81話:北の監査支部、影の依頼
今回から新章「北部監査編」が開幕します。
ラグナの封印を経て、束の間の平穏――と思いきや、届いたのは“記録改竄”という過去の闇を掘り返す任務。
舞台は、寒冷地に位置する北方支部。
“存在しなかったはずの少女”と、“記録に残らない異常”というキーワードが物語を一変させていきます。
ナナと共に旅立つマユ。次第に明かされていく、記憶と記録の狭間に潜む“何か”。
どうぞ、最後まで見届けてください。
風が変わった。
季節の狭間――秋へ向かう冷たい気配が、木々の葉を色づかせる前に、どこか緊張めいた“静けさ”を連れてくる。
学院の中央棟、東回廊。
白い石畳に足音がひとつだけ、こつ、こつと響いていた。
マユは、肩に羽織った簡素なマントの前を抑えながら、回廊をゆっくり歩いていた。
ここ数日の学院は、妙なほどに穏やかだった。結界の再調整、異界の痕跡の完全封印、研究棟での余波処理――それらが落ち着き、生徒たちの表情にもようやく安堵が戻っていた。
(静かだ……あまりにも、静かすぎる)
マユは、窓辺に差す光の色を見ながら思った。
だが、その“穏やかな時間”が、長く続かないこともまた理解していた。あの夜、ラグナの第二段階を制御し、“封じる”という選択をした時点で、何かが動き出していたのだ。
その兆しは、意外な形でやってきた。
――緊急通信だ。
数時間前。監査局の北方支部から、直通の“暗号化通信文”が届けられた。
通常の連絡網では使われない、最上位階層の優先ルート。即時にマユの手元へ転送され、彼は学院の応接室でそれを確認した。
その文書には、ひとつの短い依頼文と、極秘案件の復旧コードが記されていた。
『旧・記録番号【KRM-0411】に関する再監査。対象記録は改竄された可能性あり。
再調査を希望。特命監査官“マユ”の即時行動を要請する。』
差出人は、北監査支部・副局長。
(……“KRM-0411”。あの件か)
マユの表情は、読み終えた瞬間にわずかに歪んだ。
それは、まだ“彼が正式に監査官としての資格を得る前”、実地見習いとして送り込まれた地方支部で起きた“不可解な処理案件”――記録操作、保管情報の不一致、そして一部関係者の失踪。
結局その調査は上層部の判断で“保留”とされ、彼の手を離れたまま封印された。
だが今になって、“記録改竄事件”の名を冠して復活してきたのだ。
(誰かが、あの記録に再び触れた。そして、隠されていた事実が……)
疑念は深まる一方だった。だが、同時に脳裏に浮かぶのは――かつての“違和感”だ。
“処理されたはずの記録の中に、削除されていない断片が残っていた”。
“帳簿上は存在しない生徒”の名が、廊下の端末からアクセスされていた。
“火災事故”として報告された施設崩壊現場の写真に、存在しないはずの“監査官バッジ”が写り込んでいた――。
今にして思えば、どれも些細な違和感に過ぎない。だが、それらが一つに繋がるのなら――それは、意図的に“過去を偽った誰か”の意志だ。
(……ヨツギが、わざわざ俺に指名してきた理由も……それか)
マユは応接室の椅子から立ち上がり、無言でラグナの入った鞘を手に取った。
ラグナは、今も完全には“眠って”いない。
焔刻によって安定化はしたが、第二段階を覗いた代償として、マユ自身の精神にもまだ熱が残っている。それでも――剣を握ることを止める気はなかった。
なぜなら、これは“選んだ名”としての初めての“正式任務”だからだ。
マユは回廊の先へ向かって歩を進める。
この件について、エリナには連絡だけを残し、今回は“同行者”としてナナを選ぶことにした。理由は単純だった――
「……ナナ」
角を曲がった先の庭園に、少女の姿があった。
木陰に設けられたテーブルで、ノート端末を覗き込んでいたナナは、マユの気配にすぐに気づいて顔を上げた。
「マユ……何かあったの?」
「少し、遠出する。北の監査支部から緊急要請だ」
ナナは瞬きもせずにマユを見つめた。
「わたしも、行く?」
「……ああ。正直、誰が信用できるか分からない状況だ。だから、ナナを連れていきたい」
それは、彼にとっての“信頼”の証だった。
ナナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから小さく、けれど真剣に頷いた。
「分かった。じゃあ、準備するね」
「助かる。出発は明朝。防寒具を忘れるなよ、北はもう冷える」
「はーい……って、またそういう渋い顔する」
ナナは立ち上がり、少しからかうように笑った。
