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 クララ様という、生まれて初めての『友達』ができてから、そしてアルフォンス殿下とも穏やかな言葉を交わすようになってから、わたくしの学院生活は、まるで薄氷の上に咲いた一輪の花のように、儚くも美しい日々が数週間続いていた。

 もちろん、周囲の嫉妬の視線が消えることはなかったし、アネットの冷たい監視の目は常に光っていた。エレオノーラ様からの手紙も、相変わらず美しい言葉の裏に、鋭い棘を隠して定期的に届いた。

 それでも、わたくしは、クララ様の隣で図書室の窓から差し込む陽だまりの中で本を読んだり、殿下と庭園の珍しい花について語り合ったりする時間に、ほんの僅かな、しかし確かな安らぎと、そして淡い喜びを感じていた。

 このまま、時が止まればいいのに。そんな、叶うはずもない願いを、心の奥底で密かに抱きながら。


 そんなある月曜日の朝、学院に新しい噂が、まるでさざ波のように静かに、しかし確実に広まり始めていた。


「聞いた? 今日、新しい方がいらっしゃるんですって」

「まあ、この時期に転校生ですの? どこのご令嬢かしら。それとも、外国からのお客様?」

「それが……なんと、平民出身の特待生らしいわよ!」

「平民ですって!? この、王立貴族学院に!? そんなこと、前代未聞じゃなくて!? いったい、どんな方が……」


 貴族の子女しかいないこの学院では、それはまさに青天の霹靂のような出来事だった。生徒たちの間では、好奇心と、そしてそれ以上の、選民意識からくる侮蔑と警戒の念が渦巻いていた。

 わたくしも、その噂を耳にして、なぜか胸騒ぎがした。平民の特待生……。それは、この厳格な階級社会に生きる私たちにとって、あまりにも異質な存在。そして、異質なものは、いつだって波乱を呼ぶのだから。


 その日の最初の授業が始まる前、担任の教師である初老の侯爵夫人に連れられて、その転校生は教室に現れた。

 エリス・ミラー。

 それが、彼女の名前だった。

 太陽の光を浴びて輝くような、明るい栗色の髪を活動的なポニーテールにし、大きな鳶色の瞳は、好奇心いっぱいに、そして何よりも強い意志をもってきらきらと輝いている。制服は、貴族の令嬢たちのような高価なレースや複雑な刺繍はないけれど、きちんと着こなされ、清潔感が溢れていた。

 彼女は、教室中の好奇と侮蔑が入り混じった視線にも、物怖じ一つせず、にこやかな笑顔で教壇に立った。


「はじめまして! わたくし、エリス・ミラーと申します! この度、大変光栄なことに、特待生として皆様と共に学ばせていただくことになりました! 至らない点も多いかと存じますが、一日も早く皆様と打ち解け、共に成長していけたらと願っております! どうぞよろしくお願いいたします!」


 その声は、鈴が鳴るように明るく、快活で、聞いているだけで元気が出てくるような響きを持っていた。

 平民とは思えないほどの堂々とした態度と、時折見せる知性の片鱗に、アルフォンス殿下や一部の教師は、明らかに好意的な視線を送っていた。


 しかし、多くの貴族令嬢たちは、その態度が気に入らないようだった。


『平民のくせに、馴れ馴れしいというか、厚かましいというか……』

『殿下にあんななれなれしい口をきくなんて、身の程知らずも甚だしいわ』

『どうせ、魔法の才能か何かで特待生になったのでしょうけど、品性というものが……』


 そんな囁きが、扇の陰から、あちこちから聞こえてくる。

 わたくしは、そのエリスという少女から、目が離せなかった。

 彼女の、あの自信に満ちた笑顔。あの、何も恐れないかのような強い瞳。それは、今のわたくしが失ってしまったもの全てを持っているように見えた。

 そして、なぜか、言いようのない胸騒ぎがした。まるで、遠い昔に何かを忘れてきたような、あるいは、これから何かとてつもない嵐がやってくるような、奇妙な感覚。


 エリスは、自己紹介の最後に、くるりと教室を見渡し、そして、わたくしの席を見つけると、にっこりと、しかしどこか意味ありげな、挑戦的な笑顔を向けた。


「皆さんと仲良くなりたいです! 特に、リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト様の素晴らしい『聖女』としてのご活躍も、かねがね伺っております! わたくし、リリアーナ様のようになれるよう、一生懸命頑張りますので、どうか色々教えてくださいましね!」


 その言葉は、他の生徒たちへの牽制のようでもあり、わたくしへの宣戦布告のようでもあった。その笑顔の裏には、何か別の色が隠されているような気がしてならなかった。

 わたくしは、彼女のその笑顔に、エレオノーラ様とはまた違う種類の、しかしどこか通じるような、何か底知れないものを感じ取り、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


(この人は……一体……? どうして、わたくしのことを、そんな目で……)


 新しい波乱の予感が、静かに、しかし確実に、わたくしの心を覆い始めていた。

 穏やかだった(ように見えた)日々は、もう、終わりを告げようとしているのかもしれない。


 ――その頃、エリスは内心でほくそ笑んでいた。


(ふふん、見つけたわ、リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト! 原作通りの悪役令嬢ね! ちょっと影があるけど、まあ、設定通りってところかしら。聖女なんて呼ばれてるみたいだけど、どうせすぐに化けの皮が剥がれるんでしょ? さあ、これからせいぜい、私の引き立て役として、そして王子様と私の仲を進展させるための『障害』として、大いに活躍してもらわないとね! ああ、この世界に来て本当に良かった! 今度こそ、私が、私がハッピーエンドを掴むんだから!)


 彼女もまた、この世界に強い意志と目的を持ってやってきた、もう一人の『転生者』だったのだ。そして、彼女の知る『原作』では、リリアーナは断罪される運命だった。

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