16話:怒っていても、いい
第16話「怒っていても、いい」を投稿しました。
今回は、怒りの魔女――イェルダとの“初めての対話”が描かれた回です。
暴走や拒絶の奥にあるのは、誰にも届かないと思い込んだまま沈殿していた「本音の怒り」。
真夜は、それを力で抑え込むでもなく、優しさだけで包むでもなく、
“違っていても、怒ったままでもいい”という言葉で寄り添おうとしました。
怒りとは、否定でも敵意でもなく、“声にできなかった願い”なのかもしれません。
その叫びに、真正面から向き合おうとする真夜の姿が、イェルダにどう届くのか。
次回は、その続きを描きます。
朝。
風が変わっていた。
空は晴れているのに、空気が重い。
肌に触れる空気が“ざらついている”ような違和感――
魔力の流れが、乱れていた。
「……完全に、始まってるな」
真夜はラグナの柄を握り直す。
剣が微かに赤黒い光を放っていた。
第五契印の下に、まだ未刻印の“第六の輪郭”が脈を打っている。
《第六契印:感応中
感情属性:怒り
封印部位:尾
魔力反応:周辺空間に拡散》
「完全に“尾”の封印が不安定化してる……」
アリエルが魔力視を開き、眼を細める。
「山間部の廃村から、波状的に怒りの波が発せられてるわ。
それも、感情をぶつけるように“跳ね返す”性質……近づく者を拒絶してる」
「ま、予想通りってやつか」
セリスが唇を鳴らす。
「イェルダって奴……相当、誰かにキレてるな。
それも……“自分に怒ってる”感じ」
ヴィオラは黙っていた。
ただ、真夜の隣にぴたりと立ち、時折、ラグナを見ては目を伏せる。
彼女には分かっていた。
“怒り”は、一度抑えられた感情が爆発することで生まれること。
だからこそ、誰かがそこへ踏み込むとき――
その痛みを半分、背負う覚悟がいることを。
「この先が、廃村の跡ね」
ミナが指差す。
道なき道の先、木々が不自然に抉られ、
石垣や崩れた家屋の残骸が姿を覗かせている。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
空気が変わった。
“押し返される”。
それが最初に感じた感覚だった。
まるで、周囲全体が怒っている。
枯れ枝が跳ね、風が尖り、空気の粒がひりつくように逆立つ。
魔力が、怒りと混ざって空間に染みていた。
「誰か、ここで“爆発した”んだ」
真夜の声は静かだった。
「この村……たぶん誰もいなかった。
だからこそ、イェルダはここで暴れた。
“誰もいない場所”で、やっと“怒っていい”って思えたんだ」
ルーナがそっと言う。
「怒るのって、怖いよね。
相手を傷つけるかもしれないし……
自分も、“嫌われる”のが一番怖い」
真夜は、その言葉にわずかに頷いた。
(俺もそうだった。
“怒ってはいけない”って、ずっと思ってた。
でも……それは、誰かを守りたい気持ちを、押し殺すことでもあった)
廃村の中心。
ひときわ大きな揺れを感じる場所に、一同は立ち止まる。
そこには、ぽつりと壊れた井戸があった。
周囲は抉れ、ひび割れた石がまるで“尾の一閃”の痕のように裂けている。
真夜がそっと、ラグナの刃を石に当てる。
かすかに――共鳴する。
赤黒い魔力が滲み、そこに“怒りの気配”が残されていた。
「……この場所。たぶん、彼女の“怒りの記憶”が封じられてる」
そのときだった。
誰もいないはずの空間。
だが、背中に何かの気配が走った。
視線。
殺気ではない。
だが、激しく揺れる“感情”の波。
真夜が、振り返る。
誰もいない――はずの林の奥。
だが確かに、そこに“何か”がいた。
風が吹いた。
尾のように――鋭く、しなる風だった。
視線の気配を追って、真夜たちは森の奥へと足を踏み入れた。
