ターニングポイント
エリス・ミラー様が転入してから数日後。学院内に、奇妙な、そしてわたくしにとって不都合な噂が、まるで水面に広がる油のように、じわじわと流れ始めた。
『エリス様が、リリアーナ様にいじめられているらしいわ』
『教科書を隠されたり、持ち物にいたずらされたりしているんですって。陰湿ですわね』
『平民だからって、あんまりだわ! ヴァイスハイト家の令嬢ともあろう方が!』
最初は、誰もが半信半疑だった。あの、いつも俯いて影の薄い、声も小さいリリアーナ様が、そんな大胆で悪質なことをするだろうか、と。
エリス様は、ことあるごとに目に涙を浮かべ(わたくしにはそれが巧妙な演技だと分かったけれど、他の純粋な令嬢たちには通じただろう)、仲良くなった数人の令嬢たちに
「リリアーナ様は、普段は大人しそうに見えるけれど、二人きりになるととても冷たくて……その、美しいお顔からは想像もつかないようなことを……うっ、わたくし、何かしてしまったのかしら……」
と、か弱く、そして巧みに訴えていた。
しかし、その訴えには具体的な証拠が乏しく、どこか子供っぽい、作り話のような印象も受けた。彼女の言う「いたずら」も、誰の目にも触れないような、些細なことばかりだった。
それでも、エリス様の明るい性格と、その涙ながらの健気な訴えは、徐々に一部の貴族令嬢たちの同情を集め始めた。
特に、元々わたくしのことを快く思っていなかった者たち――殿方に媚を売っている、何を考えているか分からない、などと陰口を叩いていた令嬢たち――は、「やはり、あの暗い方は、裏で何を考えているか分からないわ」「平民だからといって、見下していじめるなんて、侯爵令嬢として最低ね。聖女なんて真っ赤な嘘よ」と、ここぞとばかりにエリス様の味方についた。
わたくしのこれまでの「近寄りがたい」「何を考えているか分からない」という、エレオノーラ様によって長年かけて作り上げられた評判も、その悪質な噂に信憑性を与えるのに、皮肉にも一役買っていたのだろう。
そこへ、まるでタイミングを合わせたかのように、王都の社交界や教会関係者の間で囁かれていたという、もう一つの不吉な噂が、学院の生徒たちの、特に情報通の令嬢たちの間にも広まり始めた。
『ヴァイスハイト家のリリアーナ様の持つ『奇跡の力』は、実は古代の文献に記された『アリアの呪い』に酷似しているらしい』
『最初は祝福のように見えるが、やがて制御不能になり、周囲に災厄をもたらす危険な力だとか。触れただけで植物が異常な成長を遂げたり、小動物が怯えたりするそうだわ』
『教会も、その力を大変憂慮し、密かに調査を進めているらしいわよ』
その噂の出所は誰も知らなかったが、それはじわじわと、しかし確実に、人々の心に得体の知れない恐怖の種を植え付けていった。
そして、その二つの噂は、最悪の形で結びついた。誰かが意図的にそう仕向けたかのように。
『エリス様がリリアーナ様にいじめられているのは、リリアーナ様のあの『呪いの力』のせいではないかしら? 目に見えない力で、エリス様を苦しめているのではなくて?』
『あの暗さは、きっと邪悪な力のせいよ。力を使って、エリス様を呪っているのかもしれないわ! あの力で、教科書を隠したり、持ち物を壊したりなんて、簡単でしょうね!』
『聖女様だなんて、とんでもない! あれは紛れもない魔女よ! 危険だわ!』
そんな、悪意に満ちた憶測が、まるで伝染病のように学院中に広がっていった。
わたくしは、もはや「聖女」ではなく、「危険な呪いの力を持つ、陰湿ないじめを行う悪役令嬢」として、人々の目に見られるようになっていた。
クララ様は、最初はそんな噂を「馬鹿げているわ! リリアーナ様が、そんなことをするはずがありません! あの方は、そんな方では……」と、きっぱりと否定してくれた。わたくしの前でも、他の生徒たちの前でも、変わらずわたくしの味方でいてくれた。
その優しさが、どれほどわたくしの心を支えてくれたことか。
しかし、噂は日に日に悪質になり、そして、どこからか『リリアーナ様の奇行の証拠』とされるものが、クララ様の耳にも入るようになったらしかった。
それは、アネットがエレオノーラ様に報告していたわたくしの日常の些細な行動の断片や、エドガー先生が『アリアの呪い』についてまとめた、もっともらしい報告書の一部が、巧妙に歪められ、脚色されて伝えられたものだった。エレオノーラ様が、陰ながらエリス様の杜撰な嘘を『補強』し、完璧な『証拠』へと仕立て上げていたのだ。
クララ様は、それでもわたくしを信じようとしてくれていた。でも、彼女の美しい琥珀色の瞳には、次第に不安と戸惑いの色が、隠しきれないほど浮かぶようになっていった。
「リリアーナ様……本当に、何も……エリス様に、何もしていないと、誓えますの……?」
そう尋ねる彼女の声は、以前のような確信に満ちたものではなくなっていた。その声は、震えていた。
そして、少しずつ、彼女はわたくしと距離を置くようになった。昼食も、図書室も、以前のように一緒に過ごすことは減っていった。わたくしに話しかける彼女の言葉は、どこかぎこちなく、その笑顔も痛々しかった。
わたくしは、エリス様の嘘と、周囲の冷たく突き刺さるような視線、そして何よりも、クララ様の態度の変化に、深く、深く傷ついていた。
やっと見つけた、小さな、大切な光だったのに。それもまた、エレオノーラ様の、あるいはこの世界の悪意によって、容赦なく奪い去られようとしている。
わたくしは、また、あの屋敷にいた頃のような、底なしの孤独へと、ゆっくりと、しかし確実に引き戻されていくのを感じていた。
◇
エレオノーラは、王都の別邸で、アネットからの詳細な報告書を読みながら、満足げに微笑んでいた。
(フフ、エリスという駒は、思った以上に使えるわね。あの子の子供っぽい嘘も、わたくしが少し手を加えて、情報を流してあげれば、ほら、この通り立派な『真実』になるのよ。クララとかいう、あの虫の良い令嬢も、もうすぐリリアーナを見限るでしょうね。可哀想に。友情なんて、なんて脆くて、利用しやすいのかしら)
彼女の次の手は、もう打たれている。リリアーナの完全な孤立と、そして破滅は、刻一刻と近づいていた。