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……うるさい……。
また、あの甲高い声が聞こえる。
『お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい』
『君はもう少し愛嬌というものを……見習ったらどうだね?』
『だからアンタはダメなのよ』
……もう、やめて……。
もう、たくさん……。
疲れた……。
ふと、意識が水面に浮かび上がるように浮上した。
重い。まぶたが、鉛のように重い。
それでも、何かに促されるようにゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見たこともない光景だった。
見事な刺繍が施された、天蓋――?
柔らかなシルクのシーツが肌に触れる。ふわりと香る、知らない花の匂い。
(……どこ、ここ……?)
混乱しながら、ゆっくりと身体を起こす。
滑らかな絹のネグリジェが身体を滑り落ちる。視界に入った自分の手は、驚くほど白く、細く、長い指をしていた。
――私の手じゃない。
(何が……どうなってるの……?)
部屋を見渡す。
アンティーク調の、しかし明らかに高級な家具。壁には美しい絵画が飾られ、大きな窓の外には、手入れの行き届いた広大な庭園が見える。
まるで、映画か何かに出てくる、西洋のお城の一室だ。
(私……確か、連日の残業帰りに、駅の階段から……)
そうだ。私は、死んだはずだ。あの、ストレスと劣等感にまみれた、灰色の日々から、ようやく解放されたはずなのに。
ふらつく足取りで、ベッドから降りる。
足元にはふかふかの絨毯。その感触に戸惑いながら、部屋の隅にある大きな姿見へと歩み寄った。
そして、息を呑んだ。
鏡に映っていたのは、知らない女だった。
いや、知っている。この顔を、私はよく知っている。
プラチナブロンドの、波打つような長い髪。
宝石のような、しかし氷のように冷たいアイスブルーの瞳。
陶器のように白い肌と、完璧すぎるほど整った顔立ち。
――この世のものとは思えないほどの、絶世の美女。
(ああ……これ……これって……)
前世の私の、唯一の癒やしであり、現実逃避の場だった、あの乙女ゲーム。
『クリスタル・ラビリンス』
その中に登場する、最も邪悪で、最も美しい、あの女。
――悪役令嬢リリアーナを虐げ、破滅へと追いやる、美貌の継母。
エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイト。
(嘘でしょ……!!)
全身から血の気が引いていくのが分かった。
よりにもよって、エレオノーラに……転生、したってこと……?
頭の中で、ゲームのシナリオが嵐のように駆け巡る。
エレオノーラは、その美貌と計算高さで侯爵を虜にし、後妻の座に収まる。そして、前妻の娘であるリリアーナを、陰湿かつ執拗にいじめ抜くのだ。
勉強を妨害し、友人を遠ざけ、父親に嘘を吹き込み、社交界で孤立させる。
その結果、リリアーナは心を歪ませ、プライドだけが高い本物の『悪役令嬢』となり、ゲームのヒロインとヒーローたちに敵対する。
そして、物語のクライマックス。
リリアーナは断罪され、――エレオノーラの悪事は、なぜか露見しない。
いや、ゲームでは、エレオノーラは断罪されるルートもあったはずだ。でも、私が一番好きだったのは……いや、一番『印象に残った』のは、なぜか彼女が勝ち逃げする、あの胸糞の悪いバッドエンド……。
(どっちにしろ、ろくな死に方をしないか、あるいは生き残っても針の筵……いや、待って……?)
もし、私がエレオノーラなら?
原作知識がある私が、エレオノーラなら?
(破滅……? そんなの、絶対に嫌……!!)
絶望に、膝が震える。
せっかく、あのクソみたいな人生から解放されたと思ったのに、今度は破滅エンドの可能性が高い悪役に転生なんて、あんまりじゃないか。
だが、その瞬間。
前世の、あの忌々しい記憶が、怒りとなって蘇った。
いつも我慢させられてきた。
いつも損な役回りだった。
いつも、誰かの引き立て役だった。
(……ふざけるな……)
私は、鏡の中の完璧な美女を見据えた。
そのアイスブルーの瞳が、私を見返している。
この美貌。この地位。これは、前世の私が喉から手が出るほど欲しかったものじゃないか。
(誰が……誰が、破滅なんかしてやるものですか……!!)
絶望は、急速に形を変えていく。
黒く、冷たく、そして、甘美な、決意へと。
(そうだわ。破滅するのは、私じゃない)
鏡の中のエレオノーラが、ゆっくりと口角を吊り上げた。
それは、聖母とは程遠い、悪魔のような、しかし抗いがたいほど魅力的な微笑みだった。
(破滅するのは、あの『悪役令嬢』よ。原作通りにね。いいえ、原作以上に、完璧に)
心が、ぞくぞくする。
前世で抑え込んできた、黒い感情が、この完璧な肉体を得て、解き放たれるのを感じる。
(いいわ。私が、この手で、最高の『悪役令嬢』に育て上げてあげる。あの可愛い顔が、憎悪と絶望に歪む様を、特等席で見届けてあげるわ。そして、私は……)
私は、絶対に破滅しない。
この地位も、富も、夫の愛も、全て手に入れたまま、悠々と生きていく。
そのためには、リリアーナには完璧な『悪役』として、全ての罪を背負って消えてもらう必要がある。
「フフ……フフフフ……アハハハハ!!」
豪華な寝室に、エレオノーラの、私の、高く、そして冷たい笑い声が響き渡った。
氷の瞳には、揺るぎない悪意の光が、爛々と輝いていた。
私の新しい人生。
――いいえ、最高の『ショー』が、今、始まるのだ。