だがその笑顔には、どこか緊張が滲んでいた。
“再び、戦いの匂いが近づいている”。
それは、彼女にも分かっていたのだろう。
そして翌朝。
白い息を吐きながら、二人は学院を発ち、北方の監査支部へと歩みを進める――。
列車の車窓から、北の大地が広がっていく。
白く乾いた風が吹き抜ける高原地帯――そこは本校のある中央区とはまるで違う、重く閉ざされた空気を纏っていた。マユは車窓越しにその景色を眺めながら、手元の封筒に目を落とす。
【監査対象:記録改竄事件・旧編纂班】
中には薄い紙にまとめられた、曖昧で矛盾の多い過去資料。報告書には「非公開」と朱で押され、原本の存在も不確かとされている。監査部がこれほどの慎重さを見せるのは、単なる書類ミスではなく――意図的な“隠蔽”が疑われる案件に他ならない。
「マユ、なんかさっきから怖い顔してる」
隣のナナが、カップに注いだハーブティーを両手で持ちながら小声で言う。
「……そうか? ただの監査任務だ」
「“ただの”なら、わざわざ暗号化した通信なんてしないでしょ。あたしでもわかるよ」
茶化すでもなく、ナナは真剣な瞳でマユを見た。
(鋭くなったな、ナナ……)
彼女はもう“観察対象”でも“保護対象”でもない。いまは“共に行く者”として、隣にいる。
「今回の依頼、正式には“再調査”だ。十年前――編纂班で起きた“記録改竄”の痕跡。それがまた動き出したらしい」
「記録が書き換えられてたってこと? どうしてそんなことを……」
「わからない。ただ、どうやら“存在そのものを消された人間”がいるらしい」
ナナが息をのむ。
「存在を……?」
「監査部が一度処理した案件で、その人物の記録だけが全て抹消されていた。名前、経歴、魔力素性、全てが“無かったこと”にされてる」
列車が揺れる。遠くには雪を冠した山々が見えてきた。
「それって……その人、死んでるってこと?」
「わからない。死んだことにすら“なっていない”。公式には“最初から存在していない”ことになってる」
ナナは唇を引き結び、黙り込んだ。
列車が北方支部のある都市、《イェルク》の手前で速度を落とし始めた。古い工業都市で、かつては結界石の精製地として栄えていたが、今は廃れ、重苦しい空気が漂っている。
マユとナナが降り立ったホームには、長身の女性が一人、待っていた。
「ようこそ、イェルクへ。……“マユ監査官”、そして“ナナ嬢”」
濃紺の軍用コートに身を包んだその人物は、北方監査支部の補佐官――《ディア・クランス》だった。
鋭い目つきと隠そうとしない威圧感。どこか“内部の者”というより、戦場から帰還した兵士のような雰囲気をまとっていた。
「ご苦労だったな。北は気温も空気も中央とは違う。慣れるまで注意してくれ」
「気遣い、感謝します」
マユは短く答えたが、その視線はディアの肩越し、駅の壁に貼られた古びた掲示板に向けられていた。
“行方不明者情報”の欄に、色褪せた数枚の写真が貼られている。
「――この都市で、何人行方不明になってる?」
「正確な数字は上がってこない。住民登録自体が“記録抜け”している例も多く、把握は難しい。が……過去五年で“最低でも”百人以上が、記録ごと消えている」
ナナが、顔を引きつらせた。
「百人って、そんな……」
「だからこそ再調査だ。すでに支部の中枢記録も複数が“侵入痕跡あり”と診断されている。おそらく、内部犯だ」
マユの視線が鋭くなる。
ディアは小さく頷き、静かに言った。
「――我々の任務は、“過去”を掘り起こすことだ。ただし、それは時に、“何かを殺す”行為に等しい」
「……その覚悟はできている」
「ならば、歓迎しよう。“影の記録”へようこそ、マユ監査官」
曇天の空から、雪が静かに舞い始めた。
この都市に漂う“記憶の空白”と“存在の欠損”は、単なる過去の影ではない。
それは、“いま”も続く消去の連鎖。
その中心に、マユとナナが足を踏み入れようとしていた。
支部本館の扉が、重々しい音を立てて開いた。
イェルク監査支部――その建物は、かつて軍の防衛司令部だった施設を転用したもので、灰色の石材で積み上げられた外観が、まるで監獄のような威圧感を放っていた。
「こっちだ」
ディア・クランスの声に導かれ、マユとナナは中央通路を歩く。足音が響く廊下は静まりかえり、どこか“使われていない空間”のような乾いた空気が漂っていた。
「人が少ないね……本当に、ここが支部なの?」
ナナが囁くように言ったが、マユは頷くだけで答えなかった。彼もまた、この“空白のような気配”に違和感を覚えていた。
