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エレオノーラ様が、あの悪魔のような慈悲の言葉を残して去った後、わたくしは、どれほどの時間、あの冷たい石の床に意識を失うように横たわっていたのだろうか。
時間の感覚は、もう完全に麻痺していた。ただ、心臓だけが、まだ義務のように鼓動を続けている。
やがて、牢の鉄格子が、ガチャン、と大きな、そして最後を告げるかのような音を立てて開かれた。
「リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト」
無機質な、感情の欠片も感じられない声が、わたくしの名を呼ぶ。
顔を上げると、そこには数人の屈強な兵士と、厳めしい法衣をまとった役人らしき男が立っていた。男の手には、分厚い羊皮紙が握られている。おそらく、わたくしの罪状と判決が記されたものだろう。
「刑の執行の時だ。立て」
わたくしは、もはや何の抵抗もせず、兵士たちに両脇を抱えられ、引きずるようにして立たされた。
手足の聖銀の枷は、昨夜のうちに外されていた。どうせ逃げられないと、高を括っているのだろう。代わりに、太く荒縄で、まるで罪人のように後ろ手にきつく縛られる。
まるで、魂の抜け殻だった。痛みも、寒さも、もはや何も感じない。ただ、言われるがままに、壊れた人形のように動くだけ。
牢から引きずり出され、薄暗い地下通路を通り、やがて地上へと続く、長く冷たい石の階段を上る。
久しぶりに浴びる太陽の光が、やけに目に染みた。それは、まるでわたくしの罪を照らし出すかのように、無慈悲に降り注いでいた。
罪人用の、屋根もない粗末な荷馬車が、中庭に用意されていた。わたくしは、まるで物のように、その荷台に乱暴に押し込まれた。ガタン、と荷台が揺れ、埃っぽい匂いが鼻をついた。
馬車が、ゆっくりと、そして重々しく動き出す。
向かうのは、王都の中央に位置する大広場。わたくしの、人生最後の舞台となる、処刑場だ。
道々、どこから聞きつけたのか、おびただしい数の民衆が集まっていた。その数は、実演会の時の比ではない。
その顔、顔、顔……。全てが、わたくしへの剥き出しの憎悪と、野次馬的な恐怖と、そして下劣な好奇心で歪んでいた。
「魔女め! 地獄へ落ちろ!」
「国賊! よくもアルフォンス殿下を誑かそうとしたな!」
「私たちの村を枯らしたのはお前だろう! あの疫病も、お前の呪いのせいだ!」
「死んで当然だ! もっと苦しんで死ね! 石を投げろ! 汚物を投げつけろ!」
罵声と共に、石や、泥や、腐った野菜などが、まるで嵐のように馬車に投げつけられる。いくつかは、わたくしの顔や体に直接当たり、鈍い痛みが走った。額から、生温かいものが流れ落ちるのを感じたが、もう、どうでもよかった。
わたくしは、ただ、虚ろな目で、その憎悪の渦を眺めていた。
エレオノーラ様への憎しみすら、今はどこか遠いものに感じられた。全てが、まるで他人事のように。
ただ、心の奥底の、ほんの片隅で、チクリと小さな痛みが、繰り返し走る。
それは、かつてお母様が読んでくれた、優しいおとぎ話の記憶。
クララ様と、図書室の陽だまりの中で、小さな声で語り合った、穏やかな時間。
ルビーと名付けた、あの小さなコマドリの、指先に触れた、温かい感触。
アルフォンス殿下の、初めてわたくしに向けられた、太陽のような優しい微笑み。
