19話:私を、すべて覚えていて
第19話を投稿しました。
これまで少しずつ積み重ねてきた“契印”の物語は、いよいよ最深部へと踏み込みます。
今回、明かされたのは「忘れられた魔女」――フェリシアの存在。
誰の記憶にも残っていないのに、心の奥が“知っている”と囁く、不在の温もり。
それを確かめるために、真夜は“記憶そのもの”と向き合い、
彼女の涙、想い、そして「忘れられた願い」を剣に刻みました。
静かで、熱くて、少し切ない契約。
でもきっと、これが“共に在る”という意味なのだと思います。
空気が変わっていた。
第七契印が刻まれた翌朝。
森には静寂が戻り、霧のような魔力の余韻もすでに消えかけている。
魔女たちは思い思いの姿勢で朝を迎えていた。
ルーナは水辺で髪を整え、アリエルは木の枝で光の屈折を試し、
ミナとヴィオラは焚き火の残りで朝食を準備しながら冗談を言い合っている。
セリスは真夜に向かってサムズアップを送る。
「ようやく全員そろったな、なあ」
「……ああ、これで契印は、七つ」
真夜は背にあるラグナを軽く叩いた。
契印の紋様はすべて埋まり、赤と銀の螺旋が剣全体を覆っている。
“完全な剣”として目覚めた証だった。
魔女たちはそれぞれ、静かに微笑んでいた。
けれど――
どこかで、誰かが、
**「何かが、足りない」**と囁いた気がした。
「なあ、ミナ」
ヴィオラがふと問いかけた。
「最初、私たちって……何人だったっけ?」
ミナはサンドイッチを渡しながら言った。
「6人でしょ。契約済みの魔女は最初から6人。真夜が私たちと出会って――それで7つ目が、あなただったじゃない」
「うん。……いや、そうなんだけどさ」
ヴィオラは眉を寄せる。
「変な話なんだけど……私、“もうひとりいた気がする”んだよね。
髪の長い……いや、違うな……“静かな空気の誰か”。でも顔が浮かばないの」
ミナも、わずかに目を細めた。
「……それ、私も同じ感覚がある。
ずっと6人でいたのに、誰かの名前を思い出せない。
それを思い出そうとすると――頭が、ぼやける」
そのとき。
ラグナが、低く唸った。
真夜は反射的に剣を抜いた。
剣身に浮かぶ紋が、すべて光る。
第七契印の“そのさらに奥”――
本来なら空白など残っていないはずの領域に、
ほんの一瞬だけ、
**「第八の空白」**が、滲むように浮かび上がった。
「真夜……! それ……!」
イェルダが指差す。
真夜の瞳が鋭くなった。
「剣が……呼んでる」
だが、呼んでいるのは誰だ?
もう7人すべての契印は揃っている。
時間、呪詛、光、契約、欲、破壊、そして――自分自身。
それなのに、ラグナはまだ、“何か”を求めている。
そのとき――
セリスが唸るように呟いた。
「なあ……俺たち、“忘れてる”んじゃねえのか?」
「忘れてる……?」
「記憶ごと、誰かの存在を――まるごと抜かれてる。
それに、気づいてないように“されてた”んじゃないかって思う」
沈黙が走った。
誰も言葉を返さなかった。
全員が、その言葉に心のどこかが反応してしまったのを感じていたからだ。
そして、
その場に“異音”が走った。
「……ッ!」
空気が、ピキリと音を立てて歪む。
地面の下から、低い振動のようなものが立ち上がり、
一瞬、木々の枝葉が逆向きに揺れた。
ラグナが青白く光を放ち、剣の先が“何か”を指す。
それは――北の森の、さらに奥。
普段は魔力の流れがなく、“封印”されたように誰も近寄らない区域だった。
「……あそこに、いるの?」
イェルダが小さく問う。
「“忘れてしまった魔女”が」
真夜は、ラグナをそっと収めた。
そして、静かに答えた。
「……確かめに行こう。
俺たちが“契印のすべて”を手にしたと思っていた、その先へ」
北の森――
そこは地図にも記されず、魔女たちの誰も近づこうとしない領域だった。
風の流れが止まり、魔力が“凍る”ような静寂。
枝の先まで張り詰めた空気が肌を刺すように冷たく、
まるで“意志を持った空白”が森全体を支配しているかのようだった。
「……ここ、本当に空間が固まってるみたいだ」
ヴィオラが息を吐き、指先に浮かべた火の魔力がすぐに消える。
「普通の封印じゃない。空間ごと“記憶を拒んでる”」
ルーナが眉をひそめて周囲を見渡す。