枝が軋み、空気がざらつく。
足元の落ち葉は焼け焦げたように黒ずみ、
風は時折、鋭く、尾のように頬を撫でた。
「魔力が……拒んでる」
ルーナが言った。
「違う、これは――怒りが“閉じ込めようとしてる”のかも」
アリエルが呟く。
やがて、森が開けた。
斜面の下――岩場と崩れた祠のようなものが混ざる場所。
そこに、一人の少女がしゃがみ込んでいた。
銀白の髪。
背には、尾の封印を象徴するかのような赤い紋。
尾のように長い布地が身体を包み込み、
それが地面に巻きついているように見える。
彼女は、顔を上げなかった。
ただ、自分を囲むように“怒り”を漂わせ、静かにそこにいた。
――イェルダ。
第六の魔女。
怒りと拒絶の封印を、その身に抱える者。
「……帰れ」
小さな声だった。
けれど、その一言は、重く空間を叩いた。
魔力の粒子が一気に逆流し、木々の枝が軋む。
「……君に会いに来た」
真夜が前へ出る。
「契約の話をしたい。君の――“名”を、俺は知りたいんだ」
その瞬間、風が爆ぜた。
“尾”が、地面を薙ぐように振るわれる。
触れていない。
だが、空気だけで斜面がえぐられた。
土煙の中、イェルダが初めて顔を上げた。
幼い。
けれどその目には、誰にも見せなかった怒りと恐怖が混ざっていた。
「私に名なんか、いらない。
お前たちも――“私を試しにきたんだろ”?」
「違う」
「嘘。皆そうだった。
“怒りを抑えろ”“笑ってごまかせ”“我慢しろ”
そうやって、私を“いい子”にしたくせに……!」
魔力が渦を巻く。
イェルダの尾がまた震える。
その怒りは、爆発寸前だった。
「私はもう、誰かに怒りを見られたくない。
誰かの顔を見て、傷つけるのはもう嫌なんだ……!」
真夜が口を開きかけたその時――
ヴィオラが、一歩、踏み出した。
だが――
「待て」
真夜が腕を伸ばして、それを制した。
「今の俺たちじゃ……彼女の“怒り”を真正面から受け止めきれない」
イェルダの視線が、ほんの一瞬だけ揺れる。
だがすぐに伏せられ、尾が再び身体を巻く。
それは、まるで“繭”のようだった。
怒りという殻に自分を閉じ込め、
誰にも触れられない場所に身を置こうとするその姿。
「……来るな。
私は“壊す”。
何もかもを――“壊してしまう”んだ」
その声には、震えと、怯えと、深い孤独があった。
けれどそれは、今まで出会ったどの魔女よりも“本音”だった。
真夜は剣を下ろした。
「……わかった。無理には近づかない」
「……?」
「けど、“怒りは壊すだけのものじゃない”ってこと、
俺は、お前に伝えたいんだ」
イェルダは、黙ったまま背を向けた。
尾が地面を這い、彼女の姿を再び繭の中へと隠していく。
“今はまだ、触れられない”。
それが、彼女からの答えだった。
真夜は静かに引き返す。
森の風が、彼の背を押すように吹いた。
その中に、ほんのわずか――
「本当は、名を呼んでほしい」
そんな声が、混ざっていたような気がした。
焚き火の炎が、ぱちりと音を立てた。
昼間に感じた重苦しい空気はまだ残っている。
怒りの尾の余韻が、誰の身体にも、心にも――深く沈殿していた。
真夜は黙って火を見つめていた。
ラグナは膝元に立てかけてあるが、今は静かだ。
ただ、その柄がかすかに温かい。
怒りに近づいたことで、契印が何かを感じているのかもしれない。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、隣からヴィオラの声がした。
「私、勝手に出ようとした。
あのとき……イェルダに踏み込もうとして、あなたに止められて。
でも、ほんの少しだけでも、“自分の過去”を見ているような気がして……」
