12話:この胸に、嘘なき刻印を
第四の魔女、ミナ――“嘘を見抜く契約の魔女”との邂逅。
今回のエピソードでは、真夜がこれまでにない“繊細な契約”に挑みました。
力ではなく、言葉でもなく、“魂を通わせる手”をどう差し出すか。
信じることができずに傷つき、閉じていた心。
そこに触れるということは、ただの儀式では済まされない――
“ひとつの命を、抱きしめるような行為”であることを、真夜自身が理解する回です。
ミナとの契約は、“名を刻む”という行為の意味をもう一段深く掘り下げ、
物語の感情的な軸を強く支える存在になっていくでしょう。
真夜が一歩を踏み出すと、空間が“反転”した。
視界が歪み、重力の感覚が消える。
森の地形も、霧の結界も、仲間の存在すらも――
まるで存在していなかったかのように、世界が“書き換えられていく”。
そこは、白い部屋だった。
天井も、壁も、床も、全てが同じ無彩色。
音が吸い込まれ、影さえも存在しない空間。
ラグナも気配を消している。
まるで“心の中”そのものに放り込まれたような――
いや、これがミナの“心核”に至るための、精神領域なのだ。
(……本当に、俺だけを招いたんだな)
正面の空間に、わずかな“揺らぎ”が現れた。
霧が晴れるように、少女の輪郭が浮かび上がる。
亜麻色の髪。細身の肢体。
儀礼服ではなく、寝間着のような、やや乱れた衣服。
顔は、まだはっきりと見えない。
だが――その“存在の輪郭”だけが、強く訴えかけてくる。
「ここは……?」
「私の中。誰も入ってこられなかった場所。
でも……あなたは、入ってきた」
その声は遠く、かすかに震えていた。
「あなたは、自分の言葉を“本当”だと信じてる。
だから、それを確かめる場所が、ここ」
真夜は歩み寄る。
「試すのか?」
「そう。私は……信じたい。でも、信じることで壊れてきた。
だから、私は“感じる”。
あなたの指先が、言葉が、心が……どこまで偽りなく、私に届くのかを」
その瞬間、彼女の姿がすっと近づく。
距離はほんの数歩。
だが、その“気配”は手に取るように濃くなった。
服の襟元からは、鎖骨が見えている。
白くて、繊細で、触れれば壊れてしまいそうな肌。
その下に――“契約の封印”が刻まれている気配がする。
「……私に、触れてみて」
ミナが言った。
「ただの接触じゃない。“共鳴”するかどうか。
あなたの魔力と、私の魔力が、同じ温度になれるかどうか」
真夜の喉が鳴った。
(これは……そういう、“契約供給”の最初の段階……)
だが、彼女の顔はどこか儚げで、どこか怯えていた。
強がって差し出す手。
信じたくて差し出した手。
拒絶された過去を越えるための――“決死の信頼”。
「無理にとは言わない。もし私のことを、まだ“信じられない”なら……」
「違う。俺は――触れるよ」
真夜は、彼女の手に自分の手を重ねた。
細くて、冷たくて、それでも――震えていた。
だがその瞬間、魔力の糸が“ぱちり”と弾けた。
ラグナの中で、契印が震える。
「……あなた、やっぱり……あたたかい」
ミナの声が、微かに揺れた。
「誰かの手って、こんなにも……怖くないんだね」
彼女の目が、初めて真夜を正面から見た。
その瞳には、まだ不安と怯えが宿っていた。
けれど、明らかに“拒絶”ではない。
むしろ――“期待”が、そこにあった。
「次に進むなら……私の封印に、触れてもいいよ。
でもそれは、心と心が“同じ場所に立てたとき”」
その言葉とともに、空間に新たな扉が現れる。
黒く、閉ざされた封印のゲート。
契約の本段階に進むには――
ミナの“心核”そのものに、真夜が飛び込まねばならない。