「さっきから……誰かの名前が、のどの奥まで出かけてるのに、言えないの。
なんで……?」
「その感覚、私もずっとある」
アリエルが目を伏せて呟く。
「この森に入ってから、どんどん強くなってる。
“誰か”がいた気がする。
でも、その誰かの記憶だけが……滑っていくように思い出せない」
セリスが唸るように言った。
「それが“錬成”ってやつか……記憶を、加工された跡」
一同が足を止めたのは、森の最奥。
草も枯れ、石と砂利しか残っていない灰色の空間。
その中心に、石碑がひとつあった。
高さは真夜の胸ほど。
誰の名も刻まれていないのに、そこからは確かな“意志”が漂っている。
真夜が近づこうとすると、剣――ラグナが低く鳴いた。
剣身の奥から、赤と白ではない“淡い青”の光が滲み出す。
「……これって」
ミナが一歩前へ出た。
彼女は剣に手を触れ、目を閉じる。
数秒後、表情が凍った。
「これ、“記憶の錬成”よ。
しかも……“他者の記憶を書き換える”ほどの精度。
この場で誰かの記憶が封じられた――契印を持たない、誰かの」
真夜の背で、ラグナがさらに強く震える。
剣身の紋様が変化を起こす。
今までの7つの契印とは違う――第八の印の枠が、淡く、しかし明確に浮かび始めた。
それはまるで、ここに“もうひとつの契約”が必要だと告げるように。
「……誰なんだ、その“誰か”って」
セリスが険しい顔をする。
「思い出せない。でも……心は、覚えてる」
イェルダがぽつりと呟く。
「名前も、声も、顔も出てこない。
だけど――あの場所に、“あの子”がいた気がする。
私たちの中に、ずっと。なのに、今はいない」
そのときだった。
世界が、ふっと息をついたように揺らいだ。
空気が歪む。
石碑の上に、ゆらりと光の波が立ち上がる。
そこに現れたのは――
ひとりの少女の幻影だった。
肩まで伸びた淡い銀髪。
深い紫の瞳は、見つめるだけで何かを思い出させるような静けさを持っていた。
だが、誰もが“この少女を知っている”と直感したその一方で、
“彼女の名前”だけが、なぜか思い出せない。
少女は微笑んだ。
悲しげで、それでいて満たされたような、あたたかな笑みだった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「私を……忘れてくれて、ありがとう」
魔女たちが、一斉に息を呑んだ。
「……え?」
「私は、消えるはずだったの。
みんなの記憶から、役割から、この世界から。
でも、それでよかったの。
だって、みんなの“哀しみ”を引き受けて、
“思い出さなくていい記憶”に変えるのが、私の役目だったから」
真夜が一歩前に出た。
「君は……」
少女は目を伏せ、そっと手を差し出す。
その掌には、青く光る“第八の契印のかけら”が浮かんでいた。
「でも……呼んでくれたよね。
あなたが、私のことを。
だから今だけ、ここに戻ってこられたの」
少女の姿が、ふっと風に溶けそうになる。
「私の名前を、思い出して。
そして――最後の契印を、刻んで」
「私を……忘れてくれて、ありがとう」
少女――フェリシアの幻影は、風に溶けそうなほど儚く微笑んでいた。
だがその声音には確かな“痛み”と“優しさ”が混じっていた。
まるで、過去のすべてを自分一人で背負ってきた者だけが持つ、静かな光。
「……フェリシア、なのか」
真夜がゆっくりと問いかける。
少女は小さく頷いた。
「記憶の魔女、フェリシア。
私は“皆が見なくて済む痛み”を加工して、
思い出さなくてもいいように削って、
“消えるはずの魔女”だった」
その言葉を聞いた瞬間――
ルーナが胸を押さえて、苦しげに目を伏せた。
「私……今、思い出した……ほんの一瞬だけど、あなたと話してたこと……」
アリエルも震える指先を唇に当てる。
「私にも……“忘れた記憶”が、戻りかけてる。
でも、痛い……。
それは“私のせいで”誰かが泣いていた記憶……!」
フェリシアは悲しげに微笑む。
「そう……“思い出す”ってことは、痛みも一緒に戻るということ。
だから私は、消えた。
皆に笑っていてほしかったから。
でも……あなたたちは、私を呼んでしまった」
ミナが顔を歪めながら言った。
「ずるいよ、そんなの……!
私たちは忘れたくて忘れたんじゃない……!
