105話: 白砂の塔
前回、虚構の作者との邂逅を経て、物語は一気に緊張感を増しました。
今回の第105話では、その余韻を抱えたまま、マユ、レオ、ナナ、そして“俺”が夢空間の新たな領域へ足を踏み入れます。
舞台は一面の白砂の平原。視界の端に現れる塔は、無数の書物と紙片で構成された異形の構造物であり、そこに眠るのは奪われた“名前の素”。
今回は描写を多めに、空間の異様さや戦闘の臨場感を徹底的に書き込みました。
この回から、名前を巡る攻防はさらに深く、さらに苛烈なものになっていきます。
地上に戻ったはずの空気が、わずかに甘い紙の匂いを残していた。廊下の蛍光灯はどれも均一ではなく、一本だけちらつく。磨かれた床には靴跡が斑に伸び、窓の外を斜めに雨が流れていく。さっきまでの“完璧な教室”ではなく、息をしている学校だ。
「戻ってきた……のよね」
エリナが声を落とす。問いというより、確かめるための独り言だ。
「戻した、が正しい」
ナナは指先で空気をすくい、銀糸を一本だけ弾いた。糸は誰にも見えない“目次”に触れ、余白の温度を測るようにきらめいて消えた。
「改稿の流れは止まっている。作者は核に残った」
「見張りは?」
レオが窓枠に寄る。雨粒が外側のガラスを叩き、規則的な音の合間にわずかな乱れを混ぜた。誰かが階段を駆け下りる足音、途中で躓く音、息を飲む気配。全部、戻ってきた“雑音”だ。
「……ここも現実じゃないが、現実を真似している」
俺はラグナの柄を握り直した。刃は鞘に収まったまま、小さく呼吸を繰り返している。火は使わない。使わずに済むなら、それがいい。
階段を降りる。踊り場の掲示板には、角が丸くなったプリントが重ねて留められている。端に走る小さな破れ目に指を這わせると、紙の繊維がふっと起き上がって、指先の体温を吸った。
「マユ」
エリナが俺の袖をつまんだ。視線の先、掲示板の隅に、白い無地の札が一枚、他の紙の影に混じっている。
「まだ残ってる」
「残滓だ」
レオが近づき、指で札の端を掬い上げた。札は微かな静電気を立て、レオの指にまとわりつく。捨てられた呼び名の皮……そういう匂いがした。
「むやみに引き剥がすと、呼ばれる」
ナナが制止の声を出すより早く、俺は袖口で札の表面を軽く拭った。濡れた窓の匂いが混ざる。白は白のまま、けれど、紙の肌理にほんの小さな“くぼみ”が出来る。
「校正の指紋。しるしだけ残す」
札は重みを失い、掲示板から剥がれ落ちた。床に触れる前に、空気の中でほどけ、雨の匂いに紛れて消える。呼び声は来ない。呼ぶべき名を失ったからだ。
「下へ行こう」
俺たちは再び階段を降り、昇降口へ出た。傘立てには数学の教科書が差し込まれていて、持ち主の雑な癖が見える。扉を押すと、雨の音が一気に大きくなる。外はグラウンド、ラインは半分流れ、遠くの鉄棒に雨粒が跳ねて鈴のような音を作る。
「このまま退出しても大丈夫?」
エリナが問う。彼女の髪に雨が一滴落ちて、肩で弾けた。
「念のため、門を“読む”」
ナナが指先を広げ、見えない索引をめくる仕草をする。校門は黒い鉄の柵だが、その間に薄い紙の層が縫い込まれている。出入りの記録、呼び止めの規則、下校時刻の線引き。全部、柔らかい。
「……通れる。門番は寝ている」
門を抜けた瞬間、雨の密度が変わった。降っている量は同じはずなのに、粒のひとつひとつが近くなる。肌に当たるまでの距離が短い。夢が地表に近づいている時の雨だ。
「戻るルート、地上側の“しおり”まで、あと二つ」
ナナが告げる。
俺は歩幅を合わせ、エリナの呼吸に耳を澄ませた。吸って、吐く。吐く時に肩が少し上がる。緊張がまだ出ている。そのままでいい。折り目は、すぐには平らにならない。