彼女は膝を抱え、目を伏せていた。
焚き火の光が頬を照らしているのに、
その影はとても、遠いところに見えた。
「怖かったんです。
彼女の怒りが……私の“欲”よりも、ずっとずっと強くて、苦しそうで。
もしあのまま近づいていたら、私はまた、あの頃みたいに“拒絶されてた”気がして」
真夜は、ゆっくりと息を吸った。
そして、焚き火の向こうを見つめたまま、口を開く。
「俺も……怒ってたよ、ずっと。
気づかれないことに。
無視されることに。
理不尽なことに。
そして……何もできない自分自身に」
炎が、風に煽られて揺れる。
真夜の目が、その揺れに呼吸を合わせるように、細くなった。
「でも、怒りって……誰かにぶつけた瞬間、戻れなくなる気がするんだ。
だから俺は、黙ってきた。
“怒る資格なんてない”って、自分で蓋をしてきた」
「真夜……」
ヴィオラが顔を上げたとき、
その横で、セリスが背中を掻きながらぼそりと言った。
「……俺もだよ。
親父に殴られたときも、先生に無視されたときも、
“怒ったら、余計ややこしくなる”って自分に言い聞かせて……
結局、なにもしなかった。
でもな、あのときの“飲み込んだ怒り”って、今でもどっかにあるんだよな」
「私も……」
ミナが小さく囁いた。
「“静かにしてなさい”って言われて、怒るたびに“子ども扱い”されて、
なんで私だけ、って思ってた。
でも、それを言うと“わがまま”になる気がして……だから……」
アリエルは腕を組んで、空を見上げたまま答えた。
「怒りってね、
ほんとは“悲しみの形”なのよ。
分かってほしかったのに、それが伝わらなかったときにだけ、
人は怒りという名の鎧を着るの」
沈黙が、風のように一度、皆の間を通り抜けた。
そして、ヴィオラがそっと真夜に寄り添うように言った。
「……イェルダの怒りは、“守るための武器”だったのかもしれません。
誰にも奪われない、自分だけの“本音”だから」
真夜はラグナに手を置いた。
剣が、かすかに震えた。
その震えが、心に似ていた。
声にならない想いが、共鳴しているようだった。
「……だったら、今度は俺の本音で向き合う」
真夜が、炎の奥を見据えて言った。
「傷つけることが怖くても。
拒まれるのが辛くても。
それでも、俺は彼女に“名を刻みたい”」
ラグナの刃が、ぼうっと淡い赤紫の光を放つ。
第六契印――
その封印の輪郭が、一瞬だけ、火の揺らぎと重なったように見えた。
“尾”の封印。
怒りを巻きつけ、自らを閉じ込める“彼女の心”。
真夜は、静かに目を閉じる。
次に踏み込むときは、
ただ“契約のため”じゃない。
その怒りを、“誰かの力”に変えるため。
「……名前を呼ぶために、俺はもう一度、あそこへ行く」
朝露が葉を濡らし、地面に小さな光を落としていた。
鳥のさえずりが微かに聞こえるが、森の奥はまだ眠っているようだった。
けれどその静けさは、“怒り”による沈黙でもあった。
真夜はひとり、足音を殺して森を進んでいた。
昨日、引き返した廃村の奥――
イェルダがいた、あの場所へと。
剣は背に。
魔力の波に抗わぬよう、息を静めて進む。
――今日は、あの尾が振るわれるかもしれない。
けれどそれでも、行かなくてはならなかった。
やがて開けた場所にたどり着く。
朝の光が、木々のすき間から射し込む。
しかしその光すら、どこか淡く濁って見えた。
怒りの余韻がまだこの場所に根付いている。
そこに、彼女はいた。
昨日と同じように、崩れた祠の傍でしゃがみ込んでいた。
尾が背後から身体を包むように巻きついている。
まるで自分を外の世界から守る、殻のように。
イェルダは顔を上げない。
目も、声も、真夜には向けなかった。
でも――今日は、尾が動かない。
