18話:名のない怒りは、我が内に
第18話を投稿しました。
この話では、いよいよ「第七の契印」の核心に迫ります。
ただし、それは誰かの感情ではなく――真夜自身の怒り。
ずっと見ないふりをしてきた想い。
助けを求めても届かなかった過去。
黙って飲み込んできた“感情の蓄積”に、
ようやく剣を向けられるようになった真夜の成長を描いています。
剣と心の共鳴、魔女たちの見守る中での「自分との契約」。
これまでとはまったく違う“内面との戦い”を、ぜひ見届けてください。
朝。
淡い陽光が、森の隙間から差し込んでいた。
木漏れ日が揺れるたび、昨夜までの熱と怒りが嘘のように、空気が澄んでいる。
静けさ。
けれど、それは重くも冷たくもない。
魔女たちの魔力が互いに溶け合い、柔らかい余韻となって包み込んでいた。
その中心で、真夜はひとり、焚き火跡のそばに腰を下ろしていた。
彼の視線の先には、寝息を立てる少女――イェルダの姿がある。
白銀の髪。
ふわりと揺れる長い尾布が、寝袋からはみ出すように地面に沿って伸びていた。
かつては拒絶の象徴だったその“尾”が、今は静かに呼吸と共に上下している。
「……怒りが、眠ってるみたいだな」
真夜は小さく呟いた。
剣を手にしているときの彼では見せない、穏やかな横顔だった。
そのとき、パチリと枝を踏む音がした。
ルーナが朝露に濡れた髪を撫でながら、そっと近づいてくる。
「起きてたのね、真夜。……寝られなかった?」
「いや、眠ったよ。ちゃんと」
そう言って、彼はイェルダの方に目をやった。
「ただ……なんとなく、見てたくなってな。
怒りって、眠ってるときはこんなに優しく見えるんだなって」
ルーナはそっと笑った。
「イェルダちゃん、昨日はいっぱい泣いたもんね。
あれだけ感情を出したら、朝くらいは静かでもいいよね」
そこに、ミナとアリエル、そしてヴィオラも目を覚まし始める。
朝の空気に包まれた焚き火跡に、魔女たちが次々と集まり始める様子は、
まるで長旅の戦士たちが、ようやく一つの場所に戻ってきたようだった。
「これで……6人揃ったんだな」
セリスが寝袋から起き上がりながら言った。
「お前もよく頑張ったよ、真夜。
契約6人なんて、前代未聞だぜ?」
「しかも、どれも“感情”で結ばれた契印だからね」
アリエルが感心したように言う。
「普通はもっと形式的な儀式に頼るものなのに……」
そのとき、イェルダがゆっくりと目を開けた。
まどろみの中で、周囲の空気を確かめるように数度まばたきし、
尾をゆるやかに巻き戻すと、彼女は小さく息を吐いた。
「……あ。おはよう」
真夜が、いつもより少し柔らかい声でそう言った。
イェルダは驚いたように真夜を見つめ、そして、少しだけ口元を緩めた。
「……ねえ、真夜」
「ん?」
「わたし、本当に……怒ってても、いいんだよね?」
その言葉は、昨日の契印が夢ではなかったかを、確かめるようだった。
「もちろん」
真夜はまっすぐに頷いた。
「怒っても、泣いても、笑っても、お前は“イェルダ”だ。
それが、俺が剣に刻んだ“名前”だ」
イェルダの目が、ほんの一瞬だけ潤む。
けれど、彼女は泣かなかった。
代わりに、魔女たちが一斉に彼女の周囲に寄ってきた。
ルーナがそっと手を差し出し、ミナが笑い、アリエルが微かにウインクを送る。
「おかえり、イェルダ」
「朝ごはんはあるからね」
「尾の巻き方、ちょっとカッコよかったよ」
イェルダは目を見開き、そして――ようやく、声に出して笑った。
「……なにそれ、へんなの」
彼女が笑うと、全員の緊張がふわりと解けていく。
焚き火跡に、柔らかな笑い声が広がった。
だがそのとき――
真夜の背にあるラグナが、低く唸った。
「……!」
