12
北庭に行くことさえ禁じられ、わたくしは、本当にこの部屋だけの囚人になった。
窓の外を眺めても、あの庭を思うと胸が苦しくなるだけ。わたくしの白いバラは、もう萎れてしまっただろうか。
『レッスン』の時間は地獄だし、食事も味がしない。夜は、エレオノーラ様が部屋に入ってくる悪夢にうなされる。
そんなわたくしにとって、唯一残された慰めは、本を読むことだった。
部屋の壁際に据え付けられた大きな本棚には、幼い頃からお母様に読み聞かせてもらったおとぎ話や、わくわくする冒険の物語、遠い国の騎士とお姫様の恋物語がたくさん詰まっている。
ページをめくれば、わたくしは辛い現実を忘れ、物語の主人公になることができた。そこには、優しい妖精も、勇敢な騎士も、そして、必ず悪を討つ正義も存在した。
本の世界だけが、わたくしが自由に呼吸できる、最後の砦だった。
ある日の昼下がり。
わたくしがベッドの上で、竜を退治する騎士の物語に没頭していると、突然、部屋の扉が乱暴に開かれた。
エレオノーラ様が、ヒルダを含む数人のメイドを引き連れて入ってきたのだ。その表情は、いつもの聖母の微笑みだが、その瞳の奥は、何か新しい企みで冷たく光っているように見えた。
わたくしは驚いて本を落としそうになった。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「エレオノーラ、様……? 何か……御用でしょうか?」
「リリアーナ様。少し、あなたのお部屋を模様替えいたしましょう。今のあなたに、もっとふさわしい空間にして差し上げますわ」
彼女は、部屋全体を見渡し、まるで査定でもするかのような目で言うと、わたくしの、たった一つの大切な場所――本棚を、指さした。
「まずは、そこからですわね」
その視線に、わたくしの背筋は凍りついた。嫌な予感が、嵐のように吹き荒れる。
「これらの本は、もう、今のあなたにはふさわしくありませんわ」
「え……?」
そんな……。どうして……?
彼女は、本棚からわたくしが一番好きなおとぎ話の本を抜き取ると、パラパラとページをめくり、まるで汚物でも見るかのように、軽蔑するように言った。
「まあ、まだこんなものを読んでいらしたの? いつまで子供気分でいらっしゃるのかしら。夢物語ばかりでは、現実を正しく見る目は養われませんわよ」
彼女は、別の騎士物語を手に取る。
「子供っぽい感傷や、非現実的な英雄譚は、侯爵令嬢には不要です。むしろ、害になりますわ。現実から目を背けさせるだけの、甘い毒ですもの」
そして、彼女はメイドたちに向かって、冷たく、はっきりと命じた。
「さあ、皆さん。ここにある物語の本は、全て運び出しなさい。地下の倉庫にでもしまっておけばよろしいわ。埃をかぶるのが、お似合いでしょう」
「やめてください!!」
わたくしは、思わず叫んでいた。恐怖よりも、大切なものを奪われるという怒りが勝った。ベッドから飛び降り、本棚に駆け寄ろうとする。
「それらは、私の……! お母様との、大切な思い出の本なんです! それだけは……!!」
しかし、わたくしの抵抗は虚しかった。
二人の屈強なメイドが、まるで虫でも捕らえるかのように、わたくしの両腕を掴み、動きを封じる。ヒルダは、ただ、床に目を伏せて、その光景を見ているだけ。彼女の顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「いや! 離して! 私の本を、取らないで!! お願い……!!」
わたくしの叫び声も、懇願も、誰にも届かない。
メイドたちは、エレオノーラ様の命令に従い、次々と本棚から本を抜き取り、大きな麻袋に、まるでガラクタのように、無造作に放り込んでいく。
表紙が破れる音、ページが曲がる音。わたくしの宝物が、わたくしの世界が、目の前で壊されていく。
涙で視界が滲む。抵抗する力も、もう残っていなかった。わたくしは、ただ、その場で泣き崩れるしかなかった。
やがて、本棚はほとんど空っぽになった。そこには、ぽっかりと、わたくしの心のような空白が広がっていた。
そこへ、別のメイドたちが、新しい本を運んできた。
それは、どれも分厚く、黒や茶色の重苦しい装丁の本ばかりだった。
『エーデルシュタイン王国 法制史概論』
『古代魔法体系における倫理的問題』
『貴族としての資産運用術』
《transparent》『サルでも分かる蟹の食べ方1000選』《/transparent》
それらの本が、空になった本棚に、整然と、しかし威圧的に並べられていく。
それは、もはや本棚ではなく、わたくしを閉じ込める、新しい『壁』のように見えた。知識の牢獄。
「ふぅ、随分とすっきりいたしましたわね。これこそ、侯爵令嬢の書斎にふさわしい」
エレオノーラ様は、その光景に満足げに頷いた。
彼女は、まだ床で泣きじゃくっているわたくしを見下ろし、あの完璧な微笑みを浮かべる。
「これからは、これらの本で、立派な淑女になるための、現実的なお勉強をなさってくださいね、リリアーナ様。これも、全て、あなたのためなのですよ? 分かりますわね?」
彼女はそう言うと、メイドたちを引き連れて、静かに部屋を去っていった。
わたくしは、ただ、呆然と、その光景を見送ることしかできなかった。
空っぽになった本棚。
意味の分からない本の壁。
そして、物語を失い、完全に空っぽになってしまった、わたくしの心。
もう、どこにも、逃げる場所はないのだと、わたくしは、冷たい床の上で、痛いほど悟った。
「誰か…………たすけて………………」