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【クララ視点】
エリス・ミラー様が転入されてから、学院の雰囲気はどこか落ち着かないものになっていました。特に、わたくしの大切な友人であるリリアーナ様に関する、良くない噂が流れ始めたのです。
『リリアーナ様が、エリス様をいじめているらしい』
『あの聖女の力は、実は周囲に不幸をもたらす呪いらしい』
わたくしは、そんな心ない噂を耳にするたび、胸が締め付けられるような思いでした。リリアーナ様は、確かに影があり、あまりご自分からお話しになる方ではありません。でも、わたくしが知るリリアーナ様は、とても繊細で、優しい心をお持ちの方。疫病の村で、あんなにも懸命に人々を助けようとなさった方が、平民だからといって、何の罪もないエリス様をいじめたり、ましてや呪いの力など持っているはずがないと、固く信じておりました。
「リリアーナ様は、決してそのような方ではございませんわ」
わたくしは、噂を口にする令嬢たちに、何度もそう反論しました。リリアーナ様が、どれほど誤解されやすい方か、そしてどれほど優しい方かを知っていたから。
しかし、エリス様の涙ながらの訴えは、実に真に迫るものでした。
「わたくし、何かリリアーナ様のお気に障るようなことをしてしまったのでしょうか……。でも、何も思い当たらないのです。教科書がインクで汚されていたり、大切にしていたリボンが切り刻まれていたり……。誰も信じてくれないかもしれないけれど、リリアーナ様に逆らうのが怖くて、何も言えなくて……うっ」
そう言って、ハンカチで目元を押さえるエリス様の姿は、本当に可哀想で、周囲の令嬢たちは次々と彼女に同情的になっていきました。
そして、それに呼応するかのように、「そういえば、わたくしも見たわ、リリアーナ様がエリス様のロッカーの前で何かをしていたのを……」「リリアーナ様の部屋から、夜中に時々不気味な光が漏れているのを見た方がいるらしいわよ。きっと呪いの儀式を……」などと、リリアーナ様の奇妙な行動を見たという証言が、まことしやかに囁かれ始めたのです。
わたくしだって、心の奥底で、小さな不安が芽生えていなかったわけではありません。
リリアーナ様の、あの全てを拒絶するような、虚ろな瞳。心を閉ざし、何も語ろうとしない態度。そして、あのサンルームで見た、常人にはありえない、花を蘇らせる不思議な力……。それは、聖なる力だと信じたかったけれど、もし、あの不吉な噂が本当なら……?
エレオノーラ様からも、時折、「リリアーナは、少し心が不安定で、時に思いもよらない行動をとってしまうことがあるのです。クララさん、あなたが友人として、あの子を正しい方へ導いてあげてちょうだいね」と、心配そうに(しかし、どこか意味ありげな表情で)言われることもありました。
それでも、わたくしは信じたかった。わたくしが見た、リリアーナ様のほんの僅かな笑顔や、言葉の端々に感じられた優しさを。
そんなある日の放課後。
わたくしは、図書室でリリアーナ様を待っていました。一緒に帰る約束をしていたのです。
しかし、約束の時間を過ぎても、リリアーナ様はいらっしゃいません。心配になって探しに行こうとした時、図書室の裏手にある、あまり人の来ない古い書庫の方から、小さな言い争うような声と、パリン、と何かが割れるような鋭い音が聞こえました。
胸騒ぎを覚え、慌てて駆けつけると、そこには……エリス様が床に座り込み、割れたインク瓶と、インクで汚れてしまった大切な本――それは彼女が故郷の母親から贈られた唯一の本だと聞いていました――を前にして、声を上げて泣いていました。そして、その少し離れた場所に、リリアーナ様が、青ざめた顔で、何も言わずに立ち尽くしていたのです。
「リリアーナ様……これは……一体、何があったのですか?」
「ち、違う……わたくしじゃ……わたくしは、何も……」
リリアーナ様はか細い声で呟きましたが、その手には、なぜかインクの染みが僅かについているように見えました。まるで、慌てて拭ったかのように。
エリス様は、わたくしに気づくと、わっと泣き崩れました。
「クララ様……! わたくし、ただ本を読んでいただけなのに……リリアーナ様が、突然、わたくしを睨みつけて……! そして、この本を……! この本は、お母様の、たった一つの形見なのに……ひどいわ……ひどすぎますわ……!」
わたくしは、言葉を失いました。目の前の光景が、信じられませんでした。
リリアーナ様に、「違う」と、はっきりと言ってほしかった。でも、彼女はただ俯いて、震えているだけ。何も弁解しようとはしませんでした。
その夜、わたくしは眠れませんでした。あの光景が、エリス様の涙が、そしてリリアーナ様のあの不可解な沈黙が、何度も何度も頭の中で繰り返されるのです。
数日後、わたくしは勇気を出して、リリアーナ様に直接尋ねました。「あの時のこと……本当のことを教えてくださいませんか。わたくしは、あなたを信じたいのです」と。
でも、リリアーナ様は、ただ「……わたくしでは、ありません。信じてくださいとは言いませんわ」と力なく繰り返すだけで、それ以上何も語ろうとはしませんでした。その瞳は、どこか虚ろで、わたくしを、そして世界全てを拒絶しているようにさえ見えました。
そして、決定打となったのは、数日後、匿名でわたくしの元に届けられた、一枚の羊皮紙でした。
そこには、エドガー先生がまとめたという『リリアーナ様の力に関する考察報告書』の、一部が書き写されていました。そこには、リリアーナ様の力が、過去に数々の災厄をもたらした『アリアの呪い』と酷似していること、そして、その力の持ち主は、精神が不安定になると、周囲に悪意を振りまき、破壊的な行動をとる傾向がある、と詳細に記されていました。その筆跡は、エドガー先生のものに間違いありませんでした。
ああ、リリアーナ様は……。
わたくしが信じていたリリアーナ様は、もうどこにもいないのかもしれない。
あの優しい笑顔も、一緒に花を愛でた時間も、全て、わたくしを欺くための、偽りだったのかもしれない。
そう思うと、胸が張り裂けそうに痛みました。悲しくて、悔しくて、そして、どこかで納得してしまっている自分もいました。これまでの不可解な出来事が、全て繋がってしまったように感じたのです。
わたくしは、もう、リリアーナ様を信じることができなくなってしまったのです。彼女のそばにいることが、怖くなってしまったのです。
次の日から、わたくしは、リリアーナ様に話しかけるのをやめました。彼女のそばから、静かに、そして永遠に離れることを決めたのです。悲しいけれど、それが正しいことだと思いました。
【リリアーナ視点】
クララ様が、わたくしを避けるようになった。
最初は気のせいかと思った。でも、違う。彼女はもう、わたくしに微笑みかけてはくれない。昼食も、図書室も、もう一緒ではない。すれ違っても、気まずそうに、そしてどこか怯えたように目を逸らすだけ。
なぜ? どうして?
エリス様の嘘を、クララ様まで信じてしまったの? わたくしが、何も言わないから?
わたくしの、たった一人の友達だったのに。
わたくしの、最後の心の支えだったのに。
それもまた、エレオノーラ様が、あの人が、遠い場所から奪ったの?
わたくしは、もう、本当に一人ぼっちだ。
底なしの暗闇に、ただ一人、突き落とされたような、息もできないほどの、絶望的な気持ちだった。もう、何もかも、どうでもいい。
「どうして……みんなはなれていくの………………」