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 あの、おぞましい夕食の日から、わたくしは食事をほとんど受け付けなくなった。

 何かを口にしようとすると、あの小さな鳥のローストが目にちらつき、強烈な吐き気に襲われるのだ。お父様の怒鳴り声と、エレオノーラ様のあの、全てを見透かしたような微笑みと共に。

 日に日に痩せ細り、部屋のベッドで横になっている時間が増えた。

 メイドたちも、気味悪がって必要最低限しか部屋に入ってこなくなった。わたくしは、この屋敷の中で、まるで汚れた何かのように、あるいは、もうすぐ死んでしまう病人のように扱われていた。


 そんなある日、エレオノーラ様が部屋を訪れた。その表情は、いつものように完璧な、心配そうなものだったが、その瞳の奥には、獲物を見つけた肉食獣のような、冷たい光が宿っていた。


「まあ、リリアーナ様、またお痩せになったのではなくて? お顔の色も優れませんわ。これでは旦那様も、わたくしも心配でなりませんわ」


 彼女はわざとらしくため息をつくと、「こうなっては仕方ありませんわね」と、隣に控えていた、見慣れない若いメイドを前に押し出した。


「今日から、このアネットを、あなたの専属メイドにいたします。身の回りのお世話を、つきっきりでさせますから、少しは元気を出してくださるかしら? あなたのためを思って、わたくしが特別に選んだ、優秀な子ですのよ」


 アネットと名乗ったメイドは、年はわたくしとそう変わらないくらいに見えた。そばかすの散った、人懐っこそうな顔立ちで、にこやかに微笑んでいる。でも、その瞳の奥は、どこか冷たく、値踏みするようにわたくしを見ていた。


 アネットは、その日から、甲斐甲斐しくわたくしの世話を始めた。

 朝は優しく起こしに来て、着替えを手伝い、食事を(スプーンで一口ずつ、まるで病人に与えるように)食べさせようとし、夜は寝かしつけに来る。

 表向きは、とても親切で、献身的だった。

 でも、彼女の言葉の端々には、いつも小さな、しかし鋭い棘が含まれていた。


「まあ、リリアーナ様、お髪がパサパサですわね。これでは、旦那様もお嘆きになります。エレオノーラ様のような、艶のある美しい髪には、程遠いですわ。わたくしが、もっと丁寧に手入れして差し上げますね」

「そんなに暗い顔をしていては、幸せが逃げてしまいますわよ、リリアーナ様。エレオノーラ様のような、周りの方まで幸せにするような、素敵な笑顔をなさいませんと」

「またお食事を残されたのですか? エレオノーラ様が、リリアーナ様のためにと、心を込めて料理長に指示なさった、特別なメニューなのに……わたくし、悲しいですわ。どうして、エレオノーラ様のお気持ちを分かって差し上げられないのですか?」


 それは、まるで、エレオノーラ様の言葉を、もっと身近で、もっと執拗に、毎日毎時間、繰り返しているかのようだった。アネットは、エレオノーラ様が作り出した、わたくしを映す『歪められた鏡』そのものだった。


 アネットは、わたくしの一挙手一投足を、毎日エレオノーラ様に報告していた。

 わたくしが何を食べ、何を着て、何を言い、どんな表情をしていたか。全て。

 ある時、わたくしが虚ろな目で窓の外を眺めていると、アネットが後ろから囁いた。


「リリアーナ様、何をそんなにご覧になっているのですか? もしかして、またあの汚い鳥でも探していらっしゃるの? そんなだから、いつまで経ってもエレオノーラ様にご心配をおかけするのですわ。エレオノーラ様が、どれほどあなたのご健康を心配なさっているか、お分かりにならないのですか? 本当に、手のかかるお方……」


 その言葉は、エレオノーラ様がアネットに全てを話し、そして、わたくしをどう扱うべきか、細かく指示している証拠だった。

 この部屋は、もう、完全にあの人の支配下にあるのだ。逃げ場など、どこにもない。


 アネットという、常にわたくしを否定し、エレオノーラ様の素晴らしさを説く『鏡』に囲まれて、わたくしは、自分が何なのか、だんだん分からなくなっていった。

 わたくしは、ダメな子。

 わたくしは、醜い子。

 わたくしは、恩知らずで、親不孝な子。

 わたくしは、エレオノーラ様を困らせる、邪魔な存在。

 わたくしは、いない方がいいのかもしれない。

 部屋は、アネットの手によって、エレオノーラ様の好みに合わせて、趣味の良い、しかし冷たい調度品で美しく整えられていく。新しいカーテン、新しい絨毯、新しい花瓶には、いつも完璧な花が生けられている。でも、そこにわたくしの意思は一切ない。わたくしは、ただ、その美しく整えられた檻の中で、息を潜めるだけの、生きた置物のようになっていった。


 その日も、エレオノーラはリリアーナの部屋を訪れた。

 部屋は完璧に清潔で、趣味の良い調度品が並び、まるで高級な人形の家のようだ。

 そして、窓辺の椅子に、リリアーナが虚ろな目で座っていた。その頬はこけ、瞳からは生気が完全に失われている。しかし、その儚げな美しさは、まるで精巧なガラス細工の人形のようでもあった。

 アネットが、エレオノーラに恭しく一礼する。


「エレオノーラ様。リリアーナ様は、本日もほとんどお食事を……。ですが、わたくしが申し上げた通り、一日中、大人しくしていらっしゃいます」

「そう。ご苦労様、アネット。あなたは本当によくやってくれているわ。褒美をとらせましょう」


 エレオノーラは、アネットを下がらせると、ゆっくりとリリアーナに近づいた。

 その生気のない顔を、まるで自分の最高傑作でも見るかのように、満足げに見つめる。

 

(美しいわ、リリアーナ。本当に、美しい。まるで、私が丹精込めて作り上げた、完璧な人形のよう。意志もなく、感情もなく、ただ私の言葉を待つだけの人形)


 彼女は、リリアーナの冷たい頬に、そっと触れた。その肌は、驚くほど冷たかった。

 

(さあ、この人形に、次はどんな『役割』を与えようかしら? そろそろ、社交界という華やかな舞台に立たせるのも面白いかもしれないわね。もちろん、最高の『悪役』として、観客たちの目の前で、見事に壊れてもらうために)


 エレオノーラの瞳は、次なる残酷な計画への期待で、妖しく、そして深く輝いていた。彼女の『ショー』は、まだ始まったばかりなのだ。





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