表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/51

16

 ルビーが来なくなった窓を、冷たい金網越しに眺めるだけの時間が過ぎていく。

 もう、わたくしの心は、何も感じなくなっていたはずだった。ただ、灰色の霧が立ち込めているだけ。

 その日の夕食。わたくしは、メイドに促されるまま、まるで糸の切れた操り人形のようにダイニングルームへと向かった。

 お父様と、エレオノーラ様は、もう席に着いていた。二人は、何やら楽しげに会話を交わしている。その光景は、まるで一枚の完璧な絵画のようだった。――わたくしという、汚れた染みさえなければ。

 わたくしは、音も立てずに席に着き、ただ、目の前の白い皿を見つめた。


 やがて、メイドたちが次々と料理を運んでくる。

 スープ、魚料理……どれも、見た目は豪華だが、わたくしにはただの色と形にしか見えない。匂いも、味も、きっとしないだろう。

 そして、メインディッシュが運ばれてきた。

 銀の大きな大皿。その中央に鎮座していたのは……。

 こんがりと、飴色に焼かれた、いくつかの、小さな、小さな鳥のローストだった。ローズマリーの緑が添えられている。

 その、あまりにも小さなサイズが、わたくしの心臓を、冷たい手で鷲掴みにした。


 お父様が、少し驚いたように言った。


「ほう、これは珍しいな。ずいぶんと小さい鳥だが……これは、コマドリか?」


 コマドリ――その言葉に、わたくしの頭の中が、キーン、と甲高い音を立てた。

 血の気が引いていく。指先が、氷のように冷たくなる。


 エレオノーラ様が、にこやかに答える。その声は、いつも通り、絹のように滑らかだ。


「ええ、旦那様。腕の良い猟師が、ちょうど良い大きさのものを捕らえたと、特別に分けていただいたのですわ。とてもデリケートで、素晴らしい味だそうです。滋養にも良いそうですし、リリアーナ様も、最近食が細いようでしたから、きっと喜んでくださるかと思って、料理長にお願いしたのです」


 彼女は、わたくしを見て、優しく微笑んだ。

 その微笑みが、今は、どんな罵声よりも恐ろしかった。


 嘘だ。

 嘘だと言って。

 あれが、ルビーなわけがない。

 わたくしの指からパンくずをついばんでいた、あの温かい、小さな生命が、こんな、こんがりと焼かれた肉塊になっているわけがない。

 でも、あの小ささ。あのタイミング。

 そして何より、エレオノーラ様の、あの楽しそうな瞳。

 彼女なら、やりかねない。わたくしを絶望させるためなら、どんな残酷なことでも。

 胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じた。息が、できない。目の前が、チカチカする。


 わたくしが恐怖に震えていると、エレオノーラ様は、まるで親切な母親のように、給仕のメイドに指示を出した。


「さあ、リリアーナ様の分も、取り分けて差し上げて。一番、美味しそうなところをね。骨まで柔らかく煮込んでありますから、きっと食べやすいですわよ」


 メイドは、躊躇うことなく、一番小さな、しかし丸々と焼かれた鳥のローストを、わたくしの皿に乗せた。

 目の前に置かれたそれに、わたくしはルビーのつぶらな瞳を重ねてしまい、ヒッ、と息を呑んだ。


「さあ、リリアーナ様、召し上がれ。冷めないうちに。栄養をつけないと、またお痩せになってしまいますわよ」


 エレオノーラ様の声が、遠くに聞こえる。まるで、水の中から聞いているようだ。


 わたくしは、震える手で、銀のフォークを握った。

 でも、それを肉に突き立てることなんて、できるはずがなかった。

 もし、これが本当にルビーだったら? わたくしは、友達を、食べてしまうことになる。

 考えただけで、気が狂いそうだった。


「……いりません……」


 かろうじて、それだけを呟いた。


「わたくし……お腹が、空いていません……。気分が、悪いのです……」


 その言葉に、エレオノーラ様は、わざとらしく、悲しげに眉を寄せた。


「まあ……せっかく、あなたのために用意したのに……。わたくしの心遣いは、迷惑でしたか……?」


 その姿を見て、お父様が、また怒鳴った。テーブルが僅かに揺れる。


「リリアーナ!! わがままを言うな! お母様が、病弱なお前のことを心配して、わざわざ用意してくださったのだぞ! それを無にするとは、何事だ!! 好き嫌いを言うんじゃない! 感謝して、早く食べなさい!」


 食べなさい。

 その言葉が、引き金になった。

 わたくしは、もう耐えられなかった。


「いやあああああ!!」


 わたくしは叫び声を上げ、椅子を蹴倒すようにして立ち上がり、ダイニングルームから逃げ出した。

 背後で、お父様の「こら、リリアーナ!」という怒鳴り声と、エレオノーラ様の「まあ、リリアーナ様! どうなさったの!? やはり、どこかお加減が……」という、猫なで声が聞こえた。


 部屋に戻り、わたくしは床に突っ伏して、胃の中のものを全て吐き出した。もう、何も残っていないはずなのに、吐き気は止まらなかった。

 もう、何も信じられない。何も食べられない。

 ダイニングルームでは、エレオノーラが「まあ……可哀想に。やはり、まだ心が……よほど、ショックなことがあったのでしょう。旦那様、あの子のことは、わたくしに任せてくださいませ。わたくしが、責任をもって……」と、アルブレヒトを巧みに慰めていた。

 そして、アルブレヒトが心配そうにリリアーナの去った方を見ている隙に、彼女は、残された小さな鳥のローストを、フォークで優雅に一口分切り取り、まるで極上の珍味を味わうかのように、ゆっくりと、そして美味しそうに、口へと運んだのだった。

 その唇には、満足げな、勝利の微笑みが浮かんでいた。


(ああ、本当にデリケートな味。リリアーナにも、食べさせてあげたかったわ……フフフ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