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 アルフォンス殿下が、わたくしのような者に声をかけてくださったという事実は、まるで学院中に翼が生えたかのように瞬く間に広まった。

 しかし、それでわたくしへの扱いが劇的に変わることはなかった。

 むしろ、嫉妬の視線はより鋭く、より粘着質なものになり、遠巻きにヒソヒソと噂されることは増えたように思う。


『殿下は、あの方の『聖女の力』に興味をお持ちなだけですわ。気まぐれよ、きっと』

『ヴァイスハイト家に取り入ろうとしていらっしゃるのよ、何か裏があるに違いないわ』

『でも、あんなに暗くて、何を考えているか分からないような方と、殿下が本当にご婚約なさるのかしら?』


 そんな、悪意に満ちた言葉が、風に乗って耳に届くたび、わたくしの心は小さく、しかし確実に軋んだ。

 やはり、わたくしは歓迎されない存在なのだ。一時的に殿下が優しくしてくださったとしても、それは嵐の前の静けさに過ぎないのかもしれない。


 そんなある日の放課後。

 わたくしは、喧騒を避けるように、学院の広大な図書室の最も奥まった一角で、古い植物図鑑を眺めていた。ここなら、誰もわたくしに注目しない。ここだけが、学院の中で唯一、息ができる場所だった。

 ふと、誰かの気配を感じて顔を上げると、一人の令嬢が、少し離れた本棚の前で、こちらをためらうように見ていた。

 落ち着いた栗色の髪をシンプルにまとめ、派手さはないけれど上質で趣味の良いドレスを身にまとった、穏やかで知的な雰囲気の少女だった。どこかで見たことがあるような気もするが、はっきりとは思い出せない。


 彼女は、わたくしの視線に気づくと、少しだけ頬を赤らめ、しかし意を決したように、こちらへ静かに歩み寄ってきた。


「あ、あの……リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト様、ですわよね?」


 その声は、囁くように小さく、しかし澄んでいた。


 わたくしは、驚いてこくりと頷いた。今まで、こんな風に真正面から話しかけられたことは、殿下を除いては、ほとんどなかったから。大抵は、遠くから好奇の目で見られるだけだ。


「わたくし、クララ・フォン・ベルンシュタインと申します。……突然お声がけして、申し訳ありません」


 彼女は丁寧にカーテシーをした。その所作は流れるように美しく、育ちの良さを感じさせる。ベルンシュタイン伯爵家といえば、古くから続く由緒正しい家柄だ。

 「先日、殿下と食堂でお話しされているのをお見かけいたしました。そして……その、わたくし、あなたの故郷の村での噂を、父から聞いておりましたの。疫病から多くの方々をお救いになったと……。本当に、素晴らしいお力をお持ちなのですね。心から、尊敬申し上げております」

 クララ様の言葉には、お世辞や下心は一切感じられなかった。ただ、純粋な、真っ直ぐな尊敬の念が込められているように思えた。その琥珀色の瞳は、どこまでも誠実そうだった。


 わたくしは、戸惑った。


「そ、そんな……わたくしなど……ただ、偶然、力が……それに、聖女だなんて、とんでもないことですわ……」

「偶然ではございませんわ。それは、リリアーナ様の清らかなお心と、特別な天賦の才が起こした奇跡です」


 クララ様は、きっぱりと言った。その優しいけれど、どこか芯の通った強い眼差しに、わたくしはなぜか、ほんの少しだけ、信じてもいいのかもしれない、と思えた。エレオノーラ様やアネットとは違う、温かい何かを感じたのだ。


「もし、ご迷惑でなければ……少し、お話しさせていただいても、よろしいでしょうか? わたくし、薬草や植物について学ぶのが好きで、リリアーナ様のお力についても、そして、そのお力でどのようなことができるのか、もっとお聞きしたいのです」


 彼女の言葉は、まるで温かい陽だまりのように、凍りついていたわたくしの心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めた。


「……はい。わたくしで、よろしければ……」


 その日、わたくしたちは、図書室の片隅で、小さな声で、たくさんお話をした。好きな本のこと、庭の花のこと、そして、少しだけ、わたくしの力のことも。クララ様は、ただ、静かに、そして真剣に耳を傾けてくれた。わたくしの言葉を、否定もせず、疑いもせず、ただ受け止めてくれた。


 それから、クララ様は、毎日わたくしに声をかけてくれるようになった。

 昼食も、最初は遠慮していたけれど、彼女が「リリアーナ様さえよろしければ、ご一緒してもよろしいかしら?」と優しく誘ってくれ、二人で食べるようになった。

 他の生徒たちが、どんなにわたくしを敬遠し、陰口を叩こうとも、クララ様だけは、いつも変わらず、穏やかな笑顔でわたくしに接してくれた。彼女は、周囲の雑音など気にも留めないようだった。

 彼女と一緒にいると、息苦しかった学院の空気も、少しだけ、楽になるような気がした。

 これが、『友達』というものなのだろうか。

 わたくしは、生まれて初めて、そんな温かい、くすぐったいような感情を胸に抱き始めていた。

 この幸せが、この穏やかな日々が、少しでも長く続けばいい。そう、心の底から願った。この学院にきて、初めて抱いた前向きな願いだった。


 もちろん、その全ての様子は、アネットを通じて、逐一エレオノーラ様の耳に入っていた。


『リリアーナ様は、最近、ベルンシュタイン伯爵家のご令嬢、クララ様と大変親しくなさっておいでです。お二人で、よく図書室や中庭でお過ごしのご様子。リリアーナ様も、以前よりは少しだけ、お顔色がよろしいようで、稀にですが、微笑まれることも……』


 その報告を聞いたエレオノーラは、王都の別邸の執務室で、届いたばかりの手紙を読みながら、くすりと、まるで毒花が開くかのように微笑んだ。


「フフ……友達、ですって? いいことじゃありませんか。存分に友情ごっこを楽しみなさいな。その純粋な信頼が、脆くも崩れ去る瞬間が、今からとても楽しみだわ。ベルンシュタイン家も、色々と利用価値がありそうね……♥ さて、そろそろ、あの『転校生』を舞台に上げる準備も始めなくては」


 彼女の計画にとって、リリアーナの一時的な幸福など、より深い絶望を生み出すための、ほんのスパイスに過ぎなかったのだ。そして、そのスパイスは、多ければ多いほど、料理の味を引き立てるものだった。


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