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 翌朝。

 ヴァイスハイト家の朝食は、東棟にある、陽光が燦々と降り注ぐ広大なダイニングルームで取られるのが慣わしだった。

 天井は高く、優美な漆喰の装飾が施されている。壁には穏やかな風景画が飾られ、長く大きなテーブルには、寸分の狂いもなく磨き上げられた銀食器と、糊のきいた純白のテーブルクロスが完璧にセッティングされていた。

 メイドたちが、まるで影のように静かに、しかし機敏に立ち働いている。

 全てが豪華で、完璧。

 しかし、その完璧さが、かえって空気を張り詰めさせ、どこか冷たく感じさせた。まるで、美しい氷の宮殿のようだ。私のための宮殿。


 私がアルブレヒトにエスコートされて入室すると、メイドたちが一斉に深々と頭を下げた。


「おはよう、エレオノーラ。昨夜はよく眠れたかな?」


 アルブレヒトは、私のために重厚な椅子を引きながら、蕩けるように甘い声で尋ねる。結婚してまだ日は浅いが、彼はもう完全に私の虜だ。


「ええ、旦那様のおかげで、ぐっすりと。この屋敷は本当に素晴らしいですわね。まるで夢の中にいるようです」


 私はにこやかに微笑んで答える。昨夜は、リリアーナの怯えた顔を思い出して興奮し、なかなか寝付けなかったのだが、もちろん、そんなことはおくびにも出さない。夢の中――そう、私にとっては、最高の夢の始まりだ。


 私たちが席に着いて間もなく、リリアーナが一人で入ってきた。

 昨夜より、さらに顔色が悪いように見える。目の下には、うっすらと隈ができていた。私のせいかしら? だとしたら、嬉しいことだわ。

 彼女は私の顔を見ると、ビクリと肩を揺らし、小さな声で挨拶をした。


「……おはようございます、お父様。……エレオノーラ、様」


 その声はか細く、視線はテーブルの上を彷徨っている。昨日、あれほど『弁えなさい』と言ったのに、まだ私のことを『お母様』とは呼ばないらしい。反抗的ね。それとも、恐怖で声が出ないのかしら。どちらにしても、面白い。


 アルブレヒトが、少しだけ眉をひそめた。


「リリアーナ。挨拶はもっとはっきりと。それに、エレオノーラ様のことは『お母様』と呼びなさいと昨日言ったはずだ」


 リリアーナはさらに縮こまる。


「……! は、はい……申し訳、ございません……お母、様……」


 言葉の最後は、ほとんど音になっていなかった。

 私は、心の中で舌打ちした。


(余計なことを。まだ『お母様』なんて呼ばせるつもりはないのに。その呼び名を、絶望の呼び名に変えてあげるまでは)


 しかし、表情は完璧な聖母のものだ。


「まあ、旦那様、おやめくださいな。リリアーナ様は、まだ慣れないだけですわ。わたくしは、気にしておりませんもの。ゆっくりでよろしいのですよ、リリアーナ様」


 私が優しく声をかけると、リリアーナはさらに怯えたように俯いた。アルブレヒトは、そんなリリアーナを見て、小さくため息をつく。

 ――いいわ。これも、あの子の評価を下げる一助になる。父親の期待を裏切る娘、という印象は、後々とても役に立つ。


 食事が運ばれてくる。

 焼きたてのパンの香ばしい匂い。色とりどりの新鮮なサラダ。黄金色のコンソメスープ、そして完璧な半熟のポーチドエッグ。どれも侯爵家にふさわしい、一級品だ。

 アルブレヒトは、私との会話を楽しみながら食事を進めている。私はそれに相槌を打ちながらも、視線は常に対面に座るリリアーナに注がれていた。

 リリアーナは、緊張からか、ぎこちない手つきでナイフとフォークを動かしている。その姿は、哀れなほどに小さく見える。

 ――チャンス。


「あら、リリアーナ様」


 私は、あくまで優しく、しかし誰もが聞こえるクリアな声で言った。


「パンは、手で一口大にちぎっていただくのがマナーですわよ。ナイフを入れるのは、あまりよろしくありませんわね」


 リリアーナの肩が、また跳ねる。


「……は、はい……」


 彼女が慌ててパンに手を伸ばす。

 スープを飲み始めると、私はまたタイミング良く口を挟む。


「スープの音は、もう少し静かに……ね? 淑女たるもの、音を立てずにいただくのが基本ですわ。焦らなくても、誰も取りはしませんから」

「……ごめんなさい……」


 一つ、また一つ。私は彼女の動作の『間違い』を、丁寧に、執拗に指摘していく。どれも些細なことだが、父親とメイドたちの前で繰り返されれば、それは『作法のできていない、落ち着きのない子』という強力なレッテルになるのだ。


 やがて、リリアーナは完全に萎縮してしまい、ほとんど食事が喉を通らなくなった。ただ、目の前の皿を、絶望的な顔で見つめている。フォークを持つ手が、微かに震えていた。

 私は、心配そうな顔を作ってアルブレヒトを見た。瞳には、憂いの色を浮かべて。


「旦那様……リリアーナ様、食が細いようですわね。昨日から、あまり召し上がっていないような……。何か、悩み事でもあるのかしら? わたくしでよければ、いつでもお話を聞きますのに……」


 私は、悲しげに付け加える。


「もしかしたら、わたくしが来たことで、かえって気を遣わせてしまっているのかもしれませんわね……。わたくしの、努力が足りないばかりに……」


 ああ、私はなんて健気で、可哀想な継母なのだろう!


 この言葉は、アルブレヒトに効果てきめんだった。

 彼は、優しい妻が心を痛めていると思い込み、娘に向き直る。


「リリアーナ! エレオノーラお母様が、こんなに心配してくださっているんだぞ。何かあるなら、ちゃんと言いなさい。それとも、お母様に何か不満でもあるのか?」


 その声には、明らかに苛立ちが含まれている。

 リリアーナは、顔を真っ青にして首を横に振るだけ。声も出ないようだ。

 アルブレヒトは、深い深いため息をついた。


「……やれやれ。本当に、お前は……。エレオノーラ、すまないな。やはり、少し難しい子で……私の育て方が悪かったのかもしれん」

「いいえ、旦那様。そんなことはありませんわ。わたくしが、もっと努力いたしますわ。リリアーナ様が心を開いてくださるまで」


 私は聖母のように微笑んだ。

 アルブレヒトの頭の中には、これで、『リリアーナ=扱いにくい子』『エレオノーラ=健気で優しい妻』という図式が、また一つ強く刷り込まれただろう。

 朝食のダイニングルームは、私の計画にとって、最高の舞台となった。

 私は、冷たいスープを、満足げに一口すすった。ああ、なんて美味しい朝食なのかしら。




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