通されたのは、地下第二層にある記録保管室――だが、そこに“保管されているべきもの”はなかった。
「……空?」
「いや、厳密には“封鎖”されている。ここにあった一次記録は、五年前の改装時にすべて上層部の命令で移管された。だが、移管記録がどこにも残っていない」
ディアの声には苛立ちと警戒が滲んでいた。
「それって……」
「“消された”ということだ。正規手続きも、運搬証明も、すべて存在しない」
マユは記録棚のひとつに手を置いた。指先に残る微かな埃の感触。かつて何かが収められていた痕跡は確かにある。だが、それ以上の情報は、何も。
「……何者かが、監査そのものを消したいと考えたのかもしれないな」
「ありえる。だが問題は、“誰が”それを可能にしたかだ」
ナナは眉をひそめて問うた。
「でも、支部って監査のプロでしょ? 内部の人がそんな不正、簡単にできるの?」
「できないはずだった。だが、実際に起きている」
ディアは腰のポーチから古い鍵束を取り出し、一番錆びた一本を選んで、壁の裏に隠された“補助鍵穴”に差し込んだ。
「この支部には、表に出せない“記録の亡骸”を保管する旧式アーカイブがある。ほとんどの職員は、その存在すら知らされていない」
低い機械音と共に、壁が横へとずれる。
その奥に現れたのは、冷却魔術で保たれた狭い記録庫だった。小部屋の中央に据えられた金属棚には、綴じられた古文書や焦げ跡の残る紙片が並び、それらひとつひとつに警告印が施されていた。
「これは……監査記録?」
「一部だ。だが重要なのはこれ」
ディアは奥の棚から、ひとつの封印文書を取り出した。
《No.0628-A:アオヤギ・ユウト――登録抹消記録》
マユが息をのんだ。
「その名前……」
「知っているのか?」
「……いや。だが、何か引っかかる」
名前だけが、記憶の隅に刺さるように残った。だが“どこで見たか”が思い出せない。それは――“誰かの名前を聞いているはずなのに、思い出せない”という奇妙な感覚だった。
ナナが、綴じられた記録の背表紙をなぞった。
「この人が……存在ごと消されたの?」
「記録上はな。“抹消理由”の項目にはこう記されている」
ディアは淡々と読み上げた。
「『人格破綻および精神融合の兆候。記録に適さず』」
「精神……融合?」
マユの目が細められる。
その言葉に、どこか“異界”の気配がある。いや、“異界”そのものではなく、“異界と地続きの精神”――かつてマユ自身が触れた、“封印以前のラグナ”の記憶と、微かに重なる何かが。
(まさか……)
マユは、記録棚の奥にある別のファイルに目を向けた。
《対象不明:記録監査不能・再封印要請》
紙片に記された情報は、ところどころ焼け焦げ、墨で塗りつぶされていた。
それでも、かろうじて読み取れる一節があった。
『……彼は、記録に残すことすら許されない“扉”を開けた……』
その瞬間――背後で空気が揺れた。
「ッ、誰かいる!」
マユが振り返る。
廊下の奥――誰もいなかったはずのその空間に、“影”が一瞬だけ浮かび、そして消えた。
ナナが震える声で言う。
「……見えた。黒い、服を着た……誰かが、こっちを……」
ディアが咄嗟に背後を確認し、通信装置に手を伸ばす。
「警戒態勢を。侵入の可能性がある」
だが、通信は“無音”だった。
マユが低く呟いた。
「記録は、誰かに“読まれる”ことを恐れている」
「それとも、“見せるな”と命じられているのかもな」
冷却庫の扉が、再びゆっくりと閉じていく。
その中に眠る記録の“亡霊”たちが、今、マユに囁き始めていた。
“この都市にはまだ、記録されていない罪がある”
空が薄曇りに覆われる頃、マユたちはようやくイェルク支部の監査室にたどり着いた。
その一室は他と異なり、内装からして異質だった。壁一面に並んだ錠付きの記録棚、床には魔法陣のような文様が刻まれている。魔術防壁を内包した“記録改竄防止区画”――つまり、記録の“本物”しか受け入れない、厳密な保管室だ。
「……ここが記録室、ですか」
ナナが思わず声を漏らした。
「ここに、事件の手がかりがあると?」
マユは無言でうなずいた。彼の視線は棚の最奥に向けられている。その棚だけが、他とは異なる錠前と封印術式で厳重に守られていた。
「“改竄された記録”を保管している棚だ」
小さく呟くと、マユは懐からひとつの封書を取り出す。北方本部から送られてきた緊急命令書――封印解錠の許可証だ。
それを術式の中心部に差し込むと、わずかに空気が振動し、淡い光が錠前の上を流れる。そして、鈍い音を立てて鍵が外れた。
「……開いた」