それらの、ほんの僅かな、しかし確かに存在した美しい記憶が、今のこの絶望的な状況を、より一層、残酷なまでに際立たせていた。
ああ、わたくしにも、あんなささやかな幸せの日々があったのだ。
でも、それももう、全て終わり。エレオノーラ様が、全て奪い去ったのだから。
やがて、馬車は、市内の大広場に到着した。
広場は、わたくしの処刑を見ようと集まった、おびただしい数の民衆で埋め尽くされていた。その数、数千か、あるいは万か。まるで、王都中の人間が集まったかのようだった。
彼らの放つ、異様な熱気と、剥き出しの憎悪が、まるで巨大な怪物のように、わたくしに襲いかかってくる。
広場の中央には、黒々とした、おぞましい処刑台が、不気味にそびえ立っていた。その上には、太い柱と、山と積まれた薪が見える。
わたくしは、兵士たちに引きずられるようにして馬車から降ろされ、その処刑台へと、一歩、また一歩と、引き立てられていった。まるで、祭壇に捧げられる生贄のように。
これが、わたくしの、最後の道。
エレオノーラ様が用意した、最高の『ショー』の、クライマックス。そして、わたくしの、惨めで、そして短い人生の、終着点。
◇
処刑台。
それは、わたくしリリアーナ・フォン・ヴァイスハイトのために用意された、最後の、そして最大の舞台。冷たく、黒く、そして不吉なまでに高いその場所は、まるで地獄への入り口のようだった。
縄で後ろ手に縛られたまま、兵士たちに乱暴に突き上げられ、わたくしはその木の床に立たされた。
見下ろせば、広場を埋め尽くす、おびただしい数の顔、顔、顔。その全てが、わたくしに向けて、剥き出しの憎悪と、野次馬的な好奇心と、そしてほんの少しの恐怖を湛えた、醜悪な視線を投げかけてくる。
(ああ、素晴らしいわ。エレオノーラ様。あなたの望み通り、わたくしは今、世界中から憎まれる『魔女』として、ここに立っている。あなたの脚本は、本当に完璧ね)
でも、もう、どうでもよかった。
民衆の顔も、空の青さも、吹き抜ける風の冷たさも。
わたくしの心を満たしているのは、ただ一つ。ただ一つだけ。
あの女、エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイトへの、燃えるような、骨の髄まで焼き尽くすような、決して消えることのない、憎しみだけだった。
やがて、役人らしき男が、処刑台の中央に進み出て、分厚い羊皮紙を厳かに広げた。
その甲高い、不快な声が、広場に響き渡る。
「罪人、リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト! 汝の数々の大罪を、神と国王陛下の御名において、ここに読み上げる!」
一つ、また一つと、わたくしの『罪』が、芝居がかった口調で列挙されていく。
王太子アルフォンス殿下への不敬、及びその尊き命を狙った大逆未遂。
善良なる平民エリス・ミラーへの、嫉妬に狂った陰湿なる虐待と、その聖なる魂への冒涜。
邪悪なる禁忌の魔術『アリアの呪い』の使用による、ヴァイスハイト領及び王立貴族学院への甚大なる危害。
そして、国家の安寧と秩序を乱した、万死に値する大罪。
(嘘だ! 嘘だ! 全て嘘だ! あの女が、あの悪魔が、全て仕組んだことだ! あの女が、わたくしを、この国を、そして真実そのものを嘲笑っているのだ!)
