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 処刑を三日後に控えた、月のない、星すらも凍てつくような夜だった。

 王城の地下深くに設けられた牢獄は、しんと静まり返り、ただ、どこからか滴り落ちる水の音だけが、不気味に、そして単調に響いている。その音は、まるでわたくしの命の終わりを告げる秒針のようにも感じられた。

 わたくしは、冷たい石の床に直接座り込み、鉄格子の嵌まった小さな窓から見える、ほんの僅かな暗い空を、虚ろな目で見上げていた。

 もう、何も感じない。恐怖も、悲しみも、怒りさえも、心の奥底で完全に凍りついてしまったかのようだ。

 ただ、エレオノーラ様の、あの美しい、しかし残酷な微笑みだけが、時折まぶたの裏に焼き付いたように浮かび上がり、鈍い痛みのように胸を締め付けるだけ。


 その時、牢の向こうの薄暗い廊下に、数人の人影と、カツリ、カツリという硬質な足音が近づいてきた。その音は、この静寂の中では、やけに大きく響いた。

 やがて、わたくしの牢の前に立ったのは、王家の金の獅子の紋章を胸につけた、厳めしい顔つきの初老の男性だった。その後ろには、槍を持った護衛の騎士が二人、石像のように微動だにせず控えている。

 男性は、わたくしを値踏みするように一瞥すると、手に持った羊皮紙を広げ、抑揚のない、感情の乗らない声で読み上げ始めた。


「リリアーナ・フォン・ヴァイスハイトに告ぐ」


 その呼びかけに、わたくしの心は、もはや何の反応も示さなかった。まるで、遠いどこか別の世界の出来事を聞いているかのように。


「王太子アルフォンス・ルキウス・エーデルシュタイン殿下は、汝が犯した国家への反逆、王族への危害、及び邪悪なる魔術の使用という大罪を鑑み、また、王家の名誉と国家の安寧を考慮し、本日をもって、汝との婚約を正式に破棄するものである。これは、国王陛下の御名において発せられた、最終通告である。異議申し立ては一切認められぬ」


 婚約破棄。

 その言葉は、まるで風が木の葉を揺らす音のように、わたくしの耳を通り過ぎていった。

 ああ、そう。そうだったわね。わたくしは、あの人の婚約者だった。そんなことも、もう忘れてしまいそうだった。それほどまでに、今のわたくしにとって、それはどうでもいいことだったのだ。


 わたくしは、ただ黙って、使者の顔を見上げていた。

 何かを言うべきなのだろうか。感謝を? 謝罪を? それとも、呪いの言葉を?

 でも、何も思い浮かばない。心は、完全に空っぽで、何の言葉も紡ぎだせない。

 使者は、そんなわたくしの無表情な顔を、不気味なものでも見るかのように一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに無表情に戻り、羊皮紙を巻き納めた。


 彼が去り際に、まるで付け加えるように、しかしその声には明確な悪意を込めて、こう言った。


「……アルフォンス殿下は、この度の悲劇――エリス・ミラー嬢が受けた心身の傷、そして国家を揺るがしかねなかった危機に対し、深く心を痛めておられる。しかし、今は、エリス嬢の献身的で清らかな愛に支えられ、少しずつお元気を取り戻されておいでだ。エリス嬢こそ、次期王妃にふさわしいと、今や王都の誰もが称賛し、祝福しておる。彼女の明るい笑顔は、まさにこの国の未来を照らす光だ」


 その言葉は、わざとらしく、そして残酷に、わたくしへの最後の追い打ちをかけるものだった。


 エリス・ミラー。

 その名前を聞いた瞬間、わたくしの、凍りついていたはずの心の奥底で、何かが、ほんの僅かに、チリリ、と小さな火花を散らしたような気がした。

 それは、憎しみだろうか。

 それとも、もはや、どうでもいいという、完全な諦観だろうか。

 わたくしには、もう分からなかった。ただ、その名前が、胸の奥に小さな棘のように刺さっただけだった。

 使者たちが去り、再び静寂が戻った牢獄で、わたくしは、ただ目を閉じた。

 三日後。

 わたくしの、この無意味で、そして呪われた人生も、ようやく終わるのだ。

 エレオノーラ様。あなたは、きっと、どこかでこの瞬間を、最高の美酒と共に祝っているのでしょうね。

 わたくしの、この惨めな最期を、高みから見下ろしながら。


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