「……行くよ、俺は」
真夜はその扉に手をかける。
微かなぬくもりが、まだ手のひらに残っていた。
扉の先にあったのは――
まるで“心”をそのまま形にしたような、美しくも儚い空間だった。
色づく草花が風もないのに揺れ、空には雲ひとつない淡い青。
だが、それらは“現実”ではない。
すべてが、ミナの心が作り出した――“心核本域”。
その中心に、彼女はいた。
薄手の白いローブ一枚。
水面を思わせる透明な生地が、肩先から膝までを包んでいる。
光に透けたその輪郭から、細くしなやかな身体が浮かび上がっていた。
露になった胸元には、未完成の封印紋が脈を打つように浮かんでいる。
真夜は、思わず息を呑んだ。
(……これが、“契約”の準備だってのか)
視線を逸らしそうになるが、目を背けることこそ失礼だと思い直す。
それほどまでに、ミナの瞳は真剣で――どこか、震えていた。
「……ここは、私だけの場所。
本当は誰にも、触れてほしくなかった。
でも……あなたには、見せてもいいって思えた」
「ありがとう。
お前の心がこんなに繊細で、優しい場所だなんて……想像してなかった」
ミナは、そっと目を伏せた。
その頬にかすかに赤みが差す。
「でも……優しいだけじゃ、私は壊れていた。
だから私は、“嘘”を許さなかった。
言葉じゃなくて、心で――“信じてる”って、感じたかったの」
彼女が、足元の花を踏まぬように一歩近づく。
その仕草すら、どこか神聖だった。
「この契約は……形式じゃないの。
あなたが私の中に踏み込んで、“嘘がない”って証明してほしいの。
言葉でも力でもなく――肌で、魔力で、魂で」
ミナが、胸元のローブの留め具に手をかけた。
すっと外され、胸元がわずかに開かれる。
真っ白な肌。鎖骨の下に、淡く光る魔法の刻印。
「……ここに、触れて」
真夜の喉が鳴った。
呼吸が浅くなる。
だが、それは“欲望”ではなく、“責任”と“決意”の重みだった。
「いいのか?」
「うん……今のあなたなら、きっと大丈夫。
私、怖いけど……怖くないって思いたい」
真夜は、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、彼女の封印に触れた――その瞬間。
「……っ!」
ミナの体が、小さく跳ねた。
肩が震え、目を閉じて息を吸い込む。
肌は冷たい。けれど、真夜の指に触れたところから、
まるで“熱”が逆流するように温かくなっていく。
魔力が、流れ出した。
真夜の魔力が彼女に。
そして、彼女の“心の温度”が真夜に。
相互に巡る波が、皮膚を越え、血を通じて、魂に届く。
ミナの胸元の封印が、ゆっくりと浮き上がる。
紋章が回転し、光を放ち、鼓動と共鳴し始める。
「……あなたの手、あたたかい……」
「お前が信じてくれたからだよ」
彼女の頬は赤く染まり、瞳の奥が潤む。
呼吸は浅く、肌は汗ばんでいく。
だが彼女は、逃げない。
むしろ――ほんの少し、体を預けてきた。
「もっと……つないで。
私の中の“冷たいもの”を、全部……あたためて」
真夜の手が、もう一度封印をなぞる。
そのたびに、ミナの背がわずかに反る。
細い指が真夜の服の裾を握りしめる。
その力は微かで、だけど――確かに“信じている”という証だった。
ラグナが深く低く鳴る。
《契約同調度:100%
第四契印、完全刻印完了》
封印が輝きながら収まり、彼女の肌に“紋章”として定着する。
それはまるで、“心の奥に名前が刻まれた”証。
真夜は彼女の頬に手を添え、そっと言った。
「――ミナ。これが、お前の名だ」
ミナは、笑った。
それは、今まで見せたどの表情よりも、
少女らしく、そして――救われた笑顔だった。