でも、覚えてるのも……怖かった……!」
フェリシアは静かに手を差し伸べる。
そこに浮かんでいたのは、淡い“記憶の光”。
「この光は、契印になる。
私と契約すれば、皆の“失われた過去”が完全に戻る」
「でもね――」
彼女は一歩、真夜の方へ近づいた。
「その記憶には、喜びも、哀しみも、裏切りもある。
傷つけたことも、傷つけられたことも全部、戻ってくる。
それでも、あなたは……」
「――受け止める」
真夜の声が、はっきりと空気を貫いた。
魔女たちが顔を上げた。
「誰かが、忘れたいと願った記憶。
誰かが、“なかったこと”にした苦しみ。
そのすべてを、“剣に刻む”ことで受け止めてきたのが俺だ」
彼はラグナを抜き放つ。
剣身に、第八の契印の“輪郭”がゆっくりと現れ始める。
蒼い光が静かに脈動しながら、過去の哀しみを飲み込むように広がっていく。
「契約は、力のやりとりじゃない。
感情を、過去を、信じて手を差し伸べることだろ」
フェリシアがわずかに目を見開いた。
その瞳に、薄く涙がにじむ。
「……そう。あなたは、最初からそうだったね」
彼女の姿が、少しずつ確かになっていく。
光の影ではなく、肌と表情と涙がある“存在”として、そこに立ち始めていた。
「でも……これは“契印”よ。
ラグナに刻まれた瞬間、
あなた自身の記憶にも影響が及ぶ。
私の“封じてきた痛み”は、あなたにも降りかかるかもしれない」
「それでも構わない」
真夜は剣を逆手に取り、胸元に静かに当てた。
「君が、ここにいていいって証になるなら。
君の痛みも、忘れられた事実も……全部、背負うよ」
ラグナが鳴いた。
高く、深く、震えるように響いたその音は――
これまでどの契印よりも、優しく、しかし重く響いた。
その剣に、蒼い契印の紋がゆっくりと刻まれていく。
第八の契印。
哀しみと忘却を超えた、“記憶の契約”。
フェリシアは涙をこぼしながら、初めて声を震わせた。
「……そんなふうに言ってくれた人、初めてだった」
空気が震えていた。
記憶の霧が晴れていく中、フェリシアは一歩ずつ真夜へと近づいてくる。
「……私と契約すると、あなたにすべての記憶が流れ込む。
ただの魔力じゃない、“私が引き受けていたみんなの痛み”も一緒に――」
「全部、受け止める」
真夜の声は低く、だが揺るぎがなかった。
彼は剣を下ろし、胸元をさらけ出すようにその柄を持ち替えた。
そこへフェリシアがそっと触れる。
ふわりと風が流れ、彼女の髪が真夜の頬をなでる。
そして、額と額が触れ合った瞬間――
感覚が弾けた。
肌が燃えるような魔力の波が、互いの額から全身へと走った。
フェリシアの指先が真夜の胸に滑り落ちる。
その軌跡はまるで熱を帯びた光のようで、皮膚の奥にまで染み込んでいく。
「……ん、あっ……」
フェリシアの唇から漏れる吐息が、真夜の耳に触れた。
彼女の身体が小さく震える。
魔力が記憶と共に流れ込み、
彼女の中の“忘れられた想い”が剥き出しのまま、真夜の心に触れてくる。
「君が、みんなの痛みを……全部、背負ってたんだな……」
真夜は息を呑んだ。
その感情の奔流に、心が焼けつきそうになる。
――見捨てられた夜
――赦されなかった嘘
――笑いあった日々の裏にあった沈黙
全てが、フェリシアの胸でずっと燻っていた。
「……わたし、ね……誰にも、見てもらえなかったの。
この感情も、この願いも……“忘れてもらうこと”だけが、私の役目だったのに……」
真夜は彼女の腰を引き寄せる。
熱くなる体温、鼓動、震え。
「それでも、お前はここにいた。俺は、それを忘れたくない。
名前じゃなくて――魂で、覚えてる」
フェリシアの目に涙が浮かぶ。
「じゃあ……刻んで。あなたの剣に、私のすべてを」
彼女の服の胸元が、魔力に反応して淡く開く。
露になった肌に、蒼い光の輪郭が浮かび上がる。
真夜がラグナを構える。
剣が応える。
深く、低く、優しく震える。
「……これは、“癒し”じゃない。
お前を“忘れない”っていう……“誓い”だ」
剣先が、フェリシアの胸に触れる。
その瞬間――
「……っ……ぁ……ッ!」
フェリシアの背がのけぞり、身体が震える。
青白い光が彼女の全身から放たれ、剣へと注ぎ込まれる。
記憶、哀しみ、切なさ、そして――欲するような共鳴の悦び。
熱と涙と震えが混ざり合う中、
フェリシアは真夜に身体を預けた。
彼の胸に顔を埋めて、微かに、泣きながら笑った。
「……ありがとう……もう、消えないね……わたし」
ラグナが静かに鳴いた。
剣身に第八契印が完成する。
それは、すべての契印と違って、
優しさと痛みを折り重ねた――“記憶の形”だった。
魔女たちが一斉に駆け寄る。
ルーナが涙をこぼしながら笑う。
「……おかえり、フェリシア」
アリエルが囁く。
「最初から、あなたは“ここにいた”んだよ」
真夜はフェリシアをそっと抱き締めたまま、
穏やかに言った。
「忘れない。お前の願いも、痛みも、
俺が剣に全部――刻んだから」
空が光り、朝が来る。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
フェリシアという魔女は、“記憶”と“忘却”の象徴です。
それは決してただの情報ではなく、
「その人が生きてきた証」そのものであり、
時に痛く、時に愛しい、“心の断片”です。
真夜は、その重さを知ったうえで、彼女と繋がることを選びました。
剣に刻まれた第八契印は、最も儚く、最も深い“共鳴”の証。
これで8つの契印が揃いました――
でも物語はまだ終わりません。
次回はいよいよ最終話、第1巻の結びへ。
世界がどう変わり、彼らがどんな朝を迎えるのか。
ぜひ最後まで見届けてください。