真夜が立ち上がり、ラグナの柄に触れる。
剣の脇腹に、脈のような光が走る。
明らかに、既に刻まれた第六契印の先――
**第七の“未契印領域”**が、うっすらと脈動を始めていた。
「……まだ、終わってないんだな」
真夜の声に、魔女たちが息を呑む。
「どういうこと……? 契約は6人で完結するはずじゃ……」
「いや、違う。最初から“七輪目の席”は、剣に存在してた。
だけど……誰のためのものかは、ずっと伏せられてたんだ」
真夜は剣を見つめる。
「今、その痕跡が、目を覚まそうとしてる」
イェルダが立ち上がり、真夜の隣に立つ。
「最後の契印……それって、誰の?」
「わからない」
真夜は静かに言った。
「でも――“誰かを守りたい”って想いが、まだ終わってないのは確かだ」
光の朝が、新たな影を孕み始めていた。
森の奥へ進むにつれ、空気が変わっていった。
風が止まり、鳥の声が遠ざかる。
木々のざわめきすら、まるで“何か”に警戒しているように静まっていく。
「……ここ、何もいないのに、息が詰まる」
ルーナが立ち止まり、胸元を押さえた。
他の魔女たちも、無意識に足を緩める。
目の前に広がっていたのは、木々の切れ間にぽっかりと現れた、空白の空間だった。
地面には草もなく、踏まれた跡も、何かの残骸もない。
ただ、中心に灰色の岩がひとつ、ぽつんと置かれているだけ。
まるで誰かの“墓標”のように、そこにあった。
「……魔力の流れが逆流してる」
アリエルが言った。
「私たちの気配に反応して、何かを押し返してる……それなのに、誰もいない」
「気味が悪いな。魔物の巣でも、ここまで重くねえぞ」
セリスが周囲を見回す。
ミナが目を閉じて、気配を探る。
「ここには……“誰か”がいた気配はある。でもそれが、どんな感情か読み取れない。
まるで、“名前が存在しない”みたい」
ヴィオラは岩に近づこうとして、足を止めた。
「ラグナが……震えてる」
真夜の背で、ラグナが再び赤黒い光を灯す。
第六契印の奥、剣身に刻まれていなかった空白の領域が、
淡く、しかし確かに――脈打ち始めていた。
真夜は無言で剣を抜き、柄を握りしめる。
指先に、見覚えのない“痺れ”が走る。
それは魔女との共鳴のときに感じたものとはまったく違う――
どこか“個人的”で、“本能的”な感覚だった。
「……おかしいな」
ルーナがぽつりと呟いた。
「第七の契印って、誰が持ってる感情なの?
私たちはもう、全員刻まれてる。
ここにいる誰にも、契印の気配はないのに……ラグナだけが、求めてる」
「つまり、“今ここには存在しない感情”ってことか」
アリエルが補足する。
「でもそれが“過去の誰か”とも、“まだ出会っていない誰か”とも違うなら……」
沈黙が、場を支配した。
真夜が、岩に目を向ける。
近づくたびに、剣の震えが強くなる。
何かが剣を呼び、剣が何かを欲している。
だが――それが何なのかが、まるで掴めない。
「……まるで、ラグナ自身が“契約を求めてる”みたいだ」
真夜が口を開いた。
「魔女でもない、精霊でもない……
この剣に刻まれていない、最後の感情」
「それって……」
イェルダが言う。
他の魔女たちが、彼女に視線を向ける。
「真夜、もしかして――それ、“あなた自身の怒り”なんじゃないの?」
剣の脈動が、さらに強くなった。
まるでその言葉に反応したかのように、ラグナの第七領域が淡い光を放つ。
真夜の手が、小さく震えた。
「俺の……怒り……?」
自分の中を探る。
今まで、魔女たちの感情と共鳴し、剣に刻んできた。
癒し、呪詛、自罰、信頼、欲、そして怒り――
けれどそれはすべて“誰かのもの”だった。
では、“自分の感情”とは何か?
彼は、それを剣に込めたことが一度でもあったか?