ナナが後ろから声をあげたが、マユは慎重に中を覗き込む。中には一冊の記録冊子が静かに横たわっていた。革製の装丁、表紙には金箔で《第十三次記録監査報告・極秘》と記されている。
その瞬間――
「っ!」
マユは手を伸ばしかけて、思わず引いた。
強烈な“違和感”が、記録から立ち上るように彼の感覚を揺さぶったのだ。まるで、それに触れた瞬間、“今の自分”が書き換えられるかのような――そんな気配。
「……ナナ。ここは危険かもしれない。俺が確認する。君は扉のそばにいてくれ」
「でも、マユ――」
「頼む」
短く言い切ると、マユは再び手を伸ばした。今度は、手袋の上からそっと記録を掴み、慎重に開く。
ページは古びた紙の音を立てながら、ゆっくりとめくられていく。
そして――
「これは……?」
マユの眉がかすかに寄った。
そこに記されていたのは、ある“監査官”の個別記録だった。名前は黒塗りにされていたが、任務内容は詳細に書かれている。
《異界干渉区域における“人為的介入”を確認。対象は“黒標”に指定。調査を一時中止し、記録を封鎖した》――
「……“黒標”……?」
それは、監査機構でも最も危険とされる対象に付けられる印。
“干渉不能”かつ“存在そのものが記録改竄を引き起こす”危険性がある個体、または現象。
「ナナ、来てくれ。……これ、普通の再調査依頼じゃない」
呼ばれて駆け寄ってきたナナは、記録を覗き込んで凍りついた。
「“黒標”……でもこれ、日付が……十年前……?」
「そうだ。しかも、この日付の直後に、この支部の前所長は辞任してる。そして、後任は……」
マユは視線をあげ、部屋の入り口に目をやった。
その瞬間。
――キィ……ッ。
何の前触れもなく、部屋の扉が軋むように開いた。
「ようやく……たどり着いたか」
低く、重たい声が響く。
現れたのは、支部長のカールス・ネグレイ。黒いコートに身を包み、片目を眼帯で覆っている壮年の男だ。だがその表情には、歓迎の色も敵意もない、ただの“重苦しさ”だけがあった。
「……支部長殿。ご挨拶が遅れましたが、我々は中央監査から派遣された――」
「知っている。だが、今この部屋でお前たちが見ているものについては……話し合いが必要だな」
彼の後ろから、黒服の職員が数名、静かに姿を現した。
その全員が、武装こそしていないものの、魔力を纏っているのが明白だった。
(――監査側と“管理側”の衝突)
マユの胸に、微かな緊張が走る。
だが、彼は一歩も引かなかった。
「“黒標”指定の記録は、本部の直接管理下に置かれるはず。これは、明らかに越権行為です」
「その通りだ。……だが、“この記録”だけは違う。――これは“個人の責任”で封じた案件だ」
「個人……?」
マユの目が細められる。
カールスは短く息を吐いた。そして、決意したように一言――
「……この記録に記されている“干渉者”とは、十年前、私が監査官だった頃に出会った“ある少女”のことだ」
静寂。
ナナが息を飲んだ。
「……その少女が、今もこの北部のどこかにいると?」
「いや……彼女は、記録の中に“閉じ込められた”」
「記録の中に……?」
その言葉の意味を問いかける間もなく、突然、記録冊子のページが自動的にめくれ始めた。
バサバサと紙が踊り、やがて一枚のページで止まる。
そこに浮かび上がったのは――
《存在確定不能――映像記録不可――音声変調――全記録者の記憶に“欠損”発生》
まるで、“その少女”の存在そのものが、“記録”の概念を破壊しているかのような記述だった。
「――これは、“記録に残らない存在”。本来、監査が行えないはずの“異常”だ」
カールスの目が重く光った。
「マユ。君がこの記録を開いたということは、もう後戻りはできない。……“彼女”が再び動き出す兆しがある。君に、止められるか?」
問われたマユは、記録を見つめながら呟いた。
「……なら、もう一度“監査”しよう。今度こそ、記録に刻むために」
――彼の目に宿るのは、恐れではなかった。
過去にすら刻まれなかった“影”を、もう一度この手で掴む――それが“名を刻んだ者”の責任であると、マユは心のどこかで悟っていた。
静かに、風が記録室を吹き抜ける。
新たな戦いの幕が、音もなく、確かに上がった――。
お読みいただきありがとうございます!
第81話では、新たな舞台“北の監査支部”と、謎の“記録に残らない少女”の存在が提示されました。
過去を封じた者と、それを暴く者。
記録と記憶、事実と虚構の境界線を揺るがすストーリーが、ここから展開していきます。
今後も応援いただけると嬉しいです!