校門から道路へ。通学路のマンホールに雨が集まり、小さな渦を作っている。ふと、レオが足を止めた。
「……聞こえる」
「何が?」
俺は目だけで訊いた。レオは答えない。雨音の裏に別のリズムがある。乾いた、三つの打音。カン、カン、カン。石の合図。ここにはないはずの音。
「やめろ」
レオが空へ向かって言う。
「三度目は、要らない」
雨脚がわずかに強くなる。音は消えた。道路の脇に並ぶ家々の表札が濡れて光り、文字の彫りが深く見える。どれも、誰かの名。誰かの生活。
「戻ろう。しおりは商店街の先だ」
俺たちは歩き出す。濡れたアスファルトを踏むたび、靴底が薄く吸い付いて、足の裏に街の脈が移る。パン屋からバターの匂い、八百屋から青い匂い、古本屋から湿った紙の匂い。夢は現実を真似ている。けれど、匂いの重なり方だけは、夢の方が正直だ。
商店街のアーケードに入った時、風向きが変わった。雨は遠くに退き、代わりに古い扇風機の羽音が耳元で回る。シャッターの錆に沿わせて、白い指が一本、音もなく滑った。
「歓迎するよ、監査官」
声は、仮面の裏からではなかった。露出した口元もない。けれど、確かにこちらを見ている気配がある。
「『綴り手』という三脚目、試すなら、舞台がいる」
「舞台なら、ここで足りる」
俺はアーケードの線を見上げた。アクリル板の継ぎ目に水が溜まり、時々大粒になって落ちる。足元の白線は途切れて、また別の塗料で継がれていた。
「読む客も、座ってる」
「読者席は別だ」
反射的に返す声があった。作者だ。核に残ったはずだが、音だけが伝わってくる。あの白い仮面はもう見えないのに、声はここにある。
「別の席があっても、通路は繋がる」
ナナが服の裾を絞り、滴をアスファルトに落とした。滴は円を描いて広がり、白い線に触れて止まる。
「今日はここまで。次の“しおり”を越えたら、夢は一旦閉じる」
「閉じた後、また開く」
レオが言う。自分に言い聞かせるように、低い声で。
「それが読み直しだ」
俺は頷き、アーケードの出口に立った。そこが“しおり”の場所だ。目に見えない折り目が空間に入っていて、前後の場面を確かに区切っている。
「行くぞ」
俺たちは折り目を跨いだ。雨の匂いが遠のき、別の光が差し込む。夢の表面が一枚、静かに閉じる音がした。
閉じた先は、夜のプラットフォームだった。照明は白く、ホーム上の蛍光灯が等間隔で続く。その等間隔が、さっきよりも美しく見えたのは、周囲に“黒”があるからだろう。黒が白を立たせている。
線路の向こう、反対側のホームに人影が一つ。ベンチに腰をかけ、足を組み、膝にノートを広げている。白いマスク。仮面ではない、ただの市販のマスクだ。だが、その白は仮面の白を思い出させる余白だった。
「作者か?」
レオが目を細める。
「違う。似てるだけ」
ナナが首を振る。銀糸が柔らかく震え、ホームの構造を撫でて情報を拾う。
「これは“再読の場”。通過駅。ここで降りる必要はない」
俺はベンチの白を一瞥してから、エリナに視線を戻した。彼女の呼吸は安定している。胸の紙片は静かで、名前は正しく重さを持っている。よし。
「マユ」
レオが声を潜める。
「さっきの三つの音、ここにも残ってる。遠くで、誰かが真似してる感じだ」
「音は真似しやすい。意味がついて回るから」
俺は線路の暗がりを見た。枕木の間に小さな水たまりが並び、駅の灯りを切れ切れに映している。その連なりが、どこかで石と重なる。カン、カン、カン。三度。呼ばれたら、物語だ。
「“三度目を口にするな”は、もう定着しつつある規則ね」
ナナが薄く笑った。
「でも規則は、いつか変更される」
「変更されるなら、合図を変えればいい」
俺はポケットから小さな消しゴムを取り出し、親指と人差し指で軽く弾いた。キン、という金属にもガラスにも似ない、柔らかな音が一度だけ鳴る。
