10
お父様は、私の涙ながらの訴えに、明らかに動揺していた。
その眉間には深い皺が刻まれ、その視線は、私と、部屋の何もない空間とを行き来している。普段の威厳はどこへやら、ただ狼狽する一人の男がそこにいた。
「リリアーナ……」
彼が、何かを言いかけた。その声には、戸惑いと、もしかしたら、ほんの少しの信じようとする気持ちがあったのかもしれない。私の言葉が、ほんの少しだけ、彼の心に届きかけたのかもしれない。
「それは、本当……」
――その瞬間だった。
まるで、舞台役者が最高のタイミングで登場するかのように、執務室の重厚な扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、もちろん、エレオノーラ様だった。
彼女は、手に銀のトレイに乗せたティーセットを持ち、心配そうな、しかし穏やかな微笑みを浮かべていた。その登場は、あまりにも完璧すぎて、まるで最初から私たちの会話を盗み聞きしていたかのようだった。
「旦那様、お仕事お疲れ様ですわ。温かい紅茶をお持ちいたしました。……あら? リリアーナ様もご一緒でしたのね。何をそんなに、深刻なお話を?」
その声は、どこまでも優しく、清らかで、何も知らないという純粋な響きを持っていた。私の、涙と嗚咽にまみれた声とは、あまりにも対照的だった。
お父様は、彼女の登場に、少しほっとしたような、しかし同時に気まずそうな顔をした。
「おお、エレオノーラ、すまないな。……いや、ちょうど良かった。今、リリアーナが、君のことを……その、少し、怖がっている、と……」
お父様が言いかけるのを、エレオノーラ様は、悲しげに、そして信じられないというように、美しいアイスブルーの瞳を大きく見開くことで、巧みに遮った。
彼女は、持っていたトレイを近くのテーブルに、カチャリ、とわざとらしいほど静かに置くと、その美しい顔をみるみるうちに悲しみで歪ませた。そのアイスブルーの瞳には、大粒の涙がみるみるうちに溜まっていく。ああ、なんて見事な演技!
「ああ……! リリアーナ様……! やはり、そうでしたのね……!」
彼女は、ふらり、とよろめき、まるで支えを求めるように、アルブレヒトの腕に寄りかかった。その姿は、か弱く、傷つき、しかし必死に耐えようとする悲劇のヒロインそのものだ。
「わたくしの……わたくしの努力が、至らないばかりに……あなたを、そんな風に追い詰めてしまっていたのですね……! 申し訳ありません……本当に、申し訳ありません……! わたくし、母親失格ですわ……!」
その声は嗚咽に震え、聞く者の心を締め付ける。
「旦那様……! どうか、リリアーナ様のために……わたくしのような至らない者は、この家から……出てまいります……! それが、あの子のためなのです……っ!」
美しい妻の、その悲痛な涙と、自己犠牲的な言葉。
それは、お父様にとって、何よりの『真実』だった。
彼の私への僅かな同情や理解は、一瞬にして、私への烈火の如き怒りへと変わった。
「エレオノーラ、何を言うんだ! 馬鹿なことを言うな! 君は、誰よりも素晴らしい母親だ! 君が来てくれてから、この家はどれほど明るくなったことか!」
彼はエレオノーラ様を強く抱きしめ、そして、鬼のような形相で、私を睨みつけた。
「リリアーナ!!」
その声は、雷のように部屋に響き渡り、私の体を貫いた。
「お前は!! こんなにもお前のことを想い、心を砕いてくれているお母様を、何だと思っているんだ!! なんて酷いことを言うんだ! 自分の母親を追い出そうとするなんて! 恩知らずにもほどがあるぞ!!」
私は、お父様の激しい怒りと、彼の腕の中でむせび泣く(もちろん演技だ)エレオノーラ様の姿を見て、完全に打ちのめされた。
違う。違うの。騙されてる。あの人は嘘つきなの。
そう叫びたかった。でも、喉が凍りついて、声が出ない。
「ち、違う……違うんです、お父様……! 嘘、なんです……! わたくしは……っ!」
やっと絞り出した声は、か細く震え、お父様の怒りの前には、あまりにも無力だった。
「もういい!! 聞きたくない! お前には心底がっかりした! 今すぐ自分の部屋に戻りなさい! そして、お母様に心から謝罪するまで、部屋から出ることは許さん!! 分かったな!!」
それは、父親の言葉ではなかった。
それは、冷たい判決だった。私を断罪する、最初の宣告だった。
私は、もう、何も言えなかった。
涙も出なかった。ただ、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
最後の希望だった、お父様。その信頼は、今、完全に、そして永遠に砕け散った。
私は、まるで魂の抜けた人形のようにふらふらと立ち上がり、背を向け、執務室の扉へと歩いた。
扉を開ける瞬間、私は、ほんの少しだけ振り返った。
お父様は、まだ怒りの表情で私を睨みつけている。
そして、その腕の中。
エレオノーラ様は、お父様の胸に顔をうずめ、肩を震わせて泣いているように見えた。
だが、その顔は、私からは見えない。
でも、私には分かった。
きっと彼女は今、誰にも見えないように、唇の端を吊り上げているだろう。
――彼女の、完璧な勝利の微笑みを。
重い扉が閉まり、私は、完全な暗闇と絶望の中に、一人取り残された。
もう、この屋敷に、私の味方はどこにもいない。
私は……わたくしは……一体どうすればよかったの……?