「……ねえ、私……ちゃんと、信じられたよ」
沈黙が、心を包んでいた。
契約の余韻――
指先に、胸元に、魂に刻まれた感覚がまだ消えない。
真夜は、目を閉じて深く息を吐いた。
魔力の循環は完全に同調し、ミナの封印は真夜の名によって解かれた。
それは、単なる“力の交わり”ではない。
――“心を重ねた”証明だった。
ミナがそっと顔を上げる。
「ねえ……不思議だよね。
たった一度、誰かを信じただけなのに……こんなに、心が軽くなるなんて」
「俺も、だよ。
名を刻むってのは、力を得るためじゃない。
“生きてきた誰か”を、まっすぐ受け止めることなんだって……今、わかった気がする」
彼女は、静かに笑った。
その微笑みは、契約前の彼女とはまるで別人のようだった。
硬さも、棘も、疑いもない。
そこにあったのは、“素直な少女の笑顔”。
「私……もう、あのときの私じゃない。
“嘘が嫌い”なんじゃなかったんだ。
“裏切られた自分が、嫌いだった”んだと思う」
真夜はそっと手を差し伸べる。
ミナは迷わず、それを取った。
ラグナが震える。
《第四契印、同調完了。新能力“共鳴探知”解放――》
光が剣身を駆け抜け、ラグナの意匠が一部変化する。
装飾が増え、光紋が剣の根本から脈打つように広がった。
「これが……お前の心と重なった、証」
真夜はラグナを見つめ、そしてミナを見た。
「ありがとう。俺の“名”を、信じてくれて」
ミナは頷き、ほんの少し、真夜の腕に寄り添った。
その仕草には、もう“怯え”はなかった。
やがて空間が、静かに崩れていく。
草花が光の粒となり、空がほどけてゆく。
「もう戻るんだね」
「でも、また来よう。
次は契約じゃなくて……ただ話をしに、な」
ミナがくすっと笑う。
「それ、ちょっと楽しみにしてる」
空間が完全に解けると同時に、真夜の意識が浮上する。
――そして、現実へ。
* * *
目を開けると、そこは霧の結界の縁。
真夜は膝をついていたが、意識ははっきりしていた。
すぐそばでルーナが手を差し伸べる。
「おかえり。……だいぶ時間、かかったね」
セリスが腕を組んで頷いた。
「けど、その顔見りゃ分かる。ちゃんと成功したんだろ?」
「――ああ。名を刻んできた。俺の言葉で、ちゃんと」
アリエルがラグナを見て目を細める。
「剣に新しい光紋……魔女の力との“共鳴”か。
そのうち、この剣そのものが意思を持ちそうね」
ラグナが“ふっ”と音を立てたように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
真夜が振り返ると、霧の奥にミナが立っていた。
もう逃げるような気配はなく、どこか誇り高く、仲間としての存在感を纏っていた。
「よろしく、ミナ。これから、俺たちは同じ道を歩くんだ」
「うん。……もう、“嘘を見抜く”ためじゃなくて、
“信じられる何か”を、見つけるために歩く」
その言葉に、仲間たちも笑みを浮かべた。
だが、その瞬間――
風が、変わった。
空気の匂いが鉄に染まる。
セリスが剣の柄に手をかける。
「これは……煙? いや、火の気配。どこかの村が――」
「魔力も混じってる。誰かが“戦ってる”」
ルーナが目を細め、アリエルが冷たく告げた。
「“次の扉”が開いたわ。
この旅、まだまだ穏やかじゃいられないみたいね」
真夜は剣を握り直す。
背後には、新たな仲間・ミナ。
そして前方には、燃え上がる戦乱の火種。
彼の旅は――
今、“運命の転機”へと向かおうとしていた。
黒煙が、空を裂いていた。
火の粉が舞い、炭となった木材の匂いが鼻を突く。
丘の上から見下ろした村は、すでに“終わった後”だった。