「一度で足りる時もある」
ホームに風が流れ、反対側のベンチの白いマスクがこちらに顔を向けた。目が合った……ような気がした。だが、その目はすぐにノートへ戻る。白はただの白に収まり、余白は余白に戻る。
「電車、来る」
エリナが気づいた。遠くに二つの光。近づいてくるにつれて、レールが低く歌い始める。
「乗る?」
レオが問う。
「乗らない」
俺は首を振った。
「ここは通過駅だ。乗れば“別の章”に入る」
電車は速度を落とさずにホームを通り過ぎ、風だけを残して行った。白い蛍光灯が一瞬だけ震え、すぐに安定する。その震えが、心地よかった。均一は時々、揺れている方が安心できる。
「次のしおりは?」
エリナが訊く。
「駅の外、ロータリーの時計台」
ナナが指し示す。時計は少し遅れている。分針が目安よりもひと目盛り下にいた。
俺たちは改札を抜け、夜の空気に当たった。タクシーの運転席に吊るされたストラップが風に揺れ、カチン、と軽い音を立てる。その音が、レオの肩をわずかに硬くした。
「レオ」
俺は軽く肩を叩いた。
「言葉の代わりに、手で答えろ。ここではそれが強い」
レオは頷き、指で三つの点を描く。点と点の間隔は一定ではない。最初は短く、次は長く、最後は消えるように小さい。三度目を“弱める”。それだけで、合図は別物になる。
「いいね」
ナナが満足げに頷いた。
「規則の重心をずらすのは、いつだって最小の力でいい」
時計台の下に立つと、時刻の遅れが目に心地よかった。正しい時刻は別にある。ここにあるのは、この場所が“読める”ための時刻だ。俺は時計の側面に指を当て、軽く押した。分針が一つ、音もなく進む。
「しおり、通過」
空気の密度が変わった。夢の表面がもう一枚、静かにめくれる。背後で駅のアナウンスが流れ、言い間違え、言い直し、そのまま次の列車の案内に滑った。雑音は生きている。生きている雑音は、道標だ。
「ここから現実までは、一直線」
ナナが言う。
「帰ろう」
俺はラグナの柄に軽く触れた。火は眠っている。眠らせたまま、連れて帰る。
歩き出すと、レオが横に並んだ。顔は前を向いたまま、俺の指に自分の指を重ねる。三つの点。今度は最初が短く、次も短く、最後だけ長い。三度目を“延ばす”。呼ばない、語らない、けれど伝わる。
「……それでいい」
俺は小さく笑った。夜風が頬を撫で、遠くの街路樹が葉を震わせる。灯りは均一ではない。暗い場所も、抜けた場所もある。そこを縫うように、俺たちは歩いた。
現実は目の前にある。けれど、夢は終わらない。終わらないから、読み直せる。読み直せるから、次の頁へ進める。
そういう順番で、生きていけばいい。
虚構の作者が消えた後、夢空間の空気は妙に軽くなった。だが、それは決して安堵だけを意味しない。むしろ、嵐の前の静けさ――そう言った方がしっくりくる。
俺たちは沈黙の回廊を抜け、次の領域へと足を踏み入れた。そこは、果てしない白砂の平原だった。空は薄曇りで、太陽は霞んだ光を降らせている。足音がやけに響き、風もないのに砂はさざ波のように揺れていた。
「……やけに開けてるな」
レオが周囲を見回しながら呟く。
「罠が仕掛けられていそうだ」
マユが低く答え、ラグナの柄に手を添える。
その声に、ナナが首を傾げた。
「視界は広いけど、情報はほとんどゼロ……この空間、観測を拒んでる」
彼女の銀の瞳に、わずかに不規則な光が走る。
歩みを進めるうち、視界の端に黒い影が現れた。はじめは蜃気楼のように揺らめくそれは、やがて輪郭を持ち、塔のような形を成していく。
「……あれは、建物か?」
俺が呟くと、レオが険しい表情を浮かべた。
「いや、あれは“積層した記憶”だ。形を変えて塔になっているだけだ」