「……俺が、何に怒ってたかなんて……」
言いかけて、言葉が止まる。
記憶の底で、何かが軋んだ。
誰にも語らなかった、
いや、“語ることすら忘れていた”怒りが、
ゆっくりと形を持ち始める。
魔女たちが静かに見守る中――
真夜は、岩の前で膝をついた。
剣の光が、微かに彼の影を長く引き伸ばす。
「ラグナが求めてるもの。
それは、“俺がまだ、向き合っていない感情”かもしれない」
魔女たちは、そっと息を飲む。
その背で、風が吹く。
その風は、誰のものでもない、名を持たぬ“第七の感情”を
静かに――そして確かに、呼び始めていた。
静寂が、空間を包んでいた。
魔女たちは言葉を発さず、ただ真夜を見つめていた。
中心に立つ彼の手には、剣――ラグナ。
その柄が、今もかすかに脈打っている。
まるで、「語れ」と促してくるかのように。
真夜は目を閉じた。
記憶の深く、誰にも見せたことのない場所へ――
心の奥へと、潜っていく。
――その感情は、いつ生まれたのだろう。
思い出せる限りで、最も古い記憶のひとつ。
幼い頃、家族の中で自分だけが会話から除け者にされていた。
「まだ小さいから」「黙ってて」
無邪気な言葉の裏にあったのは、“透明人間”のような扱いだった。
学校では、何も悪いことはしていなかった。
けれど、真夜の声にだけ皆が反応しない。
意見を出しても、無視され、笑われ、
やがて「空気を読め」と嘲られた。
誰かが「お前って、いる意味あるの?」と笑ったとき、
胸の奥で、何かが崩れた。
でも、そのときすら真夜は怒らなかった。
怒ってはいけないと思っていた。
怒ったら、もっと“見えない存在”になる気がして。
(……だけど)
怒りは、そこにいた。
言葉にはしなかった。
顔にも出さなかった。
けれど確かに、心の片隅でじっと、ずっと、
誰にも気づかれないまま――燃えていた。
「真夜……?」
現実に戻ってきたとき、そっと呼びかけたのは、ルーナだった。
彼はゆっくりと目を開ける。
周囲の空気が変わっている。
焚き火もないのに、どこか暖かい。
いや、それは――ラグナが放つ熱だった。
剣が、真夜の“記憶”に反応していた。
真夜がラグナを地面に突き立てると、
剣から淡い光が迸り、空間の中心に“映像”が浮かび上がった。
小さな少年が、学校の隅で一人座っている。
誰にも話しかけられず、手を挙げても無視されている。
声はないが、その空気だけが痛いほど伝わってくる。
「これが……俺の記憶。
誰にも、言ったことのない……“怒り”の源」
イェルダが、そっと彼に近づいた。
彼女は、かつて“怒り”を封じてきた魔女。
その彼女だけが、迷いなく言った。
「それが……あなたの“名前のない怒り”なのね」
真夜は頷いた。
「気づかないふりをしてた。
怒るのは負けだと思ってた。
でも――心の奥にはずっとあった。
『どうして自分だけが見てもらえないのか』っていう、
何にもぶつけられない怒りが……」
ヴィオラがそっと言葉を重ねた。
「誰にも見てもらえないって、
一番、自分の価値を疑う瞬間だものね」
アリエルが目を伏せて呟く。
「それを怒れたら、楽だったのに……
怒ることすら、許されなかったんだね」
ルーナが真夜の手に触れた。
そのぬくもりが、痛みを少しだけ和らげる。
そして、ラグナの剣身が震えた。
剣の第七領域が、まるで“納得”するかのように、赤と白の光を交互に点滅させる。
それはまるで――“怒り”と“赦し”が、交差しているかのようだった。
「今なら、わかる」
真夜はゆっくりと剣を持ち上げる。
「この怒りを誰かにぶつける必要はない。
でも、なかったことにもしたくない。
これは確かに――“俺という存在”が生きてきた証なんだ」
その言葉と同時に、
第七の契印の“形なき領域”に、淡く光の筋が現れ始める。
まだ“名”は浮かんでいない。
けれど、何かが生まれようとしている。
真夜がそっと剣を胸に当てた。
「これが俺の――第七の感情だ」
その瞬間、心核の空気が震え、
地面に刻まれかけた光の文字が、脈打つように動き始めた。
名を持たなかった怒りが、
ようやく“名を求め始めた”。
風が止まっていた。
あの重い空間に、まるで息を呑むような静寂が流れている。
ラグナの剣先に浮かんでいた“空白の紋”は、いま、真夜の心と完全に呼応していた。
