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転入初日の授業が終わり、教室が少し騒がしくなった頃。
わたくしが、クララ様と小さな声で次の授業の準備について言葉を交わしていると、あの転校生――エリス・ミラー様が、まるで最初からそこにいたかのように、まっすぐにこちらへやってきた。
その足取りには一切のためらいがなく、周囲の貴族令嬢たちが送る好奇と侮蔑が入り混じった視線など、まるで気にも留めていないようだった。その鋼のような精神力は、ある意味羨ましいとさえ思った。
「リリアーナ様、クララ様、先ほどはご挨拶ありがとうございました! これからよろしくお願いいたしますね!」
彼女は、太陽のような快活な笑顔で、わたくしたちに屈託なく話しかけてきた。その距離感の近さに、わたくしは思わず一歩後ずさりそうになる。
「エリス様……こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
わたくしは、戸惑いながらも、かろうじてそう答えた。クララ様も、少し驚いたように彼女を見ていたが、すぐに持ち前の優雅さで応じる。
「まあ、エリス・ミラー様。ご丁寧にどうも。わたくしはクララ・フォン・ベルンシュタインですわ。どうぞよろしくて」
「ベルンシュタイン伯爵ご令嬢でいらっしゃいますのね! お噂はかねがね伺っておりますわ。どうぞ、エリスとお呼びくださいまし! わたくしも、クララ様、リリアーナ様とお呼びしても?」
その馴れ馴れしいとも取れる口調に、クララ様の眉がほんの僅かに動いたが、彼女はすぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「ええ、もちろんよろしいですわ」
エリス様は、わたくしに向き直ると、キラキラとした、しかしどこか探るような瞳で言った。
「リリアーナ様! わたくし、リリアーナ様のような素晴らしい方に、少しでも近づけるよう、一生懸命勉強いたしますわ! わたくしのような平民が、こうして皆様と同じ学び舎にいられること、そして、アルフォンス殿下のような雲の上の方と、同じ空気を吸えるなんて、夢にも思いませんでしたもの! リリアーナ様は、殿下とはもう何度もご一緒されているのでしょう? 羨ましいですわ!」
その言葉は、一見すると謙虚で、憧れを抱いているように聞こえる。でも、その実、わたくしを試すような響きがあった。まるで、わたくしが「平民の分際で殿下の名を軽々しく口にするでないわ! 馴れ馴れしい!」とでも言って、彼女を罵倒するのを期待しているかのように。原作の悪役令嬢なら、きっとそうしただろう。
しかし、今のわたくしに、そんな気力も、そんな言葉も、出てくるはずがなかった。エレオノーラ様の『教育』は、わたくしからそのような傲慢さを(少なくとも表面上は)奪い去っていた。
わたくしは、ただ、俯き加減に、「……そ、そうですか……。殿下とは、まだ、それほど……」と、力なく答えるだけだった。
(――あれ? おかしいわね……。全然、反応が違うじゃない)
エリスは内心で首を傾げた。
(原作の悪役令嬢リリアーナなら、ここで「平民の分際で、殿下の名を軽々しく口にするでないわ!」くらい、ヒステリックに叫んで、わたくしに平手打ちの一つでもかますはずなのに……。今のリリアーナは、なんだか……ただの臆病で、影の薄い、おどおどした子? もしかして、まだ猫を被ってるのかしら? それとも、私が知らないうちに、何か重要なイベントでもあって、性格が変わっちゃったの? でも、油断は禁物よ。早く、あの高慢ちきな本性を現させないと、私のヒロインルートが始まらないじゃない! 王子様とのハッピーエンドのためには、リリアーナが悪役として断罪される必要があるんだから!)
エリスは、転生者としての知識と、自分がヒロインとして輝くためのシナリオを思い描いていた。そのためには、リリアーナが「分かりやすい悪役」として行動してくれる必要があったのだ。
「リリアーナ様、そのお持ちの本、とても難しそうですわね! さすがは侯爵令嬢でいらっしゃいますわ! わたくしにも、いつか教えていただけますか?」
エリスは、そう言いながら、わたくしが机の上に置いていた歴史の教科書に、わざとらしく手を伸ばした。そして、その手が「うっかり」滑ったかのように、教科書を床に落としたのだ。
バサリ、と重い音が響く。
周囲の生徒たちの視線が、一瞬こちらに集まった。
(さあ、ここで怒鳴りなさい!「無礼者! 平民のくせに私の物に触るな!」って!)
エリスは、期待を込めてわたくしを見た。
しかし、わたくしは、ただ黙って椅子から立ち上がり、床に落ちた教科書を拾い上げただけだった。そして、何も言わずに、再び席に着き、汚れたかもしれない表紙をハンカチでそっと拭った。エレオノーラ様に見つかれば、また何を言われるか分からないから。
(……えええ? なによ、この反応……。全然、原作と違うじゃない! これじゃあ、いじめられたって騒げないわ! 本当に、ただの気弱な子なの? それとも、もっと巧妙に隠してる?)
エリスは、内心でさらに戸惑い、そして少しイラっとした。これでは、計画が台無しだ。
(こうなったら……仕方ないわね。彼女がいじめてこないなら、いじめてきた『ように』すればいいのよ! そうよ、それが一番手っ取り早いわ! 証拠なんて、後からいくらでも作れるんだから! ちょっと可哀想だけど、これも私が幸せになるため。リリアーナさん、ごめんね!)
エリスの頭の中に、悪辣な、しかしどこか子供っぽい考えが浮かび始めていた。原作知識がある自分が、少し手を加えれば、リリアーナを悪役に仕立て上げることなど造作もないはずだ、と。
しかし、彼女はまだ子供。その計画は、杜撰で、稚拙なものにならざるを得ない。
――だが、その杜撰さを、影で完璧に補強し、リリアーナを確実に破滅へと導く、真の悪魔がいることを、エリスも、そしてリリアーナも、まだ知らない。
「そ、それでは、わたくし、これで失礼いたしますわ! またお話ししましょうね、リリアーナ様、クララ様! これから、どうぞよろしく!」
エリスは、内心の動揺と企みを隠し、先ほどと同じ太陽のような笑顔を浮かべて、足早に去っていった。
残されたわたくしとクララ様は、顔を見合わせた。
「……なんだか、不思議な方ですわね、エリス様は。嵐のようですわ」
クララ様が、困惑したように、しかしどこか面白そうに呟いた。
わたくしも、同じ気持ちだった。彼女の、あの掴みどころのない態度と、時折見せる鋭い視線。それが、わたくしの心に、新たな不安の種を、そして不吉な予感を植え付けていた。
穏やかだった(ように見えた)日々に、確かに、そして大きな亀裂が入り始めたのを、わたくしは感じていた。