にわか雨
この物語はフィクションです。実在する個人、団体、作者の性癖等とはいっさい関係ありません。
自己紹介をしよう。
僕の名前は石動太郎。高校1年生だ。
訳あって実家から離れた高校に進学したので、アパートを借りて一人暮らしをしている。
僕は、いわゆる帰宅部というやつに所属している。
模範的な帰宅部員である僕は、気象情報のチェックを欠かさない。部活中の天気はしっかりと把握しておく必要があるからね。
今日は傘を持ってきて正解だった。さっきまでの青空が嘘のように急に雨が降ってきたのだ。それもかなり激しく。
足元を気にしながらアパートまで来ると、向かいの家のカーポートの下にうちの学校のジャージを着た女子が所在無げに立っていた。何かの理由で校外に出ている最中に雨に降られて雨宿りをしているといったところか。
ジャージは生地が茄子紺で、学年によって襟や袖口の色が違う。緑は僕と同じ1年だ。って、よく見たら同じA組の氷見さんだった。
癖のない髪質のショートボブ。ちょっと日焼けした顔にぱっちりとした眼。間違いなく彼女だろうと思ったけど、入学して2か月半、特にしゃべった記憶が無い。
だから今もチラッと目が合っただけで、何事も無く僕はアパートに入った。
アパートは学校から徒歩10分。2階建ての1LK。まるで僕のようにこれといった特徴の無い、どこにでもあるごくごく普通のアパートだ。
傘はさしていたけど、ズボンの裾と靴下とスニーカーはびしょびしょだ。
玄関でスニーカーと靴下を脱いだところで、
ピンポン
とチャイムが鳴った。
モニターなどというレアアイテムは装備されていないので、のぞき穴から外を窺うと、さっき見たショートボブが落ち着きなく揺れていた。
ドアを開けると、やはり氷見さんだった。ちょっと困ったような顔で恥ずかしそうにもじもじとしている。
「あ、あの、1Aの石動くんだよね? 私、同じクラスの氷見だけど」
声もどこか切羽詰まっているように聞こえる。
「あ、うん。知ってる」
「石動くん、ここに住んでるの?」
そんなことをわざわざ聞きにきたのだろうか。
「うん、まぁ」
「よかった!」
僕が曖昧に答えると、彼女は雨雲から日が差したようにぱぁっと笑顔になった。
そしてパチンと両手を合わせて拝んでくる。
「お願い! トイレ貸して!」
「は?」
「ジョグしてたら急に雨が強くなって、雨宿りして小降りになるの待ってたんだけど」
氷見さんは早口でそう説明した後、言いにくそうに顔をそむけた。
「その……冷えちゃって……」
横を向く彼女の頬がほんのり赤い。
「こ、この辺コンビニとか無いし」
そう付け加える氷見さんは太腿を閉じてもぞもぞと摩っている。限界が近いのかもしれない。
僕は困っているクラスメイトを見捨てるような薄情者ではないし、「漏れそうなの?」とわざわざ確認するほど意地悪でもない。
「ここ」
と玄関わきのトイレのドアを指さして、使用の許可を出してあげた。
氷見さんは「ありがとう!」の言葉もそこそこに、濡れたランニングシューズを脱いで濡れた靴下のままトイレに駆け込んでいった。
ゴポッジャワワヮヮヮ
すぐに水を流す音がする。まぁ音姫などというハイテクがあるわけでもないし、彼女の行為は当然だろう。僕もこれ以上音の詮索をする気もないので、そっと部屋の奥に避難することにした。
やがて氷見さんは安堵というか安心というか、とても晴れやかな顔でトイレから出てきた。
むろん紳士な僕は、トイレから出てくる女子をまじまじと見たりはしない。素知らぬ顔で洗濯済みの一番きれいなタオルをチェストから引っ張り出していた。
そしてそれを彼女に差し出す。
「よかったら、これ使って」
ぽかんとする氷見さんの髪は、雫が落ちるほど濡れていた。
「髪くらいは拭いた方がいいと思うから」
「そ、そうだね。ありがとう」
氷見さんはちょっと戸惑いながらもタオルを受け取ってくれた。
そして、最初ゴシゴシと乱暴に拭きかけた手を止めて、押さえるようにして髪の水気を拭きとっていく。
そうしてあらかた拭き終わったところで、濡れたタオルを受け取ろうと僕が手を差し出すのと、「これ、洗って返すね」と彼女が言うのが同時だった。
微妙な沈黙が流れる。
僕としては濡れた髪を拭いた程度のタオルなんてわざわざ洗ってもらうほどのこともないと思ったんだけど、氷見さんはどう受け取ったのだろう。若干引いたようにタオルを握りしめているのは気のせいだと思いたい。
差し出した手のやり場に困っていると、彼女の方から沈黙を解消してくれた。
「あ、でも、洗わないで返したほうがいい?」
見ると、いたずらっぽくムフっと微笑んでいる。でも、そんなこと言われてどんなリアクションすればいい?
「どっちでもいい」
思わず口から出た言葉に頭を抱えたくなった。
氷見さんは更に笑みを深くして、
「じゃあ、とりあえず持って帰るね」
とタオルを首に掛けた。
そして、濡れたシューズに足を入れて玄関のドアを開ける。外からはもう雨の音は聞こえなかった。
「トイレありがとう。また明日ね」
氷見さんはバイバイと手を振ってドアを閉めた。
はたして彼女は、明日どんなタオルを返してくれるのだろうか。
そんなことよりも、氷見さんがつけた濡れた足あととか、氷見さんが使ったトイレの便座とかが、この後の僕を悶々と悩ますのだった。
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