心の中で、血を吐くように叫ぶ。
でも、声にはならない。唇が、怒りと絶望で、ただ震えるだけ。
わたくしの無実を証明する言葉など、もう、この世界のどこにも存在しないのだから。
罪状が、まるで終わりのない悪夢のように読み上げられる間、わたくしの脳裏には、エレオノーラ様がこの家に来てからの、あの忌まわしい日々が、鮮明に、そして克明に蘇っていた。
お母様の形見のロケットを取り上げられた時の、あの冷たい手の感触と、嘲るような瞳。
北庭を禁じられた時の、あの偽りの優しさの裏に隠された、底知れぬ悪意。
物語の本を全て奪われた時の、あの空っぽの本棚と、わたくしの心の空白。
ソフィア様からの手紙が届かなくなった時の、あの断ち切られた希望の糸。
ルビーが、食卓に並んだかもしれないと思った時の、あの胃の底からこみ上げる吐き気と絶望。
アネットの、エレオノーラ様の意思を映した、棘のある言葉の数々。
エドガー先生の、卑屈な笑顔と、捏造された報告書。
お父様の、失望と怒りに歪んだ顔。
クララ様の、わたくしを避けるようになった、悲しげな、そしてどこか怯えた目。
アルフォンス殿下の、氷のように冷たい視線と、エリス・ミラーに向けられる熱い口づけ。
そして、エリス・ミラーの、わたくしを嘲笑うかのような、あの忌々しい舌。
全て、全て、全て――あの女、エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイトが仕組んだこと。
わたくしのささやかな幸せを、淡い希望を、そして人間としての尊厳さえも、あの女が、一つ残らず、楽しげに踏みにじり、奪い去ったのだ。
憎い。憎い。憎い。
エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイト!
その名前を思うだけで、心の奥底から、黒い炎が燃え上がるのを感じた。
「――以上である! リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト! 汝に、最後に何か言い残すことはあるか!」
役人の声が、わたくしを現実へと引き戻す。
言い残すこと?
ああ、あるわ。たった一つだけ。
わたくしは、虚ろだった瞳に、最後の力を振り絞り、憎悪の炎を宿らせた。
そして、処刑台から、広場を埋め尽くす民衆を、いや、この不条理な世界そのものを見据え、力の限り叫んだ。
その声は、もうか細くはなかった。それは、地獄の底から響くような、怨嗟の声だった。
「エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイトォォォオオオオオオッッッ!!!! あなただけはッ! あなただけは、絶対に許さないッッ!!!! わたくしが死んでも、その魂は永遠にあなたを呪い続けるでしょうッ!! いつか必ず、必ず、あなたを地獄の底へ引きずり下ろしてやるわァァァアアアアアアッッッ!!!!」
わたくしのその絶叫は、民衆には「魔女の最後の断末魔の呪詛」としか聞こえず、彼らの顔には恐怖と嫌悪の色が一層濃くなった。
「やはり魔女だ! 早く火をつけろ!」
「聖なる炎で浄化しろ!」
そんな声が、あちこちから上がる。
役人が、厳かに判決を言い渡した。
「罪人リリアーナ・フォン・ヴァイスハイトを、魔女として、火刑に処す!」
広場から、地鳴りのような歓声が上がった。
処刑執行人たちが、無言でわたくしに近づき、太い柱に、さらにきつく体を縛り付けた。
足元には、乾いた薪が、山のように積まれている。
もう、何も怖くない。
ただ、エレオノーラへの憎しみだけが、わたくしの全てだった。
やがて、松明の火が、薪へと近づけられた。
パチパチと、乾いた音が響く。
そして、炎が、まるで生きているかのように、勢いよく燃え上がった。
熱い。
痛い。
苦しい。
でも、そんな肉体的な苦痛よりも、エレオノーラへの憎しみの方が、ずっとずっと強かった。この痛みも、あの女がわたくしに与えたものなのだと思うと、憎悪はさらに燃え盛る。
燃え盛る炎の中で、わたくしは、あの女の美しい顔を思い浮かべた。
その顔が、憎たらしい! あの、わたくしが差し出した手を、冷たく引いた、あの時と同じだ! あの、全てを見透かしたような、全てを嘲笑うかのような、冷たい瞳! あの、わたくしを値踏みするあの瞳! ああ、憎い! あの女の、全てが、憎い! 憎くてたまらない!
憎い、憎い、憎い――その強烈な憎悪が頂点に達し、わたくしの意識を焼き尽くそうとした、その瞬間。
ふっ、と。
まるでロウソクの火が消えるように、わたくしの意識は、永遠の闇の中へと、静かに途切れていった。
「どうして、見ているだけなの。どうして、救ってくれなかったの……?」