近づくにつれ、その構造が明らかになっていった。石造りの壁かと思えば、それは無数の書物や紙片でできている。しかも、一枚一枚にびっしりと文字が刻まれていた。
だが、その文字は読めない。見ようとすると、すぐに形が崩れ、別の文字列に置き換わってしまう。
「ここが……源泉の外郭か」
マユが小さく息をつく。
その時、不意に塔の中腹が開き、中から人影が現れた。
全身を漆黒の外套で覆い、顔は見えない。背丈は俺と同じくらいだが、異様に細い。
「侵入者か……」
声は低く抑えられ、砂の上に落ちる水滴のように冷ややかだった。
「俺たちは“名前の素”を取り戻しに来た」
マユが一歩踏み出し、正面から告げる。
「返す気がないなら、力づくででも奪う」
その一言に、人影はわずかに肩を揺らし、笑ったように見えた。
「名は与えるものだ。奪う行為は、存在そのものを否定する」
次の瞬間、塔全体が脈動を始めた。足元の砂が浮かび上がり、瞬く間に鋭い刃のような形に変わる。
「来るぞ!」
俺はラグナを抜き放ち、構えを取る。
砂刃が一斉に襲いかかり、視界が砂塵で真っ白になる。
マユは盾のように光壁を広げ、レオはその隙間から短剣を投げる。ナナは銀糸を塔へ向けて射出し、動きを解析しようと試みる。
だが、塔はただ防御しているだけではなかった。
砂刃の中に紛れて、名前の断片のような紙片が舞っている。それらが触れた瞬間、俺の意識に異物が流れ込んできた。
――お前の名前は違う。ここでは別の名で呼ばれている。
脳裏に響く声が、俺の輪郭を揺らそうとする。
「くそっ……!」
必死に踏みとどまり、ラグナを振り抜くと、炎が渦を巻き、砂刃を一掃した。
その間にもナナが解析を進めていた。
「この塔、外側は防御だけど……中枢は脆い。直接、名前の核にアクセスできれば崩れる!」
「なら、突破する!」
マユが光壁を一点に集中させ、強烈な閃光で砂塵を押しのける。
レオがその隙を逃さず突進し、短剣で塔の壁を切り裂いた。
露わになった内部は、まばゆい光の粒で満ちていた。それはまるで星空を閉じ込めたようで、一つひとつが固有の“名前”を持っているように見える。
「これが……名前の素……」
俺が呟いた瞬間、塔全体が低い唸り声をあげた。
外套の人影が一歩踏み出し、両手を広げる。
「触れるな。それらは、私が守る」
空気が一変した。砂が消え、代わりに紙片の嵐が巻き起こる。
一枚一枚が鋭い刃のような軌道を描き、俺たちを切り裂こうと迫る。
マユが前に出て防ぎ、レオが反撃、ナナが糸を絡めて動きを封じる。
そして、俺は――ラグナを高く掲げた。
「奪うんじゃない……取り戻すんだ!」
炎が迸り、紙片の嵐を一気に焼き払う。
光の粒が舞い上がり、空に散っていく。それは解放された“名前”が、本来の持ち主のもとへ帰っていく瞬間だった。
塔は軋む音を立て、ゆっくりと崩れ始めた。
外套の人影は一歩も退かず、その場に立ち尽くしていた。
「……次は、お前たちの番だ」
その声が残響のように広がり、人影は光の中へ溶けていった。
残された白砂の平原には、静寂だけが戻っていた。
だが、俺たちの胸の奥では、次に待つ試練の足音が確かに響いていた。
塔との戦いは、ただの物理的な衝突ではなく、存在そのものを揺さぶる精神戦でもありました。
名前を奪うという行為がいかに危うく、そしてそれを取り戻すことがどれほど困難なのか――今回、少しでもその“重み”を感じてもらえたら嬉しいです。
また、外套の人物が残した「次はお前たちの番だ」という言葉は、今後の展開に直結します。
次回、第106話では、この戦いの余波と、新たな領域での不可解な現象が描かれます。
いよいよ夢空間の“中枢”が姿を現す――どうぞご期待ください。