剣が求めているのは、もう外の感情ではない。
それは真夜という人間の奥底に沈んでいた、
“名前を持たぬ怒り”――
誰にも言えなかった、誰にも受け止めてもらえなかった、
けれど確かに、ずっとそこにあった想い。
魔女たちは、一歩下がった場所でそれを見守っていた。
誰も言葉を挟まない。
この瞬間だけは、誰も真夜の中には踏み込めない。
これは、彼自身との契約。
真夜は深く息を吐いた。
そして、ラグナを――自らの胸元へと静かに当てた。
「これが、俺の怒りだ」
声は震えていない。
けれど、どこか泣いているような、熱を帯びた響きだった。
「誰にも見てもらえなかった。
助けを求めても、届かなかった。
見えてるのに見てくれなかった世界が、
怖くて、悔しくて……ずっと、怒ってた」
剣が反応する。
真夜の全身を、淡い光と脈動が包んでいく。
痛みはない。けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それはまるで、過去の自分に触れられているような――そんな感覚。
「怒ることを、自分に禁じた。
“こんなのは子どもっぽい”って、思い込んでた。
でも……違ったんだ」
ラグナが微かに震える。
その刃が、真夜の心を覗き込む。
一つ、また一つと――
心の底に沈んでいた“言えなかった言葉”たちが、剣に流れ込んでいく。
「俺は、怒っていた。
助けてって言っても誰も気づいてくれなかった日々に。
“いる意味あるの?”って笑われた言葉に。
それを全部黙って飲み込んで、平気なふりをしていた“自分”にさえ……」
剣身に、光の紋が走る。
まだ何者の名も与えられていなかった第七契印の空白が、
まるで手紙を書くように、少しずつ、模様を織り始めていく。
魔女たちは、誰一人として目を逸らさない。
イェルダが、そっと両手を組んで祈るように見つめている。
「……怒ってても、ずっと抱えてても、
それでも生きてきたんだね、真夜……」
真夜は目を閉じた。
心の奥で、少年の頃の自分が見えた。
泣いている。声もなく。
拳を握りしめて、唇を噛んで――
それでも、誰にもその姿を見せなかった“あの子”がいた。
彼は、静かにその少年へと手を差し出した。
「ありがとう。
怒ってくれて、ありがとう。
消えないでいてくれて……ありがとう」
その瞬間――
ラグナの第七契印が完成した。
剣身に刻まれた空白の領域が、光の線を描き、
他の契印と同じように“意志の形”として結ばれた。
それは、名のない者の紋。
誰でもない、誰かの代わりでもない――
“自分自身を証明する、たったひとつの印”。
契印の波動が空気を伝い、真夜の胸へと刻まれる。
光が静かに彼を包み込み、そして――収まった。
しばらくして、静けさの中で真夜が小さく息を吐く。
彼はゆっくりと剣を背へ戻し、顔を上げた。
瞳は赤く潤んでいたが、その顔は安らかだった。
「……自分のことを、許せた気がする」
魔女たちが、誰よりも優しい表情で彼を迎えた。
ルーナが一歩前に出て、微笑む。
「おかえりなさい、真夜」
ミナが言う。
「ようやく、私たちと同じ場所に来てくれたんだね」
イェルダが、目を伏せて囁く。
「怒りを肯定してくれたあなたが……自分の怒りも肯定できたなら、
それは、もう最強の剣だよ」
真夜は少しだけ、微笑んだ。
「ありがとう。
俺は、ようやく……“誰かを守る”ってことに、
自分自身も含められるようになった気がする」
剣が小さく、共鳴音を立てた。
その音は、穏やかで――どこまでも、優しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第七契印――それは“誰か”ではなく、「真夜自身の感情」に刻まれたものでした。
この世界で、怒りや哀しみは力になる。
でも、それは誰かを傷つけるものではなく、
“理解してくれる誰かがいる”ことで、初めて剣に変わるのかもしれません。
真夜はようやく、“自分を許す”ことができました。
そしてその剣は、今後「誰かを守るため」に振るわれていくはずです。
しかし――契印は7つで終わりではない。
次回、物語は“記憶の奥”に隠された真実へと踏み込んでいきます。
どうか最後まで、お付き合いください。