11
お父様の執務室から追い返されて以来、わたくしは自室に閉じ込められていた。
『お母様に心から謝罪するまで』――それが、部屋から出る条件。
でも、わたくしには謝る理由なんてない。悪いのは、あの人なのに。
けれど、それを証明する術もなく、味方もいない今、わたくしにできるのは、ただこの薄暗い部屋で、膝を抱えることだけだった。
食事はメイドが無言で運んでくるけれど、砂を噛むようで、ほとんど喉を通らない。
もう、誰も信じられない。誰も助けてくれない。
この広い屋敷の中で、わたくしはたった一人だ。
わたくしは、首から下げていた小さな銀のロケットを、ぎゅっと握りしめた。
それは、亡くなった本当のお母様が、最後にわたくしにくれたもの。繊細な花の彫刻が施された、シンプルなロケット。中には、優しく微笑むお母様の、小さな肖像画が入っている。
これだけが、わたくしの唯一の宝物。唯一の、慰めだった。
冷たい銀の感触を胸に当てると、少しだけ、お母様に守られているような、温かい気持ちになれる気がした。
「お母様……わたくし、どうしたら……」
コン、コン。
控えめなノックの音に、わたくしの体はビクリとこわばった。
返事をする前に、扉が静かに開き、あの人が入ってきた。エレオノーラ様だ。
その手には、銀のトレイに乗せられた、湯気の立つハーブティーが。「いい香りがするでしょう? リリアーナ様、お食事が進んでいないと伺いましたので。少しでも、リラックスできるようにと思って、持ってきたのですわ」
彼女は、いつものように聖母のような微笑みを浮かべている。でも、もうわたくしは騙されない。その笑顔の裏にある、冷たいものを知ってしまったから。
わたくしは、ロケットをドレスの中に隠すように、さらに強く握りしめた。
エレオノーラ様は、ティーカップをサイドテーブルに置くと、わたくしのベッドサイドに優雅に腰掛けた。ふわりと、甘く冷たい香水の匂いがする。
「お加減は、いかが? リリアーナ様。まだ、お父様にお叱りを受けたことを、気に病んでいらっしゃるの? 旦那様も、あなたのことを思って、つい厳しく……」
その声は、心配しているように聞こえる。でも、その瞳は、値踏みするようにわたくしを観察していた。
そして、その視線が、わたくしの胸元――ドレスの下で、必死で何かを握りしめている手に注がれた。
「まあ、それは何ですの? そんなに強く握りしめて」
彼女は、わたくしの手に、そっと触れようとしてきた。その指先は、見た目通り、ひんやりとしていた。
わたくしは、思わず手を引っこめた。
「い、いえ……これは……その……」
隠そうとしたけれど、エレオノーラ様の目は鋭かった。
「見せてくださらない? あなたの大切なものですの? わたくしにも、見せてほしいわ」
その声には、逆らうことを許さない響きがあった。
わたくしは、震える手で、ドレスの中からロケットを取り出した。
「……亡き、母の……形見、です」
エレオノーラ様は、「まあ」と小さく声を上げると、わたくしの手からひったくるようにロケットを取り上げた。
そして、パチリ、と乱暴に蓋を開け、中の写真を見ると、興味深そうに、しかしどこか品定めするように眺め始めた。
「……ふぅん」
やがて、彼女はつまらなそうにロケットの蓋を閉じた。
「お母様……お優しそうな方ですわね。でも……」
彼女は、ロケットを指先で弄びながら、わたくしに冷たい視線を向けた。
「あら……少し、デザインが古めかしいですわね。銀細工は、今の流行りではありませんし。それに、銀ではヴァイスハイト家の令嬢には、少し……ふさわしくありませんわ。わたくしなら、プラチナにダイヤモンドをあしらったものを選びますけれど」
その言葉は、わたくしの、そしてお母様の宝物を、まるで道端の石ころのように、簡単に踏みにじるものだった。
「それに、リリアーナ様。いつまでも過去に囚われていては、前に進めませんわよ? 亡くなった方のことばかり考えていては、今を生きるわたくしたちが、悲しみますわ。ね?」
まるで、わたくしがお母様を想うことが、悪いことであるかのように、彼女は言った。
「ですからね」
エレオノーラ様は立ち上がり、わたくしの反論を許さないというように、続けた。
「これは、わたくしが預かっておいて差し上げますわ。あなたが、もっと大人になって、過去を乗り越えられた時に、お返ししましょう。それが、あなたのためでもあるのです」
そう言うと、彼女はロケットを、自分のドレスのポケットに、無造作に滑り込ませた。まるで、ゴミでも捨てるかのように。
「大丈夫よ。もっと素敵な宝石を、今度旦那様にお願いして差し上げましょう。きっと、あなたにお似合いになるわ。さ、ハーブティーが冷めないうちに、どうぞ」
「あ……」
返してください!
そう叫びたかった。手を伸ばして、取り返したかった。あれがないと、わたくしは……。
でも、できなかった。
エレオノーラ様の、あの氷のような瞳が、わたくしを射すくめていたから。
『逆らうことは許さない』
『あなたは無力なのよ』
その目が、そう語っていた。
わたくしの体は、まるで石になったように動かない。声も出ない。
ただ、頬を伝う熱い涙だけが、わたくしの最後の抵抗だった。
お母様との、最後の繋がりが、今、目の前で、あの悪魔に奪われた。
エレオノーラ様は、そんなわたくしを一瞥すると、満足げに微笑み、何も言わずに部屋を出て行った。
部屋には、甘く冷たいハーブティーの香りと、わたくしの、声にならない絶望だけが残された。