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 わたくしが十四歳の秋。ヴァイスハイト侯爵領の南端に位置する、小さな村で原因不明の疫病が流行り始めた。

 最初は家畜が次々と倒れ、やがて人々も高熱と激しい咳に苦しみ、次々と床に就いた。近隣の村々にも瞬く間に広がりを見せ、領内は重苦しい不安と恐怖に包まれた。

 お父様は連日、役人たちと対策を協議していたが、どのような薬草も効果がなく、王都から呼び寄せた医師たちも首を捻るばかり。領民たちの間では、「悪霊の仕業だ」「何かの呪いだ」といった不穏な噂が、まことしやかに流れ始めていた。


 そんな時、エレオノーラ様が、お父様の書斎で神妙な顔つきで進言したのを、わたくしは扉の外で聞いてしまった。アネットに、お父様の書斎へお茶を運ぶよう言いつけられ、偶然通りかかったのだ。その会話は、わたくしの運命を大きく変えることになる。


「旦那様、このような時に不謹慎かと存じますが……もしかしたら、リリアーナ様のあの『特別な力』が、この苦境をお救いできるかもしれませんわ」

「リリアーナの力だと……? あの、花を蘇らせたという……しかし、あれが病に効くなどと、そんなことがあり得るのか……?」


 お父様の声には、戸惑いと、僅かな期待が混じっていた。


「分かりません。でも、試してみる価値はあるのではないでしょうか。もし、リリアーナ様の力が本当に神聖なものであれば、これは神が与えてくださった試練であり、リリアーナ様が、ヴァイスハイト家の者として、そして将来王太子妃となるかもしれない者として、民のために徳を積む、またとない好機ですわ。領民たちも、きっとリリアーナ様を聖女として崇めることでしょう」


 エレオノーラ様の声は、まるで聖女が神託を告げるかのように、清らかで、抗いがたい説得力に満ちていた。


「もちろん、リリアーナ様ご自身にご負担がかかるやもしれません。ですが、わたくしもエドガー先生も付き添い、万全の体制で臨みます。どうか、旦那様、ご決断を」


 お父様は、しばらく沈黙していた。領地の危機、娘の未知の力、そして何よりも、彼が全幅の信頼を寄せるエレオノーラ様の言葉。

 やがて、彼は重々しく口を開いた。


「……分かった。エレオノーラ、君に任せる。リリアーナに、協力を命じよう。ただし、決して無理はさせるな。そして、君たちも細心の注意を払うように。もし、リリアーナに何かあれば……」

「はい、旦那様。必ずや、良い結果をご報告いたしますわ。リリアーナ様のお力は、きっとこの領地を救う光となりますわ」


 エレオノーラ様の声は、喜びで弾んでいるように聞こえた。

 わたくしは、その会話を盗み聞きしながら、言いようのない不安に襲われた。また、あの人が、何かを企んでいる。わたくしの、あの得体の知れない力を、今度は大勢の前で利用しようとしている。


 翌日、わたくしはエレオノーラ様とエドガー先生、そして数人の護衛騎士と共に、疫病が最も深刻な村へと、重々しい馬車で向かった。

 村の光景は、想像を絶するものだった。

 道端には、力なく座り込む人々。家々からは、苦しげな咳の音と、か細いうめき声が絶え間なく聞こえる。畑は荒れ果て、家畜は痩せこけて横たわっている。絶望が、まるで黒い霧のように、村全体を覆っていた。

 わたくしは、そのあまりの惨状に、思わず息を呑んだ。胸が痛んだ。

 エレオノーラ様は、わたくしの手を取り、聖母のように優しく微笑んだ。


「リリアーナ様。あなたのその『お力』で、この方々をお救いするのです。何も恐れることはありませんわ。ただ、あなたが心から彼らの救済を願えば、きっと奇跡は起こります。さあ、勇気を出して」


 彼女の言葉は、まるで甘い呪文のようだった。その瞳の奥に潜む冷たい光に気づきながらも、わたくしは抗えなかった。

 わたくしは、自分の力が怖い。でも、目の前で苦しんでいる人々を見ていると、心の奥底から、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは、同情、というにはあまりにささやかで、でも、無視できない感情だった。もし、わたくしのこのよく分からない力が、少しでもこの人たちの役に立つのなら……。

 わたくしは、一番近くで苦しそうに咳き込んでいる老婆のそばに、おずおずと近づき、その皺だらけの、冷たくなった手に、そっと触れた。そして、強く、強く念じた。


(どうか、この苦しみが和らぎますように。どうか、元気になりますように)


 すると、どうだろう。

 わたくしの指先から、また、あの温かい、淡い緑色の光が溢れ出した。

 光は、老婆の手を優しく包み込み、やがて、その痩せた全身へと広がっていく。

 老婆の苦しげな呼吸が、少しずつ、少しずつ穏やかになっていく。土気色だった顔色も、心なしか血の気を取り戻してきたようだ。


「……ああ……楽に……なった……。温かい……」


 老婆が、か細い声で呟き、わたくしの手を見つめた。

 周囲で見ていた村人たちが、息を呑むのが分かった。

 わたくしは、次々と、苦しむ人々に手を触れていった。そのたびに、同じように光が溢れ、彼らの苦痛は和らいでいった。枯れかけていた井戸のそばの草木も、みるみるうちに瑞々しい緑を取り戻していく。

 やがて、村中が、歓喜の声に包まれた。


「聖女様だ!」

「奇跡だ!」

「ヴァイスハイト様のお嬢様が、我々をお救いくださったのだ!」


 人々は、わたくしの前にひざまずき、涙ながらに感謝の言葉を口にした。

 わたくしは、生まれて初めて、誰かの役に立てたという実感と、人々からの純粋な感謝の気持ちに触れ、戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 これが、わたくしの力……? もしかしたら、これは、本当に良い力なのかもしれない……。

 ほんの一瞬、わたくしの心に、小さな、本当に小さな希望の光が灯った気がした。


 エレオノーラ様は、その光景を、満足げな、そしてどこか計算高い微笑みを浮かべて見守っていた。

 彼女は、村人たちの歓声の中心に立つわたくしに近づき、その肩を優しく抱いた。


「素晴らしいわ、リリアーナ様。あなたは、本当に奇跡を起こしたのよ。これこそ、神がお与えになった祝福の力ですわ」


 その声は、誇らしげだった。


(フフ、そうよ、リリアーナ。もっと称賛されるがいいわ。もっと、自分が特別な存在だと信じるがいい。高く高く持ち上げてあげる。その方が、そこから突き落とされた時の絶望は、より一層甘美なものになるのだから。あなたのその『聖女の力』が、やがてあなたを『魔女』へと変える、その瞬間が待ち遠しいわ……♥ 今は、ほんの僅かな飴の味を、存分に楽しむといい)


 エレオノーラの瞳の奥で、次なる罠が、静かに、しかし確実に仕掛けられようとしていた。リリアーナの一時的な幸福は、より深い絶望への序曲に過ぎなかった。



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