13
お母様のロケットを奪われ、北庭を禁じられ、物語の本を全て取り上げられてから、わたくしの世界は、完全に色と音を失った。
部屋に閉じこもり、ただ、壁の模様を目で追ったり、窓の外の、何も感じない空を眺めたりして過ごす時間が増えた。
時折、メイドが無言で食事を運んでくる。でも、食べたいとは思わない。喉を通らないのだ。無理に口に入れても、まるで砂を噛んでいるようで、味がしない。鏡を見れば、そこに映るのは、頬がこけ、目の下に深い隈ができた、生気のない少女の顔だった。かつて、わたくしはよく笑う子供だったと、お母様は言っていた。でも、もう、どうやって笑うのか、思い出せなかった。
『レッスン』の時間は、相変わらず地獄だった。
エドガー先生は、エレオノーラ様の意向を受けてか、日に日に厳しく、そして意地悪になっていった。わざと間違ったことを教え、わたくしがそれに気づかないと嘲笑い、かといって指摘すれば「生意気だ」と叱責する。
でも、もう、わたくしは何も感じなかった。
抵抗する気力もなかった。
ただ、人形のように椅子に座り、彼の言葉を聞き流すだけ。時には、彼の声すら、まるで水の中にいるかのように遠くに聞こえることがあった。
「聞いておりますかな、リリアーナ様!」
「この程度のことも理解できないとは!」
「これではエレオノーラ様もお嘆きになりますぞ!」
そんな罵声も、まるで遠い国の言葉のように、わたくしの心を素通りしていく。傷つくことにさえ、疲れてしまったのだ。
その無反応さが、エレオノーラ様には「反抗的で、学習意欲のない、救いようのない子」と報告されていることなど、わたくしは知る由もなかったし、知ったところで、もうどうでもよかった。
わたくしが部屋から出なくなったことで、屋敷の中では、新しい噂が囁かれるようになっていた。
『リリアーナ様は、すっかり口をお利きにならなくなったそうだ』
『いつも、虚ろな目をして、壁ばかり見つめていらっしゃるって』
『新しいお母様が、あんなにお優しい方なのに、なんてこと……』
『正直……少し、不気味ですわね』
かつて、僅かにわたくしに同情的な視線を送っていたメイドたちも、今では遠巻きにするだけ。ヒルダでさえ、わたくしの部屋に来ることは滅多になく、来ても、事務的な言葉を交わすだけで、その目には以前のような憂いの色はなかった。ただ、職務をこなすだけの、冷たい目をしていた。
わたくしは、この屋敷の中で、完全に『不気味な問題児』になっていた。エレオノーラ様の望み通りに。
ある日、珍しくお父様が部屋を訪れた。きっと、またエレオノーラ様に言われたのだろう。「たまには、リリアーナの顔も見てあげてくださいな」とでも、心配そうに囁いたに違いない。
「リリアーナ、どうしている。エレオノーラが心配していたぞ」
お父様は、どう接していいか分からない、という顔で、部屋の入り口に立っていた。
わたくしは、ただ、彼を見つめ返した。何も言わなかった。言うべき言葉も、言いたい言葉も、もうなかったから。
「……元気がないようだな。何か、悩みでもあるのか?」
わたくしは、ゆっくりと首を横に振った。
「……そうか。……まあ、何かあれば、お母様に……いや、私でもいい、言うんだぞ」
お父様は、それだけ言うと、まるで義務を果たしたかのように、気まずそうに部屋を出て行った。その背中は、以前よりも小さく見えた。彼もまた、わたくしと向き合うことから逃げたのだ。
背後で、エレオノーラ様の「まあ、旦那様。やはり、あの子は難しいようですわね……わたくしの力不足ですわ」という、悲しげな声が聞こえた気がした。
お父様も、もう、わたくしを理解しようとはしないだろう。わたくしは、父親にとっても『難しい子』になったのだ。
その夜、エレオノーラは自室のテラスで、星空を眺めながら葡萄酒を嗜んでいた。
背後にはヒルダが控え、淡々と報告を述べる。
「……以上が、本日のリリアーナ様の状況でございます。お食事は、ほとんどお手をつけにならず。レッスン中も、終始無言でいらっしゃったとのことです。メイドたちの間では……その、少々、不気味がられているご様子も……」
「そう。ご苦労様、ヒルダ。下がっていいわ」
ヒルダが下がると、エレオノーラはグラスを傾け、その赤い液体を満足げに見つめた。
(順調だわ。実に、順調。心は、もうほとんど壊れてくれたようね。これで、あの子は『不気味で陰気な、扱いにくい問題児』という評価を、父親も含めて、屋敷中に確立した。笑顔も、色も、物語も、全て消してやったわ)
彼女の唇に、美しい、しかし残酷な微笑みが浮かぶ。
(でも、これだけじゃ足りないわ。悪役令嬢として『完成』させるには、もっと劇的な演出が必要よ。無気力なだけでは、断罪の舞台映えがしないもの。そうね……次は、あの『力』を、皆の前で見せてもらいましょうか。もちろん、最悪の形でね。あの子が、ただの『問題児』ではなく、『危険な怪物』だと、誰もが信じるように)
彼女は、これから始まる、さらに残酷な『ショー』の筋書きに思いを馳せ、夜空に向かって、静かにグラスを掲げた。
リリアーナの絶望は、彼女にとって、何より甘美な蜜の味だった。