昨日のように、空気を裂くように振るわれることもなかった。
それだけで、彼女が完全に拒絶していないことが、わかった。
真夜は、ゆっくりと地面に片膝をついた。
剣を地面に立て、正面から“怒りの気配”を見据える。
「……怒っていいよ」
言葉が、空気に溶ける。
「俺も、怒ってたから。
誰にもわかってもらえなくて。
助けてほしいって言えなくて。
“ひとりでいろ”って言われ続けて……いつのまにか、
俺は自分自身にまで怒ってた」
イェルダは反応しない。
でも、その尾がわずかに、硬くなった気がした。
「でもな、俺はある日、怒りに疲れた。
“誰も信じない”って、言うのも飽きた。
だから、誰かと向き合うことにしたんだ。
怒ったままでも、誰かとつながっていいって、信じてみた」
沈黙。
ただ、風が尾の布を揺らす。
「それが――君とは違うって言いたいなら、それでいい。
俺の怒りと、君の怒りは違う。
でもな、違うなら……“違うまま、怒ってていい”」
その言葉に、イェルダの肩がわずかに揺れた。
ほんの一瞬、首がこちらへ動きかける。
だがすぐに戻る。
やがて、小さな声が返ってきた。
「……言葉なんか、届くと思ってるの?」
それは、怒鳴り声ではなかった。
吐き捨てでも、嘲笑でもなかった。
かすれて、震えて、
長い間、誰にもかけられなかった“声”だった。
「届かないかもしれない」
真夜ははっきりと答えた。
「でも、誰かが“お前の怒りを理解しようとした”ってことは、
ちゃんと残るはずだ。
だから、俺は“怒ってる君”に会いに来た」
その瞬間、イェルダが顔を上げた。
薄明かりの中、彼女の赤い瞳が真夜を捉える。
涙はない。
でも、その目は、泣くよりも強く揺れていた。
「私は……全部壊した。
信じてた人を傷つけた。
何もかも、自分で……」
「それでも、俺は君の名を刻みたい」
真夜の声は、焚き火よりもあたたかかった。
「“壊した”って思うなら、
その怒りごと、俺の剣に、俺の中に刻ませてほしい」
沈黙。
風が止まる。
イェルダの尾が、地面を這うように動く。
けれど、振るわれることはなかった。
それはもはや、“拒絶”ではなかった。
「……どうして、そんなことが言えるの」
彼女の声が、かすかに震えていた。
「私みたいに、怒ってばかりいたら……
誰も、そばにいてくれないのに」
「それでも、俺はいる」
真夜は立ち上がる。
剣を背に戻し、静かに一歩、彼女のほうへ進んだ。
「怒ってても、誰かと繋がっていい。
怒ってるからこそ、“守りたい”って思えるなら、
その気持ちに名をつけてやりたい」
イェルダの尾が、再び静かに地面に降りた。
それは拒絶でも威圧でもない。
たった一度、誰かに“信じてもらう”ことへの、
微かな、手探りの応答だった。
真夜は、穏やかに言った。
「――君の怒りに、名を刻む。
それが俺の契約だ」
風が、再び森を撫でる。
怒りの匂いはまだ残っている。
だが、その中に――微かに、希望の匂いが混ざったような気がした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
第6の魔女・イェルダは、これまでの魔女たちの中でも特に「重い」感情を背負っています。
そして、誰よりも繊細で、誰よりも“怒ることを許されなかった少女”。
そんな彼女に対し、真夜は初めて「怒っていてもいい」と告げました。
この一言は、彼自身の痛みから生まれたものであり、
物語のテーマである“感情と契約”の本質に迫る言葉でもあります。
怒りを力に変えるにはどうしたらいいか?
怒りを抱えたまま、誰かとつながるには何が必要か?
次回はその“答え”を見つける契約の物語です。
第17話も、ぜひお付き合いください。