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三日後。
わたくしの、この世での最後の朝が来た。
牢の小さな窓から差し込む、ほんの僅かな、まるで死者の顔色のような青白い光が、壁に長い影を作っている。空気は墓場のように冷たく、湿っていた。
もう、何も考えることはなかった。ただ、この悪夢のような人生が、ようやく終わるのだという、ある種の解放感にも似た虚無感だけが、わたくしを支配していた。
憎しみさえも、今はどこか遠い、他人事のように感じられた。
その時、牢の向こうから、複数の足音が近づいてきた。それは、処刑の時を告げる死神の足音か。
そして、鉄格子の前に立ったのは――エレオノーラ様だった。
彼女は、ゆったりとした、しかしそのラインを隠しきれない美しい淡い藤色のマタニティドレスを身にまとい、そのお腹は、新しい命の存在をはっきりと示すように、優雅に、そして誇らしげにふっくらとしていた。その顔には、聖母のような、慈愛に満ちた、しかしどこか物憂げな微笑みが浮かんでいる。
「リリアーナ」
彼女は、わたくしの名を、まるで愛しい、しかし道を踏み外してしまった娘を呼ぶかのように、優しく、そして悲しげに呼んだ。
「最後に、あなたと話したいことがあるの。少しだけ、いいかしら? わたくしたち、母と娘なのだから」
わたくしは、何も答えなかった。答える気力も、意味も、もうなかった。
エレオノーラ様は、同行していた看守たちに、冷たく、しかし威厳のある声で命じた。
「牢の扉を開けなさい。そして、少しの間、二人きりにしていただけるかしら。わたくしたち、最後の家族としての時間ですもの。誰にも邪魔はさせないでちょうだい」
看守たちは、一瞬戸惑ったような顔をしたが、侯爵夫人の、そして未来の国母の婚約者の母(という、今はもう過去の肩書だが、その威光はまだ残っている)である彼女の命令に逆らえるはずもなく、重々しい音を立てて牢の扉を開け、そして足早に廊下の向こうへと消えていった。
エレオノーラ様は、一人、牢の中へと静かに入ってきた。その足取りは、まるで自分の庭を散策するかのように優雅だった。
彼女は、わたくしの前にゆっくりとしゃがみ込むと、その冷たい、しかし今は温かいように錯覚させる指先で、わたくしの乱れた髪を優しく耳にかけた。
「まあ、リリアーナ……可哀想に。こんなことになってしまって。本当に、残念だわ。わたくし、あなたを救ってあげられなかった……」
その声は、心からの同情と悲しみに満ちているように聞こえた。
「わたくしの教育が、至らなかったのかもしれないわね。もっと、あなたに寄り添って、あなたの心の声を聞いて差し上げるべきだった……。本当に、ごめんなさい……。母親失格ですわね、わたくしは……」
彼女の美しいアイスブルーの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるようにさえ見える。
わたくしは、ただ、無表情で彼女を見つめ返した。その完璧なまでの偽善に、もはや何の感情も動かされない。ただ、早くこの茶番が終わればいいと、心のどこかで思っただけだった。
わたくしのその反応が、彼女の琴線に触れたのだろうか。あるいは、もう演技にも飽きたのか。
エレオノーラ様は、ふっと、その聖母の仮面を、まるで汚れた手袋でも捨てるかのように剥ぎ取った。
美しい顔に、冷酷で、サディスティックな、そして心の底からの愉悦に満ちた笑みが浮かぶ。
「あら、まだそんな目でわたくしを見るの? 少しは反省して、わたくしに許しでも乞うかと思ったけれど、相変わらず可愛げのない、そして愚かな子ね、あなたは」
その声は、氷のように冷たく、そして蜂蜜のように甘ったるかった。
「あなたのその素晴らしい『聖女の力』、結局、誰の役にも立たなかったわね。むしろ、あなた自身を破滅に導いただけ。聖女? 魔女? フフ、どちらでもいいわ。あなたは、ただの『出来損ないの失敗作』よ。わたくしの、ね。わたくしが、丹精込めて作り上げた、最高の失敗作」
彼女は、ゆっくりと立ち上がり、自分のお腹を愛おしそうに、しかしこれみよがしに、両手で優しく撫でた。
「見てちょうだい、リリアーナ。これこそが、真の祝福よ。ヴァイスハイト家の、そしてわたくしの輝かしい未来。あなたのような、忌まわしい『呪われた存在』とは、全く違うの。この子は、皆から愛され、祝福されて生まれてくる。あなたとは、正反対の運命を辿るのよ」
その言葉は、鈍いナイフのように、わたくしの、もう何も感じなくなったはずの心の奥底を、容赦なく抉った。
わたくしの唇が、微かに震えた。何かを言おうとしたのかもしれない。憎しみの言葉か、呪いの言葉か、それとも、ただのうめき声か。
しかし、エレオノーラ様は、それを許さなかった。
彼女は、再びわたくしのそばに屈み込み、その美しい顔を、わたくしの顔すれすれまで近づけ、耳元で、悪魔のように甘く、そして残酷に囁いた。
「ねえ、リリアーナ。わたくしが、勝ったのよ。あなたの全てを奪って、わたくしは幸せになる。あなたの父親も、あなたの婚約者も、あなたの友人だった娘も、あなたの居場所も、あなたの未来も、そしてあなたの命も、全てわたくしが奪ったの。そして、あなたは、これから、あの忌まわしい力と共に、地獄へ落ちるの。誰からも愛されず、誰からも忘れられてね。ああ、なんて素晴らしい結末なのかしら!」
そして、彼女は、わたくしにしか聞こえない声で、はっきりと、こう言った。その声は、恍惚とした響きさえ帯びていた。
「――ざまぁみろ、ですわ♥ 本当に、心の底から、そう思うわ。あなたのような邪魔者がいなくなって、せいせいする」
その言葉と、その悪魔のような、しかしこの世のものとは思えないほど美しい笑顔。
それが、わたくしの、かろうじて繋ぎ止められていた最後の何かを、完全に、そして永遠に断ち切った。
プツン、と。
魂が、抜け殻になったような感覚。世界が、遠ざかっていく。
エレオノーラ様は、そんなわたくしの顔を見て、最高の満足を得たかのように、くすくすと喉を鳴らして笑い、そして、何も言わずに牢から出て行った。その足取りは、まるでこれから祝宴にでも向かうかのように軽やかだった。
重い扉が閉まる音。
わたくしは、もう、何も感じなかった。何も考えられなかった。
ただ、虚ろな目で、壁の一点を見つめるだけ。
やがて来る、処刑の時を、まるで壊れた、魂のない人形のように、ただ待つだけだった。
エレオノーラ様の、最後の嘲笑が、わたくしの、もう存在しない心を、永遠に蝕んでいく。