正しく理解し、支えるために、とても重要なことですから。皆さんの忠誠心を、わたくしは信じておりますわ」


 声には、有無を言わせぬ響きを込めた。これは命令だ。報告義務。隠せば、それは私への『裏切り』と見なす、という脅迫だ。


「よろしいですわね?」

「……は、はい! かしこまりました!」


 メイドたちは、慌てて声を揃えた。その声は、恐怖で少し上ずっている。ヒルダだけが、無表情のまま、深く頭を下げていた。彼女の沈黙が、一番気にかかる。


 私は、その中から、特に若く、野心のありそうな顔つきのメイド――衣装係のアンナだったか――に歩み寄り、優しく微笑んだ。


「アンナ。あなたの選ぶドレスのセンス、素晴らしいですわね。昨日のドレスも、とても気に入りましたわ。これからも期待していますわよ」

「も、もったいなきお言葉……! 光栄でございます、エレオノーラ様!」


 アンナは、顔を真っ赤にして感激している。こういうタイプは、扱いやすい。特別な『褒美』を与えれば、喜んで私のための『スパイ』になるだろう。

 何人かに同じように声をかけ、特別感を植え付ける。これで、メイドたちの間にも、私への忠誠競争が始まるはずだ。


 メイドたちが解散した後、私は一人、がらんとした広間に残り、満足げに微笑んだ。

 ヒルダがどう動くかは未知数だが、他の者たちはこれで私の支配下に入った。網は張られたのだ。


(これで、屋敷中の耳は私のものよ。リリアーナ、あなたはもう、どこにも逃げられないわ。あなたの全ての行動は、私の知るところとなる。そして、あなたの全ての情報は、あなたを貶めるために使われるのよ)


 壁にかけられた、ヴァイスハイト家の紋章を見上げる。

 この家は、私のものだ。私の劇場だ。

 その確信を胸に、私は次の『レッスン』へと意識を移した。


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