数時間前まで人々が暮らしていたはずの集落は、いまや黒焦げの骸。
家々は崩れ、土は焼け、魔力の痕跡が不気味に残っている。
「……ひでぇな、こりゃ」
セリスが灰をかき分けながら呻いた。
「これは“自然火災”じゃねえ。
魔力が混ざってる。しかも、かなり邪悪な性質だ」
ルーナは静かに手をかざし、魔力の残響を感じ取っている。
「封印魔術を……強引に、破ろうとした痕があるわ。
誰かが、封印された魔女を“奪おうとした”のよ」
真夜は眉をひそめた。
「封印を……?」
「おそらく、あんたが契約してる魔女と“同種”。
まだ目覚めていない、別の魔女がこの村の地下に封印されてた。
けど、誰かが力づくで引き出そうとして――結果、こうなった」
アリエルが焼け跡から、何かを拾い上げる。
黒焦げの鉄製の爪――いや、これは“戦闘機械の義肢”だ。
「人じゃない。これ、魔導機兵のパーツ……
つまり“誰か”が、魔導機を投入してまで襲ったってこと」
その言葉に、空気が張りつめた。
ミナが一歩前へ出る。
「もし……もしその敵が、“未契約の魔女”を狙っているとしたら……
次は、私たちじゃないの?」
「その可能性はある」
真夜が頷く。
「俺たちが“魔女の力”を刻んで歩く限り――
それを“回収”しようとする奴らがいても、おかしくはない」
ラグナが低く鳴る。
《警戒。戦闘特化型魔導機の残響確認。
契印反応……第五の座、覚醒兆候あり》
「第五……?」
アリエルが振り返る。
「順番でいえば、次の魔女。
封印場所が不明だったけど……この村、まさか……」
ルーナが頷いた。
「おそらくここに封じられていたのは、“欲の魔女”。
その痕跡が、辛うじて残ってる。
でも完全に封印は砕かれたわ。回収された可能性もある」
ミナが拳を握る。
「許せない……私たちのように、孤独の中で封印されていた魔女が、
こんな扱いを受けるなんて……」
真夜は彼女の手を取る。
「だからこそ、俺たちは先に“名を刻む”。
力を奪われる前に、“本当の契約”で、守ってみせる」
ラグナがまた、光を発する。
剣身に浮かんだ紋章が、わずかに紫がかった輪郭を帯び始める。
セリスがそれを見て、唸った。
「まさか……“欲の魔女”が、真夜を呼んでるってことか?」
「その気配はある」
ルーナは真剣な目で続けた。
「“欲”は強いほど引き合う。
誰かが無理に引き出そうとしていたなら、彼女の封印も――揺れてる」
アリエルが風の向きを読む。
「西。熱気と魔力の波が向かってる。
そこに……いるかもしれない。次の魔女、“ヴィオラ”が」
真夜は剣を強く握る。
「行く。奪わせない。
俺が“名を刻む”まで、誰にも触れさせない」
ミナが静かに、だが力強く頷いた。
「私も行く。
次に“信じる”べき誰かが、そこにいるなら……私も、力になる」
仲間たちがうなずき、歩き出す。
燃え残る村を背に、彼らは西へ向かう。
“欲”に囚われし魔女――ヴィオラの封印が、今まさに揺れている。
そしてその先には、“この旅の真の敵”の姿が、少しずつ輪郭を現しはじめていた。
第12話、最後まで読んでくださりありがとうございます。
“嘘を見抜く”という魔女の力に、真夜はどう対峙するのか――
その問いに対する答えが「誠実な触れ合い」だったという展開は、
本作が持つ“絆”と“赦し”のテーマをより濃く浮かび上がらせるものでした。
そして物語は再び動き出します。
契約の裏で蠢く敵の影、砕かれた封印、奪われた魔女の力――
次なる契約は、“欲”を背負った魔女、ヴィオラ。
“刻むべき名”が失われる前に、真夜はその魂に届くことができるのか。
次回、どうぞご期待ください。