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 扉が閉まり、部屋に再び静寂が訪れる。

 私は、リリアーナが立っていた場所を無感動に見つめた後、くるりと背を向け、優雅な足取りで彼女の部屋を後にした。

 扉の向こうで、小さな嗚咽が聞こえたような気がしたが、もちろん、振り返ることはしない。

 廊下を歩きながら、私は先ほどの出来事を反芻していた。

 ――リリアーナの、あの恐怖に凍りついた瞳。

 ああ、なんて素晴らしい! なんて、そそられる光景だったことだろう!


 私は軽やかな足取りで、エレオノーラに与えられた自室へと戻った。

 侯爵家の東棟で最も広く、最も日当たりの良い、豪華な部屋。壁には高価なタペストリーが飾られ、家具は全て一級品。窓からは、美しく手入れされた南庭が一望できる。

 この部屋は、私の権力と美貌を象徴するかのようだ。

 私は窓辺の長椅子に深く腰掛け、目を閉じた。

 まぶたの裏に、先ほどのリリアーナの顔が浮かぶ。

 手を引かれた瞬間の、困惑。

 父親に叱責された時の、傷心。

 そして、二人きりになった時の、凍りつくような恐怖。


 「……フフッ」


 思わず、笑みが漏れる。

 あのプライドの高そうな瞳が、恐怖と絶望に染まる瞬間は、きっと最高の芸術になるだろう。あの可愛い顔が、憎しみで歪む様を想像するだけで、身体の芯が痺れるようだ。

 前世では味わえなかった、この全能感。この支配欲。これこそが、私が求めていたもの。これこそが、私がこの世界に転生した意味なのだ。


 しかし、感傷に浸ってばかりもいられない。

 最高のショーを成功させるには、綿密な計画と準備が必要だ。私は冷静さを取り戻し、頭の中で今後の筋書きを組み立て始める。

 まずは、この屋敷を完全に掌握すること。情報こそが力。リリアーナの行動、言動、全てを私の管理下に置く。そのためには、使用人、特に古株で影響力のあるメイド長を、どうにかしなければならない。

 次に、アルブレヒトへの印象操作。彼が私を信じ続ける限り、私は安泰だ。リリアーナの『問題行動』を巧みに報告し、私の『苦労』をアピールし続ける必要がある。

 そして、リリアーナ本人への『教育』。精神的に、社会的に、彼女を追い詰めていく。原作知識を参考に、しかし、それ以上に巧妙に、執拗に。


 「誰か、いますか?」


 私が部屋に備え付けられた鈴を鳴らすと、すぐに扉がノックされ、一人の初老の女性が入ってきた。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、厳しい顔つきをした、メイド長ヒルダだ。原作でも、彼女は古参として屋敷を取り仕切っていたはず。おそらく、この屋敷で一番の難関だろう。忠誠心は、ヴァイスハイト家そのものにあるタイプだ。


「お呼びでしょうか、エレオノーラ様」


 ヒルダは深々と一礼する。その態度は恭順だが、瞳の奥には、私を探るような鋭い光があった。


「ええ、ヒルダ。少し、お願いしたいことがあるのです」


 私は優雅に微笑む。まずは、相手の出方を見る。


「先ほど、リリアーナ様のお部屋に伺ったのですが、あの子、少しお爪が伸びていらっしゃるようでしたの。わたくし、肌が弱くて……。後で、あなたが切って差し上げてくださらないかしら?」


 まずは、ジャブだ。私がリリアーナの身だしなみを気にかけ、かつ、私が『繊細』であることを印象付ける。そして、リリアーナの爪が本当に伸びていないことを、このヒルダが知っているかどうか。

 ヒルダは、表情を一切変えずに答えた。


「……承知いたしました。後ほど、リリアーナ様のお部屋に伺います」


 ポーカーフェイス。だが、私の嘘には気づいているかもしれない。


「ありがとう。助かりますわ。それから、ヒルダ。リリアーナ様は、まだお若くて、何かと心配ですわ。あの子の様子で、何か変わったことがあれば、どんな些細なことでも、わたくしに教えてくださると嬉しいのだけれど」


 これが本命。監視と報告の指示だ。

 ヒルダの眉が、ほんの僅かに動いた。やはり、ただ者ではない。


「……かしこまりました。エレオノーラ様のご心配、お察しいたします。リリアーナ様のことは、私ども使用人一同、心を込めてお世話させていただきます」


 見事な受け答えだ。本心は読ませない。だが、これで彼女も私の『情報網』の一部になった。逆らえばどうなるか、いずれ思い知らせる必要があるかもしれないが、今は泳がせておこう。


「頼りにしていますわ、ヒルダ」


 私が微笑むと、ヒルダは再び深々と一礼し、静かに部屋を出て行った。


(手強そうね。でも、焦ることはないわ)


 私は窓の外を見つめながら、これから始まる長い『ショー』に思いを馳せた。

 リリアーナを孤立させ、勉強を邪魔し、社交界で恥をかかせ、魔法の力を暴走させ……そして、最後に『悪役令嬢』として断罪させる。

 その全てを、私は聖母の仮面の下で操るのだ。


「さあ、ショーの幕開けよ」


 私は、テーブルに置かれていた葡萄酒をグラスに注ぎ、ゆっくりと口に含んだ。その芳醇な赤い液体は、まるで、これから流されるであろう誰かの涙か、あるいは血のように見えた。


「誰も、わたくしを止めることなどできないわ」


 エレオノーラの、私の、完全なハッピーエンドのために。

 その確信を胸に、私はグラスを高く掲げた。

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