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 リリアーナの、小さく、まだ柔らかそうな指先が、私の白い手袋に触れるか、触れないか――その刹那。

 私は、何事もなかったかのように、スッと手を引いた。

 まるで、そこに最初から何も差し出されていなかったかのように。優雅に、そして、残酷に。


 リリアーナの小さな手は、行き場を失い、所在なげに宙を彷徨った。

 翠の瞳が、驚きと、そして明らかな困惑に見開かれる。なぜ? と、その顔が雄弁に語っていた。


「……え?」


 か細い声が漏れる。

 その顔には、なぜ拒絶されたのか理解できない、という純粋な疑問と、子供らしい、隠しようのない傷ついた色が浮かんでいた。

 完璧だわ。私が望んだ通りの、最高の反応。この無垢な顔が、これからどれだけ歪んでいくのか。想像するだけで、口元が緩みそうになるのを必死でこらえる。


 隣に立つアルブレヒトが、眉をひそめたのが分かった。


「どうしたんだ、エレオノーラ? リリアーナが挨拶を……」


 彼の声には、僅かながら咎めるような響きがある。まだ、彼は父親なのだ。だが、それも今日までだ。


 ――今よ。

 私は、ハッと息を呑むような、驚きと申し訳なさがないまぜになった完璧な表情(もちろん演技)を作って見せた。女優も顔負けのパフォーマンスだ。


「あら、まあ! ごめんなさいまし、リリアーナ様!」


 わざと少しだけ声を高くし、慌てたように両手を胸の前で合わせる。


「わたくしとしたことが……! いけませんわ、リリアーナ様のお爪が、少し伸びていらっしゃるようでしたので……」


 私は悲しげに眉を寄せ、自分の手を見つめる。そこには、もちろん傷一つない。


「わたくし、昔から肌が弱くて……ほんの少し引っかかれただけでも、すぐに赤く腫れてしまうのです。本当にごめんなさい、悪気はなかったのですけれど、つい、反射的に……。怖がらせてしまいましたわね? 本当に、申し訳ありません」


 我ながら完璧な言い訳だ。子供の不注意と、自身の「繊細さ」。これを対比させれば、誰もが私に同情し、子供を責めるだろう。そして、私を『繊細で守られるべき存在』としてインプットさせることができる。


 案の定、アルブレヒトは私の言葉を鵜呑みにした。

 彼の表情から怪訝な色は消え、代わりに娘への軽い叱責の色が浮かぶ。ほら、もう父親の顔は消え失せた。


「そうか、それはいけないな。リリアーナ、淑女たるもの、身だしなみには常に気を配らねば。エレオノーラ様に失礼だろう。後でヒルダに爪を切ってもらいなさい」


 リリアーナは、何か言いたそうに唇を震わせた。違う、と。私の爪は伸びていない、と。そう言いたかったのかもしれない。

 しかし、彼女は何も言えなかった。ただ、小さな顔を俯かせ、床の一点を見つめるだけ。その赤い髪が、震えているように見えた。

 父親にすら信じてもらえない。この無力感こそが、彼女の心を蝕む最初の、そして最も効果的な毒だ。


「さて、エレオノーラ。すまないが、私は少し急ぎの執務があってね。後のことは頼んだよ。リリアーナ、お母様の言うことをよく聞くんだぞ」


 アルブレヒトは、私の肩を優しく叩くと、名残惜しそうにしながらも部屋を出て行った。全く、私の計画にとって、これほど都合の良い男はいない。


 部屋には、私とリリアーナ、そして壁際に控える数人のメイドだけが残された。

 アルブレヒトがいなくなった途端、部屋の温度が数度下がったかのような、冷たい静寂が降りる。


 私はゆっくりと立ち上がり、メイドたちに向かって静かに微笑んだ。それは、先ほどの聖母の微笑みとは違う、女主人としての威厳を含んだ微笑みだ。


「あなたたちは、下がってよろしいですわ。リリアーナ様と、二人きりで、ゆっくりお話ししたいですから」


 メイドたちは、一瞬戸惑ったような顔をしたが、私の有無を言わせぬ視線に気づくと、慌てて一礼し、足音も立てずに部屋から出て行った。

 ――これで、邪魔者はいなくなった。


 私は、ゆっくりとリリアーナの方へ向き直った。

 俯いたままの、小さな背中。まだ、か細く震えている。

 さっきまでの聖母のような微笑みを、私はすっと消し去る。表情筋を動かすのすら億劫だ。

 氷のように冷たい、無表情で。

 私は、彼女の頭上から、静かに言葉を投げかけた。


「……顔を上げなさい」


 私の声には、先ほどの甘さは微塵もない。低く、冷たい響き。

 リリアーナの肩が、ビクッと大きく跳ねる。ゆっくりと、怯えたように顔が上がる。その翠の瞳には、涙が滲んでいた。

 ああ、なんて美しい。なんて、そそられる顔。その涙が、絶望の色に変わるのが楽しみで仕方がない。


 私は、その涙に濡れた瞳を、まっすぐに見据えて、言った。


「……汚らわしい」


 吐き捨てるように。一音一音に、軽蔑を込めて。


「わたくしに気安く触れようなど、十年早いですわね。自分の立場というものを、よく弁えなさいな。――前妻の、出来損ない」


 リリアーナの顔から、サッと血の気が引いた。瞳が見開かれ、恐怖に凍りついている。呼吸すら、忘れているようだ。

 そうだ。それでいい。それが、あなたの定位置よ。

 私は、彼女のその表情を、心の底から堪能した。前世の鬱憤が、少しだけ晴れていくような、甘美な感覚。


 その時、遠くの廊下から、誰かがこちらへ向かってくる足音が聞こえた。アルブレヒトだろうか?

 私は、瞬時に、完璧な仮面を被り直した。

 表情は、心配そうな、優しい継母のものへ。


「まあ、どうなさったの、リリアーナ様? 顔色が優れませんわ。どこか、お加減でも……? やはり、わたくしが来たことで、お疲れが出たのかしら……」


 私は、優しく声をかけながら、そっと彼女の肩に手を――置くふりをした。その小さな身体が、私の影に完全に覆われるのを感じながら。


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